華やかな世界を夢見る女性2人が暗殺犯に。事件を扱った映画を見終わっても謎は残る。なぜ北朝鮮は、こんな奇妙な計画を実行したのか──。AERA 2020年10月5日号では、暗殺事件に迫ったドキュメンタリー映画を取り上げた。
【「反抗者は逃がさない」と金正男氏暗殺で示した北朝鮮 実行犯が“口封じ”されない背景】
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2017年2月13日、マレーシアのクアラルンプール国際空港で起きた事件は、世界を驚かせた。北朝鮮の最高指導者・金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長の長兄、金正男(キムジョンナム)氏が、多くの利用者でにぎわう国際空港の出発ロビーで暗殺されたのだ。
実行犯としてマレーシア警察が逮捕したのは、暗殺者のイメージにほど遠い2人の若い女性だった。インドネシア人のシティ・アイシャと、ベトナム人のドアン・ティ・フォン両容疑者。監視カメラには、搭乗手続きをしようとしていた正男氏に、次々とじゃれつくように飛びつき、手のひらを彼の顔になすりつける彼女らの姿が映っている。
正男氏は警察官に助けを求めるが、やがて意識を失い、死亡する。顔に塗られたのは、猛毒の神経剤VXだった。
■2人は死刑の可能性
ドキュメンタリー映画「わたしは金正男を殺してない」(米国、1時間44分)は、米国人のライアン・ホワイト監督らが事件発生時に「すごく異様な事件だ」と関心を持ち、数カ月後にマレーシア入りして取材を始めた。17年10月から1年半続いた2人の公判を傍聴しながら事件の謎に迫った作品だ。
ホワイト氏は当初、2人がファム・ファタル(魔性の女)かもしれないと考えていた。しかし先入観はすぐ打ち砕かれた。
2人のスマホやSNSに残された膨大なメッセージや写真は、彼女らが事件当日までどこへ行ってだれと会い、どんな行動をとったかをつぶさに記録していた。農村の裕福でない家に生まれ育ち、華やかな生活にあこがれ、都会で接客業などをしていた。韓国や日本から来たという男たちに「日本のテレビ番組用にイタズラ動画を撮るので出演しないか」と誘われ、その言葉を信じて指示に従った。見知らぬ男性にいきなり飛びついて顔に「オイル」を塗って逃げるというイタズラの練習を重ね、当日の「撮影」に臨んだ──。
ホワイト氏は膨大なデジタルデータを弁護人から見せられ、無罪を確信した。「すべての記録は、自分たちが重大な暗殺事件の実行犯に仕立て上げられていることを、2人がまったく理解していなかったことを示していた。自分たちがテレビ番組に出演していると、犯行時まで信じ込んでいた」
マレーシア捜査当局は北朝鮮人8人が事件に関与したと発表。しかし4人は事件直後に国外に逃亡し、逮捕した1人も証拠不十分として釈放され、大使館員も含め8人全員が出国した。北朝鮮に戻ったとみられる。
マレーシアでは、実行犯として残された2人に対する公判が続いた。殺人罪が認められれば死刑判決の可能性もある中で進む裁判を、映画は法廷サスペンス劇のような緊迫感を込めて描く。「情勢は2人に不利だった。死刑になるかもしれないと思いながら取材するのは、とてもつらく悲しかった」とホワイト氏は振り返る。
芸能界を夢見たフォン被告は事件後、故郷で「世界は美しくみんな優しいと思っていたけど、いまは本当の世界がよく見える。今後は人を簡単に信じないよう気をつけたい」と語っている。ホワイト氏は「他人を信頼する心が彼女から奪われたと思うと、胸が痛む。しかしこの作品は、他人を信じすぎると世界がどんなに危険な場所になるかということを示している」。
映画は7月に米国内で公開予定だったが、コロナ禍のため延期された。10月10日に東京などで劇場公開されるのが世界初となる。作品は2人に焦点を当てており、北朝鮮関係者の動向が詳細には明かされないため、見終わった後も疑問は消えない。(朝日新聞編集委員・北野隆一)
※AERA 2020年10月5日号
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