現役時代に中日、日ハムで活躍し通算2204本安打をマーク、引退後は日ハム監督も務めた大島康徳氏が、大腸ガンのため6月30日に逝去されていたことが5日、明らかになった。70歳だった。2016年に「ステージ4」のガンの診断を受け、「余命1年」を宣告されたことを公表。評論家活動を続けながら治療の経過をブログ「この道」に綴り、同じくガンと闘う方たちに勇気を与えた。5日、妻の奈保美さんが、大島氏のブログを更新。今春に書き残していたという大島氏の言葉を「この命を生ききる」とのタイトルでファンに届けた。その言葉通りの壮絶な野球人生だった。
「どんな球が来ても腰を引かない」
「心配していたが、あの元気で熱血漢の大島さんが…信じられない」
ネットニュースで見て絶句したというのが昨年まで阪神で7年間、コーチを続けた高代延博氏(67)だ。高代氏は、現役時代の1988年に日ハムで大島氏と1年間プレー。2002年には、日ハムの監督に就任して3年目の大島監督をヘッド兼内野守備走塁コーチとして支えた。数年前にガン公表後に東京ドームに解説にきた大島氏に「お体は大丈夫ですか?」と、声をかけると「こんなもん大丈夫よ。なんも心配ない」と、笑い飛ばしたという。
大島氏は、故・星野仙一氏が、中日の監督に就任した1987年のオフにトレードで日ハムに移籍した。大島、曽田康二と田中富生、大宮龍男との2対2の大型トレード。明治大OBの日ハムの高田監督が「打線の軸になる選手が欲しい」と、明治大の後輩の星野氏に申し入れ、チームの膠着した空気を変えたいと考えていた星野氏の思惑と一致。
「大きくなって帰って来い」と、星野監督は、将来の指導者像を念頭におき大島氏を日ハムへ送り出した。
37歳の大島氏は、日ハムでいきなり4番を打った。
中日時代に本塁打王を獲得していた大島氏は、その年、本塁打こそ15本だったが、全試合に出場して打率.276、63打点の成績を残した。
「闘志があった。どんなピッチャーが来ても、どんなボールで攻められても打席で絶対に腰を引かない人だった」
高代氏はベンチで声を出し続けるリーダーシップが脳裏に刻まれているという。
「日ハムは雰囲気が暗いと評判でね。大島さんは移籍するなりリーダーシップを発揮した。ベンチで声を出し続けて、若手の野手や投手にも声をかけてね。気遣いと優しさのある熱い人。本当に兄貴分としてチームのムードを変えた。いいところで打ったしね」
当時、高代氏は、三塁を古屋英夫、ショートを田中幸雄に奪われ、ベンチを温めていたが、4つ年上の大島にこんな声をかけられた、
「高代。おまえが必要になるときが絶対にある。だから腐らずやるべきことやっておけ」
そのフォローに救われた気がしたという。
高代氏は、その年のオフに広島にトレードに出され、大島氏は、2年後に39歳と10か月で通算2000本安打をマークし44歳までプレーした。大島氏は、引退後、評論家生活をへて、2000年から上田利治監督の後を受けて日ハムの監督に就任した。
1年目はビッグバン打線を率いて、3位に食い込んだが、2年目は主力に故障が相次ぎ、最下位に沈んだ。そのオフに高代氏にヘッドコーチ就任の依頼がフロントサイドからあった。いわゆるフロント主導人事。高代氏は、「大島さんがOKしていなければ受けられない」と条件をつけたという。
「そのとき1、2軍がバラバラでね。大島さんは”なんとかチームをひとつにまとめたい。若手も育っている。力を貸してくれ”と言ってくれた」
年が明けると「一緒に優勝を目指そう」と書かれた年賀状が届いた。
春季キャンプは沖縄の名護。
高代氏は「ファミリーとしてチームを強くしたかったんだと思う」と言う。現地で恒例の地元の方々との激励会があった。中締めがあり、選手や首脳陣は退席するのが通例だが、大島監督が「主軸とコーチ陣はまだ残っておけ」と号令。ワイワイと酒を飲み続けて本音をぶつけあった。休日には「飲みにいくぞ! 高代、スーツに着替えろ!」と命じられ、名護の小さな繁華街に公式スーツ姿ででかけた。
「指揮官がだらしない恰好で飯でも食っていたら示しがつかない」
ダンディだった。
「いつも全力の熱血漢。投げっぷりの悪い投手をよく叱っていたことを思い出す。“調子が悪いときもあるだろう。それでもピシッとしろ。野手が守ってんだぞ。チームのみんなに失礼だ!”とハッパをかけるんです」
当時は、金村暁、関根裕之、岩本勉、下柳剛らの若手がローテーション投手だったという。
「野手では、小笠原道大、田中賢介、金子誠、實松一成らの若手を育てた。とにかく熱い人だった」
だからアウト、セーフの判定でしばしば審判に食ってかかり問題を起こした。退場劇もあった。2002年3月31日の福岡ドームでのダイエー戦で、打球の判定を巡って猛抗議し、それを暴力行為とされて退場。2試合の出場停止となり、高代氏が異例の代理監督を務めた。
結局、5位に終わり、大島氏は、この年に退任した。
「もう大島さんは、契約が切れる年ということもあって、辞めるつもりだった。”あとは高代、おまえがやれ”。そう声をかけてもらっていたんですが…」
ヒルマン監督が誕生すると同時に、高代氏も、そのオフに日ハムを去った。
大島氏が、次にユニホームを着たのは2006年のWBCだ。優勝した第1回大会で、王監督をヘッド格の打撃コーチとして支えた。正捕手として優勝メンバーの1人だった元千葉ロッテの里崎智也氏は、大島氏を「豪快で陽気で裏表のない人だった」という。
「あのときは、韓国やアメリカに負けるなどして劣勢だったけれど、大島さんがチームのモチベーションを下げないように誰よりも元気をだしてムードを作ってくれた。国際試合のコーチって、結局、日本の最高レベルの選手が集まっているので、細かい指導よりも、そういう気持ちの面でのバックアップが大事なんですよ。僕は調子が良かったので、ほとんど何も言われることはなかったんですが、結果が出なくて苦しんでいた福留孝介なんかは、色々とフォローしてもらっていたのかもしれません」
大島氏は、表彰式で優勝のメダルを授与されたとき人目をはばからずに号泣していた。
「それは現場にいて知らなかったんです。あとから聞いて、ほんとに日の丸を背負うことに誇りを持って戦われていたんだなと」
里崎氏は、引退後も野球教室などで、大島氏と一緒になる機会があり、「本当に何も変わらない人でした」と感じた。
だからこそ、大島氏のブログに一部の心無い人たちから、誹謗中傷の投稿があったと知ったとき「ムカつきすぎて黙っていられない。ふざけんな!」と声をあげた。
大島氏は、死の直前までブログの更新を続けていた。
妻の奈保美さんは、5日、大島氏が生前に書き残した文章をブログに掲載した。
「(略)楽しかったなぁ…これ以上何を望む?もう何もないよ。幸せな人生だった。命には必ず終わりがある。自分にもいつかその時は訪れる。その時が俺の寿命。それが俺に与えられた運命。病気に負けたんじゃない。俺の寿命を生ききったということだ。その時が来るまで
俺はいつも通りに普通に生きて。自分の人生を、命をしっかり生ききるよ。大島康徳」
日ハムの現役時代につけていた背番号「11」はダルビッシュ有、大谷翔平に受け継がれ、そしてダルビッシュは、今なお、その背番号「11」を背負っている。
大島氏が「生ききった」魂は、永遠にー。
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