「福島につながっておいたほうがいいんじゃないかなって、多くの人に伝えたいですね」。東日本大震災の発生から10年以上にわたって福島県で支援活動を続けてきた、アーティストのCANDLE JUNE(キャンドル・ジュン/48)。JUNEが福島県にこだわってきた理由とは何か、福島固有の問題とは。そして、そんな彼を取り巻く家族や仲間についても聞いた。(Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
新たな憎しみを生む構造を変えたい
コロナ禍で一時ストップしたものの、「月命日」である毎月11日には必ず福島県に足を運んでいるJUNE。彼が主宰する支援団体「LOVE FOR NIPPON」では、復興住宅や幼稚園、お寺や公民館を訪れ、一緒に食事をしたり、悩みや不安の声を聞いたりといった活動を10年にわたって続けてきた。子どもたちと歌ったり体操をしたりすることもあれば、お年寄りにマッサージをすることも。そして毎年3月11日には音楽フェスティバル「SONG OF THE EARTH」を開催してきた。
その支援の原点には、2001年に広島でスタートした「Candle Odyssey」があるという。テロや戦争などの被害を受けた国内外の場所を訪れ、原爆の残り火である「平和の火」を灯す。その活動を、JUNEは「等価交換」と表現する。
「テロや戦争の被害に遭われた方のお話を聞かせてもらったり、いろんなことを学ばせてもらったりしたお礼として、火を灯す形ですね。ご遺族とお会いするときもあれば、長崎で被爆2世、3世とお会いすることもありました。たまたま何らかの災厄の当事者になったとき、初めて『誰も助けてくれないんだ、もっと社会が何とかしてくれると思ったら、そうでもなかった』という意見をたくさん聞いてきたんです。だから、記憶をつなぎ、人と人をつなぐCandle Odysseyは、自分たちの暮らしが、より安全に、安心におこなっていけるための重要なアクションじゃないかなって考えていたんです」
JUNEは、2004年の新潟県中越地震を受けて、被災地支援を開始。2010年には、ハイチ地震の発生を受けて、MINMIや若旦那(湘南乃風)とともに支援プロジェクト「LOVE FOR HAITI」を立ち上げた。「悲しみが生まれた時にその場所にたくさんの愛が集まるクセをつけよう」。被災地を訪れたり、義援金を集めたりする支援活動について、ENECTのインタビューでJUNEはそう語っていた。
「やっぱり現場に行って、いろんなリアリティーに接すれば接するほど、誰かを敵にすることで、また新たな憎しみが生まれるって構造もわかってきたんです。『NO』と言うよりは『YES』って言うことで変わっていくほうが自然だし、負荷もない。戦争やテロは、非現実的って思ってる日本人がたくさんいるから、災害大国日本では、災害からの悲しみを憎しみに変えず喜びに変える、っていう癖をつけていくことができればいいなって考えました」
東日本大震災を受けてLOVE FOR NIPPONを立ち上げた当初は、福島県、宮城県、岩手県で活動していたが、発災から3年目からは「原発事故の収束まで、何とかお付き合いしたい」と福島県での活動に絞りこんでいった。今、その手ごたえを感じているという。
「福島の仲間たちも『10年間、JUNEさん来ていてくれてるし、一緒にやらせてください』って言ってくれて、今、少しずつ福島で暮らす『支部長』が増えてるんですね。CANDLE JUNEがやってるLOVE FOR NIPPONではなくて、みんなそれぞれのLOVE FOR NIPPONが生まれている。『自分を主語として語れるようになってくれ』って、何年か前から言い始めていたんです。自分が宗教の代表者みたいにならずに、いろんな人たちが、そういう癖をつけていくことができれば変わるかなって思うんです」
福島へのモヤモヤ度が高い人を現地に連れていく
JUNEは積極的に、福島県について興味がある人々を新たに連れていくという。福島県の人々が抱え込んでいるものを解き放つためだ。
「福島では『JUNEさんには話せんだけどね』って言われることが多いし、みんな我慢してるんですよね。『自分よりももっと大変な人がいる、あの人たちに比べたら私は……』っていう感じで、自分たちを表に出していかない。だからこそ、自分が行くことに加えて、新しい人を連れていくってことをしたほうがいいなって考えたんです。日本中に『福島の原発事故って大丈夫なの?』ってモヤモヤしている人はたくさんいると思います。そのモヤモヤを解決するためには、新聞とかテレビとかネットで見るニュースじゃなくて、リアリティーのある福島の引き出しをそれぞれに作るために、『じゃあ、よかったら一緒に行こうか』って、モヤモヤ度が高い人を連れていくようにしていて。震災から6、7年からは、そうすることがむしろ一番の支援になってる。福島の人は、支援活動団体も減ったと感じていて、『もうJUNEさんとこだけだよ、こんなことしてくれんのは』と言います。そこに新しい人を連れていくと、福島の人たち、話したいんですよね。それぞれが映画になってもおかしくないような体験をしているから、興味を持って聞いてくれる人が欲しいんじゃないかな」
2017年のJUNEのブログには、「当事者の福島県の皆さんすら声を上げることが難しくなってきてしまいました」という記述がある。その「声」の正体をJUNEは振り返る。
「人間やっぱり生々しいもんで、補償金の格差に、みんな納得いってないんですよね。同じ村民でも、もらう補償金が違うとか。究極は放射線量の数値で、『高いから避難しろ』って言われた場所の人は、毎月一人頭いくらってもらうじゃないですか。でも、『その数値だったら、うちのほうが高かったんだけど』という地域もある。数値が高いにもかかわらず、補償を受けてない人たちが多いので、そこで最初の軋轢(あつれき)が生まれてしまった。避難して仮設住宅で暮らしても、『おまえたち、いつか帰るんだろう? 補償金もらってるから大丈夫なんだろ?』って言われて、仕事に就けない。それでパチンコに行っていると『補償金で遊んでる』と言われたり。これらがだいぶ福島を狂わせた原因じゃないかなと思います」
JUNEはこの負の連鎖を「決定的になってしまっている」と語るが、それも10年を経て変化が起きているという。
「10年過ぎてからは、福島各地から集まる仲間たち同士も『いや、うち実はこうだったんだよ』とかっていう話をするようになって。打ち解けたからっていう面もあるとは思うんですけど、同時に言語化して共有することで忘れないようにしよう、みたいな雰囲気もあるんじゃないかな」
福島の事情を知ったほうが、それぞれの生活のためになる
JUNEのこうした福島県への取り組みは、実はCandle Odysseyでのテロや戦争に対する姿勢とも通底しているという。
「世界のお金持ちたちのピラミッドの上のほうにいる一部の人たちも、基地の近くに住みたくないだろうし、紛争地域に住みたくないと思うんです。そう考えると、福島のことも、戦争やテロのことも、自分がおこなっていることって、全部つながってるし、つなげていきたいんです。福島につながっておいたほうがいいんじゃないかなって、多くの人に伝えたいですね。世界でも例がない、大きな多重災害だし、それを知っておかないと。他の地域でも原発事故が起きる可能性もあるし。まずは福島の事情を知ったほうが、それぞれの生活のためにもなる。LOVE FOR NIPPONは互助会システムなので、なんとなくつながっておいたら、もし自分に何かあったときに、仲間たちからいろんなサービスがやってくる。すごくちっちゃいんですけど、そういう関わり合い方をしておいたほうがいいんじゃないかなって」
JUNEが10年をかけて福島県でできた仲間もいれば、県外から福島県に連れていった仲間もいる。そして、JUNEの家族もまた彼の活動を支えてきた。
「子どもたちも、月命日の前の日には、『パパ、あした11日だね、気をつけていってらっしゃい』って。何か当たり前になってきてますね。奥さんも、11日はどんなに早い時間でも朝早く起きて、『みなさんによろしく伝えてね』って、送り出してくれる。支援活動がお金になるわけでもないのに、仕事や家族のことをたくさんおこなってくれている奥さんの気持ちを考えると、『何してんだろうな』って、日々、申し訳なさや悔しさもあります。そういう部分が原動力になってるところもありますね。だからこそ、何か形にちゃんとしないとダメだなって気持ちがあります」
JUNEの抱える忸怩(じくじ)たる思い。しかし、それを支えるのは、コロナ禍で自発的に活動してくれるようになった福島の仲間たちの存在だ。彼らとともに未来を切り開こうとしている。
「コロナのタイミングで、福島のメンバーたちが積極的になってくれて。『東京から来れないから、いろいろ確認してきます』とか『学校に行ってメッセージを集めてきます』とか。今までだったら自分が現地に行ってお願いしていたことを、福島のメンバーがやるようになった。だからあんまり今の状況をネガティブに思うことはないですね。LOVE FOR NIPPONは、世間的に盛り上がってるとは言えなくても、仲間になってくれる人は増えてるんです。復興とか平和とかって、『具体的に何?』って、とても表現や評価がされづらいことですが、福島の人たちや県外の人たちが瞬間でも一緒にそう思える時間が持てるようになれたらと。そして、その時間と場所をもっと生み出すことができたら、ってこれからも続けていきます」
CANDLE JUNE(キャンドル・ジュン)
1974年生まれ。1994年からキャンドル制作を開始し、その後、「FUJI ROCK FESTIVAL」などの空間演出を手掛けていく。2001年原爆の残り火である「平和の火」を広島で灯してからは世界各地の悲しみの場所を灯す旅「Candle Odyssey」をスタート。2004年の新潟県中越地震発生後、被災地支援を開始。2010年のハイチ地震を受けて「LOVE FOR HAITI」を立ち上げ、2011年の東日本大震災を機に「LOVE FOR NIPPON」の活動を主宰する。以降、福島県を中心とした支援活動を続けている。
(取材・文/宗像明将)