2万4714人が駆けつけた11月12日は、いつもと違う雰囲気が漂っていた。懐かしいチャントが響き渡り、埼玉スタジアムは優しさに包まれた。
昨季限りで現役を退いた阿部勇樹の引退試合はピッチ内外で笑顔があふれ、主役の笑みも絶えなかった。
「多くのファン・サポーターの方に来てもらい、声をかけさせてもらったメンバーにもほとんど参加してもらいました。その喜びが、僕の表情に出ていたんだと思います。自分自身が楽しんで笑顔を見せてプレーすれば、見ている人も楽しんでもらえるかなと思って」
出場選手たちの顔ぶれは豪華そのものだった。前半、阿部は青いユニフォームを着て、『JEF・JAPAN FRIENDS』の一員としてピッチに立ち、AFCチャンピオンズリーグ2007の優勝メンバーを中心に構成された『URAWA ASIAN KINGS』と対峙。日本代表でともに戦った選手たちとパス交換しながら、昔の自分を思い返していた。
「僕は代表で長くプレーしていませんが、中村俊輔さん、稲本潤一さん、中澤佑二さんは追い越していかないといけない存在でした。ずっと僕らの前を走っていた人たち。あの日、同じチームでボールを蹴りながら、こういう人たちを目標にして頑張ってきたな、と若い頃の記憶がよみがえりました。
俊輔さんは先に海外で活躍していましたし、イナ(稲本)さんは高校生からJリーグに出場し、他クラブですが、僕の歩むべき道を示してくれました。もちろん、ジェフにもいましたけどね。中澤さんは若いときに代表で同部屋になり、ピッチ外での時間の過ごした方を学ばせてもらいました。この人たちの存在があったからこそ、僕も長く現役生活を続けることができたと思っています」
かつて在籍したジェフユナイテッド市原・千葉でともにプレーした中西永輔さんは、当日の出場選手では年長の部類に入る49歳。現役時代はセンターバック、サイドバック、中盤まで自在にこなした。
ポリバレントプレーヤーとして名を馳せた阿部にとっては、ロールモデルのような選手。憧れていた先輩の一人と貴重な時間を過ごせたことはいい思い出となった。
後半は着慣れた赤いユニフォームに袖を通すと、ほっとしたように顔を綻ばせた。
ひとり遅れてピッチに姿を現すと、すっと円陣の中に入った。肩を組む面子は、レッズで長く時間を過ごしてきた仲間たち。ミハイロ ペトロヴィッチ監督のもとでプレーした5シーズン半は、思い入れも強い。
後半開始の笛が鳴り、各ポジションに散るチームメイトの立ち位置を確認すると、郷愁に駆られた。
「隣にはボランチの(鈴木)啓太、左にはマキ(槙野智章)、斜め前には武藤(雄樹)、その先には(興梠)慎三がいました。裏への抜け出しを見逃さないようによく前を見ていたなって。あの感覚は懐かしかった。
ふと右を見れば、ツボさん(坪井慶介)が駆け上がり、左にはバランスを取るヒラさん(平川忠亮)、最後尾には笑顔で守ってくれる周ちゃん(西川周作)もいた。ウメ(梅崎司)も含めて、ミシャ時代のメンバーを中心に組めて良かったです」
それぞれの体に染み込んだコンビネーションは、時が経っても錆びつくことはない。平川コーチのクロスを興梠がワンタッチで落とし、武藤が押し込んだゴールは感慨深かった。当時のトレーニングがフラッシュバックした。
「よく練習しましたよ。あれは分かりやすいシーンだった。今もみんなサッカーと真摯に向き合っているから、できるんでしょうね」
阿部自身の見せ場もあった。お膳立てされて直接FKをセットし、現役さながらの鋭いキックでゴールを狙った。埼スタで決めた現役最後のゴールを思い浮かべた人もいたかもしれない。
伝家の宝刀と言っても大げさではないと思うが、本人は首をかしげていた。
「キックは強みだったかもしれないですが、自分自身でFKが武器だと思ったことはなかったですね」
ただ、かつての持ち味は随所に発揮した。抜け目なくこぼれ球を押し込んだ1点目、GKの逆を突いたPKも真骨頂。
選手時代から緊迫したシチュエーションでも、GKとの駆け引きを楽しんできた。阿部の個性が凝縮されたような得点だった。
そして、後半途中から会場のボルテージはさらに上がった。背番号44を付けた長男の湧心くん、背番号20を付けた次男の凉雅くんが埼スタのピッチへ。サプライズの“親子共演” にスタンドは沸き上がり、父親譲りのサッカーセンスにはどよめきも起きた。
兄弟そろって点を決め、アディショナルタイムには長男のクロスを父親が頭で合わせて、主役のゴールで締めくくり。特別に用意された90分は、かけがえのない思い出として、胸に刻み込まれた。
「あの埼スタの雰囲気の中で、一緒にプレーさせてもらえて、本当に感謝しています。息子たちも知っている選手たちばかりで、すごく喜んでいました。ウォーミングアップでボール回ししたときが一番緊張したようですね。
ゴールを決めて、ファン・サポーターの方から名前をコールされる経験なんて、そうできるものではありません。彼らがまたこういった場所でプレーしたいと思い、もっと頑張れば、可能性があるんだと感じ取ってくれればいいな、と思います」
心揺さぶられたチャントに対しては、出世払いでお返しすることを約束していた。お立ち台に上がり、マイクの前で宣言した。
「また違った姿をピッチで見せられるよう頑張っていきたいです」
すでに新たな人生をスタートさせており、現在は浦和レッズユースのコーチ。高校生たちと一緒にボールを追いかけることはあるが、埼玉スタジアムのピッチで勇姿を見せることはもうないだろう。今は育成の仕事に没頭している。
「ひとりでも多くの選手たちをトップチームに送り込みたいですが、昇格させることが目標ではありません。むしろ、プロになってからが大変。指導者としてはトップで活躍する選手を育てていかないといけないし、選手たちにもその意識を持たせるようにしないといけない」
16歳でアカデミーからトップに昇格し、厳しいプロの世界で生き抜いてきた男の言葉には重みがある。スパイクを脱ぎ、すぐさま飛び込んだ指導者の世界。まだ下積みを重ねているところである。
「いずれは監督として指揮を執りたいと思っています。それが自分の目標です。今後、埼玉スタジアムのピッチに立つ姿をみなさんにお見せするとすれば、それしかないでしょうね」
惜しむようにチャントを歌い続けたファン・サポーターは、再び“阿部勇樹コール“ができる日を、首を長くして待っているはずだ。
(取材・文/杉園昌之)