試合に臨む際、井上黎生人が長い間こだわっていたことがある。
「必ず右足から靴紐を結んで、次に右足のレガースを付けて、それから左足の靴紐をという感じでした」
いわゆる「ルーティン」と呼ばれるもの。
選手にとっては、試合への集中力を高めるために行う大切な『儀式』と言ってもよいものだ。
「そういうのがあると試合に入るスイッチにもなるからと、ガイナーレ鳥取時代に先輩選手に言われて始めました」と井上は振り返る。
そのルーティンを、若かりし頃の井上は毎試合必ずこなしていた。
それから数年間、2021年のファジアーノ岡山在籍時代まで、欠かさず続けていたという。
だが実のところ、そういった厳密な決まりごとを意識すること自体に、窮屈さを感じる自分もいたそうだ。
「そういうルーティンにこだわっているのも、しんどいなと思う時期もあって……。逆にストレスに感じることもあったんです」
転機が訪れるのは京都サンガF.C.移籍後まもなく。
ある試合の前、たまたまそのルーティンをこなせないときがあったのだ。
「でも、結果的に大してプレーは変わらなかったんですよ」
そう言って、井上は快活に笑った。
その日以来、試合前のルーティンを過剰に自分へ課すことを、彼はやめた。
もっと自然に試合に入れるように――。
そう考えるようになったのだという。
一度は先輩からの助言を金科玉条のごとく実行していた井上。
ある意味では、その過去は非常に「井上黎生人」らしいことだと言えるのかもしれない。かつての自分について、彼はこんなふうに振り返るからだ。
「鳥取のときも岡山のときも京都のときも、自分が一番下だと思っていたんですよ。自信がなかったわけでもないですし、かといって過信していたわけでもない。ただただ、とにかくいろんな選手から学んでいこうという気持ちが強くありました」
選手としての学習意欲の高さ。試合前のルーティンを採り入れたのも、その熱意があったからこそだろう。
しかし、プロとしてのキャリアを着実に積み重ねていく過程で、井上は取捨選択ができるようになっていく。自分に合うことと、合わないことの選択を。
いかに自然にゲームに入るか――。
その点を井上は重視し、取捨選択をしていった結果、現在実行していることがある。
キックオフ直前の深呼吸だ。
チームメートとの円陣を解き、自分のポジションに着く。両手の指を組み合わせ、腕を頭上に大きく伸ばす。目を瞑って息を吸う。
「ゆっくりと吐き出して、それから目を開けます」
時間にすればわずか数秒の行為。
「深呼吸する前まで『スイッチがオフ』になっているわけではないんですけど――」
井上はそう注釈を入れる。試合開始直前のこの行為は、「スイッチオン」ではなく「ギアをさらに一段上げる」と評するのが適切なのかもしれない。
深呼吸をした井上が、目を開ける。
目の前に広がるピッチの上で、まもなく主審の笛が鳴り響く。
そうやって、彼の闘いは始まる。常に、チームの勝利を目指して――。
(取材・文/小齋秀樹)