いつのころからだろう。
テレビ新広島の報道記者である私は、「原爆ドーム」という名称について違和感を持ち始めた。
平和公園をはじめ、原爆に関係する施設には「平和」と冠せられることがほとんどだからだ。
調べ始めると、意外なことが分かった。
原爆ドームという名は「いつ、誰が名付けたのか、明らかではない」ということだった。
8月6日の悲劇を後世に伝える建物の名が、なぜ――。
その背景を掘り下げていくと、歴史に埋もれた意外な事実が次々と浮かび上がってきたのだった。
ドームにだけ残された「原爆」の文字
世界で初めて原子爆弾が投下され、何もかも焼き尽くされた広島市。
当時「75年間は草木も生えない」と言われた節目の年が過ぎ、今年で76年が経過した。
今、繁栄を遂げたこの街の中心で原爆ドームは当時の惨状を伝えている。
原爆報道に携わって15年になる私は、広島県の隣にある基地の街、山口県岩国市で育った。
子供のころ、米軍機が頭を押さえつけるようなごう音を響かせながら、上空を飛んでいく様子をよく眺めていた。
原爆ドームを見るとき、あの日、ひとつの都市が一瞬にしてなくなるとも知らず、青い空に爆撃機を見上げた人々のことを思う。
原爆ドームのある平和公園には原爆に関する様々な施設がある。
少し変わった白い建物は「平和記念資料館」。
原爆犠牲者の遺品や被爆の惨状を示す資料が収められている。
正面には亡くなった人々の名簿が奉納される慰霊碑「平和都市記念碑」。
「平和の灯」は核兵器廃絶を願って燃え続けている。
このほか、「平和の鐘」「平和の池」など、公園内の施設の多くは、「平和」という名前が付けられている。
その中にあって「原爆ドーム」は、名前に「原爆」の文字が残されている。
それは、なぜなのか。
原爆で廃墟となった建物
「原爆ドーム」と呼ばれる建物は、元はチェコの建築家ヤン・レツルが設計し1915年に建てられた広島県産業奨励館。
県内の物産をPRするため展示や販売を行っていた。
日本では珍しいドーム型の屋根は、街のどこから見てもよく目立った。
日本各地で空襲が激しくなる中、市民の間では、次は「ドームが攻撃目標になるのでは」と噂されていたという。
1945年8月6日。
悪魔のような核兵器が空から降ってきた。
午前8時15分にドームの南東160メートル、上空約600メートルで爆発。
爆心地付近の温度は3000℃から4000℃に達し、一瞬にして広島の街は破壊され約14万人※が亡くなった。(※1945年12月末まで)
産業奨励館は大破し、ドーム型の屋根は鉄骨がむき出しになったものの建物はかろうじて持ちこたえた。
原爆がほぼ真上で爆破し、またドーム型の形状がダメージを分散させたのではないかと言われている。
では、この廃墟となった建物を誰が「原爆ドーム」と呼んだのか。
4カ月後に「ドーム」の記録
原爆投下から23年後の1968年に広島市が出版した本を調べてみると、「原爆ドームの呼び名は、いつ、だれによって名付けられたかは明らかではない」と書かれていた。
そして、どうやらこの疑問に対して過去に調査や研究が行われた形跡がないことが分かった。
広島市立中央図書館には原爆に関係する文献を揃えたコーナーがあるので、年代順に読んでみることにした。
すると、広島文理科大学(当時)の小倉豊文さんが、原爆で亡くなった妻のことをつづった「絶後の記録」という本の中に私は手掛かりを見つけた。
「西のはしの産業奨励館のドーム…」という一文があり「ドーム」という言葉が使われていた。
この文章が書かれた日付も載っていて、原爆投下からわずか4カ月後の記録だと分かった。
大学の先生だから「ドーム」という英語を使ったのだろうか。
核心に迫る答え
さらに私は「原爆ドーム」の呼び名の手掛かりを探すため広島に住む被爆者500人にアンケート用紙を送り、「廃墟となった産業奨励館を何と呼んでいたか?」「なぜ原爆ドームと呼ばれるようになったかを知っているか?」などを尋ねた。
すると、1カ月後に80通ほどが返ってきた。
ところが、封を開けてみると「不明」「知らない」という答えばかり。
被爆者から手掛かりがつかめないことにひどく落胆したが、そのうちの1通にこんなことが書かれていた。
「昭和23年ごろには原爆ドームと呼んでいた」
核心に迫る答えだ。
原爆投下から3年後には現在の名称で呼ばれていたことになる。
もう一つの「ドーム」
私はすぐにこのアンケートをくれた松江達樹さんを訪ねた。
松江さんは当時、広島市中心部に自宅があったが、原爆が投下された日は疎開先にいたため無事だった。
「うちの近くに崇徳教社という、いくつかのドームがある建物があった。産業奨励館と似たような屋根でね…」と松江さんは話し始めた。
核心に迫る証言をする松江達樹さん
原爆投下前の10年間、1935年から1945年の話だという。
当時の地図を調べてみると、その建物は確かにあった。
崇徳教社は浄土真宗の施設で、原爆で焼けたため、今はない。
松江さんは続けた。
「3つ丸い屋根があったと思う。その建物の記憶があったから“原爆ドーム”と自然に言うとったよ。僕や近所の者は」
崇徳教社と原爆ドームとの距離は約800メートル。
この辺りの人たちは、戦前から2つの建物をドームと呼び、原爆投下の3年後、1948年ごろには焼け残った産業奨励館のことを「原爆ドーム」と呼んでいたことが分かった。
2年の空白期間
私は地元の新聞記事も年代を追って調べた。
すると、1947年6月の夕刊に「商工陳列館のドーム」(夕刊ひろしま1947年6月1日)という記事を見つけた。
翌年には「産業奨励館の焼け落ちて残ったドーム」(夕刊ひろしま1948年8月5日)とも。
ドームという表現は使われているが「原爆ドーム」ではない。
そして原爆投下から5年後「原爆ドーム」(中国新聞1950年6月23日)の文字が初めて紙面に現れた。
これ以降、「原爆ドーム」という名前を新聞でも、時々使うようになるのだが、少なくとも地元の人たちが「原爆ドーム」と呼び始めてから2年以上の空白がある。
「平和記念ドーム」の地図
私は千葉大学に原爆ドームについて詳しい研究者がいると聞いて訪ねた。
大学院工学研究院の頴原澄子准教授は、ある地図を見つけて驚いたという。
「1950年に発行された地図に旧産業奨励館のことが、平和記念ドームと書いてあったんです。『原爆』という言葉と『平和記念』という言葉は、随分意味合いが違う。まるで逆の意味合いなので、とてもびっくりしました」
原爆投下から5年後の地図には、なぜ「平和記念ドーム」と書かれていたのだろうか。
原爆は「不幸中の幸い」
原爆投下から2年後、広島市で第1回「平和祭」が開催された。
戦後、日本を占領下に置いたアメリカをはじめとする連合国軍の代表者が参列する中、集まった市民を前に広島市の浜井信三市長は「平和宣言」を行った。
「原子爆弾によって不幸な戦を終結に導く要因となったことは不幸中の幸い」
自らも被爆者である浜井市長は原爆を批判することもなく「8月6日は世界平和を招来せしめる機縁を作った」と読み上げた。
そして、この翌年の「平和宣言」からは「原爆」という言葉さえ完全に消えることになる。
翌日の全国紙を調べると、アメリカのマッカーサー連合軍司令長官が平和祭に寄せたメッセージが大きく取り上げられていた。
マッカーサーは「広島の教訓を生かせ」と日本人に伝えていた。
記事には「平和への第一発が破裂した広島」と紹介されていた。
一方で、原爆の被害については一切書かれてはいなかった。
禁じられた「原爆」
終戦の翌月、占領政策を行ったGHQ(連合国軍総司令部)はプレスコードを発令した。
新聞や出版などを監視して不都合な表現を取り締まったのだ。
私は言論統制に詳しい女性が千葉県の老人ホームにいると知って訪ねた。
堀場清子さんは広島で被爆後、早稲田大学に進学した。
「原爆投下の翌年の2月に東京に行きましたが、誰も原爆被害のことを知りませんでした。大学に入ってからその話をしたら、みんな目を見張って驚きました。何も知らなかったのは、報道しないからよ。新聞だって大して載せないし」
通信社の記者をしていた堀場さんは50歳を過ぎてアメリカへ渡り、検閲関係の資料を調べ上げて一冊の本にまとめた。
「禁じられた原爆体験」にはアメリカがいかに原爆の被害をひた隠しにしたかが書かれている。
「実例を見せましょう。ほら、これ」
堀場さんは検閲された資料をテーブルに広げた。
目次にあった「原子爆弾」の項目が検閲後にはなくなっている。
「原子弾に焼かれ…」と書かれた詩のページには発売禁止処分を示す「suppress」の大きな文字が。
「原爆」や「8月6日」といった言葉を使った文章は、ことごとく削除され、広島と長崎に落とした「原爆」の悲惨さは、加害者の手によって消し去られた。
「細かく見ていますね。徹底的にやっています。共感をそそって反米意識を起こされても困るし、ましてや直接的にアメリカを非難することは許しがたいし…」
原爆投下を正当化するためアメリカはあらゆる手段を講じた。
暗黙の了解
早稲田大学で公文書研究を通して近代史を調べている有馬哲夫教授は次のように指摘する。
「1945年から7年間、広島市の当局者と占領軍、アメリカ政府の話し合いにより、あうんの呼吸で『原爆』を『平和』に読み替えることが慣習化されていました」
有馬教授はこの事実を裏付ける文書をアメリカで入手した。
広島市の浜井市長がマッカーサー連合軍司令長官に宛てた手紙。
「8月6日をわざわざピースデイ、平和の日と呼ぶことにしようという内容です」
爆心地近くに設置された慰霊の鐘は、暗黙の了解で「平和の鐘」と呼び合っていた。
「最初『ピースデイ』と呼んだ段階でみんな察したと思う。つまり、平和と使わなければいけないんだ。原爆のことは平和と言い換える決まりなんだと思ってしまった。経済復興のためにアメリカからの支援が必要だという心理的状況の中で、そんたくが自然に起こってきたと思います」
廃墟に「新たな命」と「使命」
原爆ドームは廃墟となったまま、ただ崩れ落ちるのを待っていた。
しかし、あることをきっかけに一気に脚光を浴びることになる。
1949年、広島市は国の援助で爆心地に平和公園の整備を進めていくことになった。
公園を設計したのは当時、東京大学助教授だった丹下健三氏。
国立代々木競技場や東京都庁舎などを手掛け「世界のタンゲ」と呼ばれた建築家だ。
丹下氏は原爆資料を展示する建物と祈りの場、原爆ドームを一直線に配置するという画期的なデザインを提案した。
原爆ドームが、まさに公園のシンボルとなった。
丹下氏は放置されたままの廃墟に新たな命と使命を吹き込んだのだ。
被爆者の心からの叫び
1952年4月28日、7年間に及ぶ日本の占領期間が終わった。
そして、ここからせきを切ったように原爆被害を伝える記事が出始める。
「原爆被害の初公開」をうたった雑誌では、全身に熱線を浴びてやけどを負った被爆者の写真などを掲載。
70万部増刷されたこの雑誌で、多くの日本人は初めて原爆被害の真実を知ることになった。
「アサヒグラフ 1952年8月6日号」(朝日新聞社)
翌年には、広島で撮影された映画「ひろしま」も公開された。
被爆者など9万人近い市民が協力し、原爆投下直後の惨状を再現。
この映画には、次のようなセリフがある。
「原爆の恐ろしさと非人道的なことを世界の人たちに叫ぶ前に、まず日本人に分かってもらいたい」
被爆者の心からの叫び。
原爆ドームはその象徴となったのだ。
息を吹き返す「原爆ドーム」
占領が終わった翌年の8月6日。
原爆市長と呼ばれた広島市の浜井市長が宣言文を読み上げた。
「1個の原子爆弾が残した罪悪の痕は、今なお、消えるべくもなく続いている」
6年ぶりに原爆という言葉を使い、その行為を強く非難した。
1953年の広島市市勢要覧を見ると、地図に「原爆ドーム」と書かれていた。
こうして、公にも使われるようになったのだ。
「原爆ドーム」という名前が、次々と息を吹き返していった。
「忘れろたって忘れられない」
原爆ドームの向かいに、かつて一軒の病院があった。
父親の跡を継いだ原田雅弘さん。
原田さんはあの日、朝8時に産業奨励館の前を通って、路面電車で疎開先へと向かっていたため、助かった。
私が原爆ドームの名前について尋ねると、原田さんは少し怒気をはらんだ声で、こう切り出した。
「あれだけは残ったんだ、原爆の名前が。あとは全部消されたんだから。平和公園にしたって、もとは原爆公園なんだ」
「本当のことを言う人が必要だ」と取材に応じてくれた原田雅弘さん
毎年8月6日、自宅のあった場所で祈りを捧げていた原田さん。
今年(2021年)6月に93歳で亡くなった。
真実を知る声が、また1人、聞けなくなった。
あの日、広島で何が起きたのか。
原爆の事実が、隠ぺいされていた時代を乗り越え、その名前はよみがえった。
「原爆ドーム」という名前は、広島市民によって語り継がれ、真実を伝える名として今に遺されたのだ。
あの悲劇を、けっして忘れないために。
※この記事はテレビ新広島(TSS)によるLINE NEWS向け特別企画です。