その時、彼はなんと声をかけたのだろう。
戦後間もない広島の港に、心細そうにたたずむ4人のきょうだいがいた。
台湾から引き揚げてきた彼らは、戦禍で日本人の両親を失った孤児だった。
日本に帰ってきたはいいが、行く当ても引き取り手もない。
そんな4人に近寄る若者がいた。
彼の名は上栗頼登(かみくり・よりと)。当時、まだ26歳。
原爆に焼かれた広島で独力で孤児院を開いていた。
名もなき陸軍兵だった彼は、なぜ自らの人生を投げうって孤児と生きようとしたのか。
原点は8月6日に見た地獄、そして消すことのできない「悔い」にあった―。
運命を変えた8月6日
1945年8月6日。
上栗は、ひと晩だけの休暇をもらい広島市郊外の実家に戻っていた。
そこで「運命の時」を迎える。
午前8時15分。
南の空から刺すような強烈な光と爆風。
上栗は軍服に着替え、すぐに広島市中心部にある部隊へと向かう。
上栗の長男・哲男(てつお)が当時の様子を聞いていた。
「たくさんの人がもう、服なんか焼けて、ない。もう、皮膚が溶けてる人もいる。そういう人が、父の水筒を見てですね、『兵隊さん水ください…』と」
上栗頼登の長男・哲男(現新生学園園長)
「ところが、当時の軍医、軍隊のお医者さんから『大火傷をしている者に水を与えちゃいかん。水を与えると死ぬ』と。殺すようなもんだということを、鉄則を受けておったものですから、“この人たちに水を与えたら死ぬかもわからん”と、殺したらいかんと思って、水筒を隠したんですね」
たどり着いたのは爆心地から北北西へ1.2キロの横川橋。その橋のたもとで、赤ん坊の力弱い泣き声を聞いた。
哲男が語る頼登の被爆体験
「父が近づいてみたらもう、そのお母さんは死んでいて。赤ん坊は火傷してるけど、まだ命はある。でも、もうこの子も死ぬだろうと。苦しいだろうと。で、唯一水筒のふたを開けて、その赤ん坊の口に水をふくませたそうです」
それだけではなかった。力尽きて倒れた人たちのうめき声。髪は逆立ち皮膚を垂れ下げながら水を求めてさまよう人々。苦しむ人たちを目の前に何もできず、ただただ地獄の中を歩いた。
この時、上栗は、自分は一度死んだと思った。そして、これから生きていけるなら、あの赤ちゃんのように親を亡くした孤児たちをみようと決心したという。
焦土の広島に救いの手はなく
終戦から2か月が過ぎた頃から、引揚者を乗せた船が広島に入港し始める。
当初は復員省(のちの厚生省引揚援護局)が引き揚げ業務にあたっていたが、それは一時的な援護にすぎず、引揚者の生活支援は管轄外だった。
日本に帰り着くまでに栄養失調や肺炎で亡くなる引揚者は後を絶たず、たとえ上陸しても、身寄りのない人を収容する施設はなかった。
せめて、子供だけでも…。
入隊前、大学で社会福祉を学んだ上栗は、旧陸軍の兵舎を借り受け、軍の退職金2000円を元手に、引揚孤児収容所を始めていた。後の児童養護施設「広島新生学園」だ。
学園の開設から2カ月間で収容した子供は220人。しかし、栄養失調や病気で40人が亡くなった。
中には、名前もわからないまま亡くなった引き揚げ孤児もいた。フィリピンや台湾といった南方から引き揚げてきた子は、苗字を「南」とし、架空の名前で見送った。
今も新生学園に残る納骨堂には、「南千代子」「南花子」という名前が書かれた遺骨10柱が納められている。
きょうだい4人で台湾から引き揚げ、新生学園に身を寄せた白石春雄の妹も、帰国してまもなく亡くなった。
白石春雄の証言
収容施設とはいうものの
原爆の爪痕が残る広島。戦後の混乱。
そのころの新生学園には、十分な食べ物も衣服もない。施設自体も狭かった。
寝る時は1枚の毛布の上に子供が3人。まるでおしくらまんじゅうのように身を寄せ合ったという。
当時の職員の日誌には、園児たちの健康を案じる思いが綴られている。
「寒さが一日ましにひどくなる。幼児、寒さのためか、よく泣く。食事もなんとか考えていただけませんでしょうか」
「誰にも腹一杯、食べさせてやりたい。暖かくしてやりたい。子供たちが暖かい衣服がまとえるのなら、上栗が裸で歩く」
相次ぐ”逃亡”
厳しい規律が求められる集団生活の中、施設より路上の方が自由だと、逃げ出す園児も後を絶たなかった。逃亡はひと月に延べ100回以上に及んだ。
「団体生活に暴力はつきものと言いますが、それはほんとうの事です。強い者は弱い者の食べ物をへつったり(とったり)しました。その頃の学園は弱肉強食の時代です。それにたまりかねた僕は第一(回目)の逃亡を企てました」
「子供たちが毛布2枚と、憲兵マントを持ち出す。炬燵に掛けていた毛布を火の中にけりこんで、毛布2枚、布団1枚、やぐらを焼く」
中にはどこから持ってきたか、ナイフを手にする子まで出てきた。事をしずめようと、上栗は驚くべき行動に出た。
引き揚げ孤児の白石春雄は、こう回顧する。
「みんながあんまりにも悪い行動をするので、(上栗園長が)包丁で自分の手を切ったことがある。みんなを集めて。ゴリゴリという音がして、やめてくださいって言った」
当時、上栗は独身。もちろん子供を育てた経験はなかった。ましてや20代と若く、教育者というわけでもなかった。
愛情だけでは、どうにもならない現実。
何とか支えたいという上栗ら職員の思いを受け取るには、子供たちは幼過ぎた。
子供を「利用」する大人
当時、広島駅には路上生活をする子が数えきれないほどいたという。
その中の一人だったある男性は、当時の生活をこう語る。
「駅を利用する通勤の人が新聞を捨てて行く。その新聞がただ1つの食べ物。柔らかくて食べられた。小さい子は、みんな飢えと寒さで死んでいく。死んだ子はすぐ、ゴミと一緒に焼かれた」
盗みはおろか、人を傷つけることだっていとわない。そうしなければ、生きていけなかった。
そんな彼らを「利用」する大人もいた。“やくざ”だった。
子供たちに靴磨きの道具を与え、屋台の手伝いをさせた。生活のすべを持たない孤児たちは、そこにすがらざるを得なかった。
後に新生学園に保護された子供たちの中にも、似たような体験をした園児は多かった。
「僕は帰る家がないので駅で困っていた時に、27、28歳の若い男の人が来て『君、家がないのか』と聞いた。それはやくざの親分でした。僕はどろぼうやスリをならいました」
「岸壁の子」たちのさみしさ
上栗はわかっていた。子供たちに必要なのは、「暖かい家族」だと。
上栗の長男・哲男は振り返る。
「夜にお父さんお母さんが帰ってくるかもしれないと、新生学園を抜け出して、(広島県西部の)大竹港や(広島市の)宇品港の岸壁で待っている『岸壁の子』というのがいた。ところが、誰一人親は帰って来なかった」
当時17歳男子の、こんな作文が残っている。
「記憶しているだけでも12回逃亡した。普通の家の煙筒から煙が立つのを見たりすると、何となく淋しくなり、止めどなく涙が出て、今まで堪えて居た孤独感が爆発して、声を出して泣けて泣けてしかたがなかった。
『どうせ僕なんか、親無し子の浮浪児なんだ』と力いっぱい叫ぶと、また後から涙が出て、孤独感と絶望と腹立ちまぎれがゴッチャマゼになり、捨鉢気味になる。心の面影の愛着にたえかねて逃亡する自分は意志薄弱なのだろうか」
どうすることもできないさみしさを抱えた子が、100人、200人…。上栗ら職員が向き合った困難は、いかほどだっただろうか。
せめてもの「生きる楽しみ」を
孤児たちが心に抱く悲しみを、ひとときでも忘れさせたい。上栗たちは、子どもたちの誕生会やクリスマス会を開くなど、さまざまな工夫をした。
「春には、桜の花見に行くのでした。心をこめて作って下さった折り箱の日の丸弁当を川のほとりで桜の花を見ながら食べた味はまた一だんとおいしいものでした」
「秋には、山にハイキングに行き、どんぐりや栗の実を拾ったりしたものです。おいしそうなオレンジ色の柿の実が落ちないかなーと願いつつ木の下に座り込んで空を見上げていた思い出もあります」
こんな手記もある。
「学園生活を思い出す時は、押し入れの奥にしまい込んだおもちゃ箱を開ける時のような楽しさで、良かったことばかりが思い出されます。といっても、当時からそう思っていたわけではなく、養護施設に入っているという不幸感などもあって、つらく感じることの方が多かったように思います」(原文そのまま)
親がいないからこそ、教育を
開園から2年が過ぎたころ、少しずつ子供たちも落ち着きを取り戻していった。
学園は、孤児の収容から、次の段階へと進もうとしていた。
上栗がたどり着いたのは、「この子たちには教育しかない」という結論だった。
家族や家庭という後ろ盾を持たない子供たちが、社会に出て自分の人生を切り開くには、とにかく学ぶしかないと考えた。
学校に通える算段がつき上栗たちは期待に胸を膨らませた。教育で子供たちは変わる、と。
しかし、学校で子どもたちを待ち受けていたのは、冷徹な仕打ちだった。
上栗の教え子である白石春雄は、よく覚えている。
「同級生とその親、両方からいじめられた。学校に行ったら物を盗るんじゃないかっていう風に見られた。何か無くなったら私たちのせいにされる。『新生学園の子供が盗ったのだろう、あんなのは学校から追い出せ』と言われた」
たとえ「役所」が相手だろうと
上栗は、白石ら多くの園児を高校へ進学させようとした。
戦争が終わってまだ数年。高校に通うこと自体が珍しい時代。孤児に高校は必要ないという考えが、教育現場にさえあったという。
社会から支援を受ける者は、常に低い立場であれ。
上栗の前に立ちはだかったのは、そんな世間の冷たさだった。
上栗の長男・哲男が振り返る。
「ある日、父が高校の校長から呼び出され『孤児に高校は贅沢だ』『働きに出せ』と言われた。『親がいない子供だからこそ、高校卒業という資格を取らせてやりたいんだ』と父は大喧嘩した」
上栗は折れなかった。県庁だろうと、教育委員会だろうと、正論で立ち向かった。そうして、子供たちの「進学」を守った。
子供たちも少しずつ変わっていく。早朝に起きて勉強する子。園の運営を手伝う子。
一度は世間を恨んだはずの子らが、今度はそこへ羽ばたいていくため、自立の道を歩み始めようとしていた。
白石は高校を出て、新生学園の卒園生で初めて国立大学に進んだ。小学校教師となり、校長まで勤め上げ、36年に渡って子供たちと向き合った。
白石は今でも、上栗の写真を肌身離さず持ち歩いている。
頼登を回顧する白石春雄
「死ぬまで写真を持っているでしょう。私を育ててくれたのは上栗先生ですから」
「2000人」の父が遺したこと
しかし、そんな白石でさえ、自らが「孤児院」出身ということを世間に明かすことはなかった。
いつどこで、偏見にさらされるかはわからなかったからだ。
白石がようやく自らの出自を語るようになったのは、教職を終えようとする頃だった。
上栗が支え続けたのは、それほどまでに重い過去や現実を背負わなければならない子供たちだった。
中には重圧に耐え切れず、身を持ち崩した子もいた。
しかし、それ以上に、上栗という青年が立ち上がったことで、生き直せた子供もいた。
終戦から50年目の1995年。
上栗は76歳でその生涯を終える。育てた子供は2000人以上にのぼった。
焼け跡のバラックから始まった新生学園は、戦後の都市計画に伴い東広島市に移転。
学園で生活する子供たちの背景も、施設を立ちあげたあの頃とは変わっていった。
児童虐待や育児放棄…家庭が崩壊し、置き去りにされた子供たち。
上栗はそんな子供たちも、戦争孤児同様、正面から受け止めた。
そして、その遺志は、長男・哲男へと引き継がれている。
「今も様々な事情で施設にやってくる子供たちがいます。親の事情や家庭の事情。戦災孤児の時代とは違っても、子供たちには温かく支える人が必要なんです。そうした父・頼登の思いが、心の中で常に大きく渦巻いて今日まで私を鼓舞し、児童養護に携わらせてくれているのです。」
戦争で傷つけるのも、傷つくのも、そして、手を差し伸べることが出来るのも同じ「人間」だ。
原爆の焦土の中、1人の青年は自らの心に従い、そして動いた。
せめて最期の水を差しだせばと…。そして、あの日の後悔を、繰り返さないために。
新生学園には今も、上栗頼登の碑文が残されている。
「あわれ 業火に溶け滾る(たぎる)
原爆に焼かれ尽きる命とわかっていたのだから、せめて水を飲ませてあげればよかった。たくさんの仲間たちが悲しみの中で、天に召されたあの日のことが今も悔やまれる。
※この記事は、テレビ新広島によるLINE NEWS向け特別企画です。