8歳の少女の前に、全身にやけどを負った人が次々とやってくる。
皮膚がただれ、顔がどこかもわからない。立ちすくむ少女の足をつかみ、助けを求めてくるのだ。
「水、水・・・」
そして、息絶えていく。
小学2年生の女の子にできることなんて、なかったはずだ。ただ彼女は、彼らが死んだのは自分のせいだと責めるようになってしまう。
「夜は怖い夢を見る。そして、いつまで経っても誰にも言えない。私は人を殺してしまった。夜な夜な嘆き悲しみました。一生、だれにも話さない、と」
あれから78年が経った今年5月、広島で初めて、先進7ヵ国首脳会議(G7サミット)が開かれた。あの時の少女は、被爆者を代表し、たった一人で各国首脳の前に立つことになった。
被爆体験をひた隠しながら、2人の子を育てる専業主婦だった彼女が「平和の種まき」をするようになったのは、愛する夫の死がきっかけだった。
小倉桂子さん、86歳。
G7期間中、彼女にはどうしてもやりたいことがあった。多くのマスコミの耳目を集める中、ひっそりと行動を起こしていた。どうしても会いたい人がいた。伝えたいことがあった。
匂いまで詳細に覚えているあの日の記憶
1945年8月6日。8歳の小倉さんは学校を休んでいた。
その前日の5日は不思議な夜だった。空襲警報が鳴る。防空壕へ逃げる。しかし何事もなく解除となる。そして、また空襲警報…。不気味に思った小倉さんの父は、翌朝、こう告げた。
「今日は学校に行っちゃいけない。何か嫌な予感がする」
そして運命の8時15分を、爆心地から2.4キロの自宅で迎えた。
ピカッと光って、見ているものがみんな真っ白になった。次の瞬間、ひどい爆風に吹き飛ばされた。地面にたたきつけられて、意識を失った。
台風か竜巻の中にいるようだった。息ができず、立っていることもできなかった。
何時間、気を失っていたのだろうか。小倉家は奇跡的に皆、無事だった。
しかし、その後に小倉さんが見たのは、地獄だった。焼けただれた皮膚を引きずりながら、水を求めさまよい、果てていく人たち。幼い自分の足をつかみ、助けを求める人たちに対し、何もできなかったことが、強烈なトラウマとなって残った。
ただ、被爆について口をつぐみ続けたのは、トラウマだけが理由ではなかった。
被爆者に対する差別への恐怖だ。原爆の影響は、だれにも分からなかった。県外に出る人は、広島出身であることを隠した。放射能がうつるのではないか―。そんな偏見が少なくなかった時代なのだ。
人生を変えた運命の人との結婚
大学を出て、26歳で結婚をした。夫・馨(かおる)さんは16歳年上で、通訳などをし、のちに広島市役所に勤めた人だ。アメリカで生まれ育ち、12歳で父の故郷広島に帰ってきていた。陸軍の兵隊としてセレベス島(現インドネシア)に赴き、捕虜として過酷な体験もしている。世界に原爆被害を伝えるため、資料を集めて翻訳するなど、精力的に働いていた。
知人を介して知り合った2人だが、歳の差もあり、当初馨さんは小倉さんの母から「娘に誰か紹介して下さい」と“仲人役”をお願いされていたのだという。実際に馨さんは、小倉さんに「夫候補」を何人も紹介した。しかし小倉さんは、気乗りしなかった。
そしてあるとき、小倉さんが馨さんに言ったのだ。「あなたじゃだめなの?」
当時は珍しい女性側からのプロポーズで、2人は晴れて夫婦となった。
馨さんとの馴れ初めについて話す小倉さん
幸せな結婚生活だった。怒られたことは一度もない。優しい人だった。子供と話すときは、必ずしゃがんで、子供の目線で話す、それが、魅力だった。
2人の子宝に恵まれ、専業主婦として家族を支えた。英語が話せる夫は、市長の通訳や、資料の翻訳など多忙を極めた。原爆資料館の3代目館長を務め、平和行政に貢献した。「二度と広島の人が味わった経験をだれにも味わってほしくない」と、国内外を奔走していた。
小倉さんは育児に、夫の両親の介護にと、忙しい毎日だった。活躍する夫がまぶしかった。少し嫉妬もした。そんな小倉さんに、夫は言った。
「きっといつか桂子がやりたいことが見つかるよ。君にしかできないことがあるよ」
平凡な主婦の私にできることなんてない、そのときはそう思った。
ずっと続くはずった幸せの日々は、突然終わりを告げる。馨さんは58歳のとき、くも膜下出血で急逝した。小倉さんは42歳だった。突然の出来事に、幼い子供を抱え、どうしていいかも分からない。ただただ、泣いて暮らした。
愛する夫から受け取ったバトン「ヒロシマの悲しみを伝える」
そんな折、海外から夫を訪ねてやってきた人が、代わりに通訳をしてほしいと頼んできた。大学で英語は学んでいたが、20年以上使っていない。無理だと言うと、相手は言った。
「大事な人を失った君は悲しみを知っている。悲しみを知っていることが君の強さで、ヒロシマを伝えるためには、大切なことなんだよ」
子育てをしながら、独学で英語を身につけた。最初は「原発」という単語すら分からなかった。理解できない言葉をメモしては、辞書を引く日々。しかし、使命も感じていた。
「主人は、無念だったと思う。私がつながなくては。それが私の役目」
被爆者の証言を通訳する機会も多かった。多くの被爆者は言った。「外国人だから話すが、日本人には知られたくない」。差別が怖いから国内では話せないが、原爆の恐ろしさを世界の人に知ってほしいとの思いからだった。
「核兵器はそのときだけじゃなく、その未来、私たちの子供とか、そういうところにも影響があるから、そのことを思うと、みんな隠したがったの」(小倉さん)
ある人は「自分が被爆者であるというと、娘が結婚できないかもしれない」と恐れていた。
たくさんの不安を訳してきた。たくさんの苦しみを訳してきた。見えない恐怖と、みんな闘っていた。
小倉さんもそうだった。通訳を始めてからも、自分の被爆体験は語ってこなかった。もちろん自分の子供にも。
「それが、核兵器の怖さね。通常兵器とは違う。放射能の見えない恐怖なの」
そんな小倉さんに転機が訪れる。通訳をしている際に言われたのだ。
「ケイコ、自分の話を聞かせてくれないか。そうすると通訳がない分だけ、たくさんのことが聞ける。質問もできる」
そのとき小倉さんは考えた。
「もっと見えない苦しみが伝えられるのではないか」
原爆を語り出した想いを話す小倉桂子さん
48歳のとき、初めてドイツで被爆証言。少しずつ、求められれば話しだした。そして、2011年、自らの被爆体験を英語で伝える原爆資料館の「被爆体験証言者」になった。夫を失って32年が経った、74歳の頃だった。
年々減っていく語り部 貴重な被爆証言を聞く機会
原爆資料館によると、登録している被爆証言者の中で、英語で伝えられるのは小倉さんだけだという。年間2000人のペースで伝え続けている。
小倉さんは、聞く人の国籍によって、伝え方を変えている。核兵器をもつ国、もたない国、日本が過去に植民地として支配をした国…。それぞれの事情に寄り添い、伝えるようにしている。
相手を理解しないと、理解はしてもらえない、それが身上だ。それは、相手の目線に立っていた夫と同じ姿勢でもあった。
一方で、ここ数年、仲間の被爆者が大勢亡くなった。彼らの通訳をしてきた小倉さんには、よりつらい出来事だった。
自分だって、いつまでできるか。危機感は年を重ねるごとに強くなる。
被爆者の思いを踏みにじるプーチン大統領による核の脅し
2022年2月、ロシアがウクライナに侵攻した。テレビに映るその様子が、過去の広島と重なって見えた。小倉さんは怒っていた。
「プーチンが、やすやすと核大国だと言ったときの腹立ち。核を脅しの材料に使う、あんな卑怯な真似は許せない。私たちは戦争のど真ん中にいると、日々考えないといけない」
今こそヒロシマの声を聞きたいと、海外から大勢の人が、取材にやってきた。「きのこ雲の下ではだれも生き延びられないということを、感じなくちゃいけない。知らないということは大きな過ち。広島を、長崎を、世界の人に知らさなければいけない。私は、まさにそれを体験したのだから」
第二の広島、第二の長崎をつくらないために、必要なこと。
小倉さんはそのカギを、「メディアと教育」だと考えている。
終戦後、小学校ではそれまで使っていた教科書の大部分を、黒く塗りつぶさせられた。少し前までの「正しいこと」を、なかったことにさせられた体験は、幼心にも生き方を揺さぶられるような思いがした。
何を伝え、何を学ぶか。G7開催直前に国から「各国首脳を前に被爆体験を語ってほしい」と請われた際、「私よりもっと適任者がいるのでは」と断ろうした。しかし、迷った末に引き受けた理由は、ここにあった。
核兵器の使用を決断するのは、リーダーたちだ。そして彼らは、その決断を迫られるとき、必ず思い出すであろう。自分は広島に行ったと。ごくごく小さな核が使われただけでも、このようなことが起きた、と。
「知る」ということは、まず第一歩だ。8歳の私が見たものを、首脳たちに追体験してもらうために、自分は語るのだ。
核保有国のリーダーたちに伝えたメッセージとは?
そして、今年5月。G7サミットで、小倉さんは核保有国のアメリカ、フランス、イギリスを含む7ヵ国の首脳に被爆証言をした。それだけではない。核保有国インドを含む招待国8カ国の首脳にも証言をした。
40数年前、専業主婦だった女性が、これだけの大役を担うことを誰が想像できただろうか。
彼女は言った。
「いつも世界から(広島に)やってくる人たちと、同じように伝えたの。核兵器と通常兵器の違い、放射能の恐ろしさ、そして見えない苦しみを知ってもらいたかったから」
相手の様子を見て、伝わった、と実感していた。
G7サミットで各国首脳と会った直後の小倉桂子さん
さらに彼女は、電撃で広島を訪問したウクライナのゼレンスキー大統領にも被爆証言をした。
実はその数時間前、彼女はどうしてもやりたいことがあると、行動を起こしていた。世界のメディアが集まる国際メディアセンターに足を運んだのだ。世界は、被爆地で開催されるG7サミットをどう伝えているのか、話を聞いてみたいと、逆取材をしに行ったのだった。
小倉さんが一番会いたかったのは、ウクライナのメディアだった。
会場の奥でその姿を認めると、「あなたと話がしたい」と語りかけ、こう続けた。
「私が言いたいのは、とても心配をしているということ。多くの子供たちが戦争に巻き込まれているのが残念でならないの。原爆が落とされたとき、私は8歳だった。だからこそ伝えたい。戦争に子供たちを巻き込まないでください。私自身戦争で傷ついて、トラウマを抱えている。つらい体験になりました。一番に子供たちを避難させてください」
ウクライナ人記者はこう尋ねた。「あなたはそのこと(戦争)を許すことはできますか?」
「原爆そのものは、誰も許すことはできない。今核兵器が使われたらどうなるか。原爆を戦争の終結に使ってほしくない。ロシアにいるプーチンに言いたい。見てごらん、みんな広島に集まった。なぜあなたがいないの?と。彼がここにいたら、私は彼に言っていたはず。お願いどうか核兵器を使わないでください。核兵器が地球を滅ぼす」(小倉さん)
答えを聞いたウクライナ人記者は、スマートフォンを取り出して言った。
「ウクライナ国民に伝えたいことはありますか? 直接伝えてもらいたいです」
快諾した小倉さんが、画面に語り掛ける。
「私は広島の被爆者です。ウクライナの人たちは壊された街を見て、泣かないでほしい。だって広島を見てごらん。町は再建されているわ。建物は壊されても、直すことができる。訴えたいのは、最も重要なのは人間の命だということよ。人の命は重いの」
撮影を終えると、あなたに会えてとてもうれしかった、と記者は小倉さんを抱きしめた。
ウクライナからの記者と抱擁する小倉桂子さん
芽吹いていく、小倉さんの「平和の種まき」
78年目の8月6日、原爆の日の2日前、小倉さんは86歳になった。G7サミット後、風邪を引き、寝込んだ。声が出なくなった。それでも何とか乗り越え、求められれば、足を運び、伝えている。平和の種まきを怠らない。
そして、その種は、各地で芽吹いている。
広島市立大学3年の東莉子さんは、大学1年の時に小倉さんの被爆証言を聞き衝撃を受けた。以来、その時にもらった名刺を大切に財布の中にしまっている。平和公園を訪れる修学旅行生を案内するボランティアをして、ヒロシマの心を、自分より若い世代に伝えている。
アメリカで小倉さんの被爆証言を聞いたアイダホ大学4年生のマイカリス・デヴィンさんは、ヒロシマの原爆について調べ、折り鶴を作り始め、町の人たちと千羽鶴を作った。今年の8月6日の平和記念式典に参列するため、広島を訪れる予定だ。
広島大学大学院を、今年の春卒業した赤井理子さんは、小倉さんの人生を冊子にしようと、学生の間、3年をかけて聞き取りをしてきた。気が付けば、小倉さんの影響を受けて、進路を決めていた。先月からインド大使館で働き始め、小倉さんの想いを繋いでいこうと思っている。
東京造形大学3年の横山莉央さんは、小倉さんの被爆証言を元に、友人と、「ケイコの8月6日」という紙芝居を作った。いつか出版して多くの人に伝えたいと考えている。
若者の間で芽吹いたものは、大きな花を咲かせるときが来るかもしれない。
小倉さんは、車いすになっても、声が出る限り、伝え続けたいと思っている。世界にはまだ多くの核兵器があるという事実が許せないからだ。
そして、もうひとつ、思っている。
「いつか主人にまた会うときに、よくやったね、と言ってほしい」と。
(テレビ新広島報道部、石井百恵)
※この記事は、テレビ新広島によるLINE NEWS向け特別企画です。