宣伝機の建造費用調達のために採られた手段とは
1930年代中頃、ソ連で独裁権を固めつつあったスターリンは自らの威光を広大なソ連全土に広めるあらゆる手段を講じていました。ソ連は同じ国なのに11もの時間帯があるほど大きな国です。
ANT-20の機首。手前の人やフォッカーE.1(?)単葉機から大きさが分かる。胴体上部に装備されたのが増設された串形エンジン。
そのために作られたのがアンドレイ・ツポレフの製作したANT-20です。同機は巨人機でしたが、ツポレフはすでに完成していた6発エンジンの重爆撃機TB-4(ANT-16)爆撃機をベースにしたので、設計および製作はそれほど困難ではなかったようです。
それよりも問題だったのは建造費でした。小説家マクシム・ゴーリキーの文学活動開始から40年を記念して、ソ連作家連盟の要望と一般からの寄付募集という触れ込みで、1932(昭和7)年に「マクシム・ゴーリキー号」建造委員会が設立されます。マクシム・ゴーリキーは当時のソビエト共産党推薦の、いわゆるプロレタリア作家といえば「お察し」です。
ソ連政府の強い後押しで寄付募集が始まります。寄付の目標額は600万ルーブル(2020年現在の日本円換算で約15億円)とされましたが、わずか3か月で目標額を達成します。寄付は「お察し」の通り、必ずしも一般の自由意思だけではなかったようです。
「マクシム・ゴーリキー号」は1933(昭和8)年7月から製造が始まり、1934(昭和9)年6月17日に初飛行しています。翼幅は63mで、ボーイング747「ジャンボジェット」よりも大きく、人が通れるほど厚く巨大な主翼を備えています。登場当時は世界最大の航空機でした。
全備重量は42tもありましたが、巨大な割に性能はよく、350mから400mの滑走で離陸でき、高度1000mまでの到達時間が3分から4分でした。出力1000馬力未満のエンジンしかない時代の巨人機としては立派なものです。
もっとも当初は6発機で設計されていましたが、出力不足で胴体上部にも串形配置のエンジン2基を増設するという、泥縄的な解決方法が採られています。
空飛ぶ客船かはたまた党の宣伝飛行隊か
「マクシム・ゴーリキー号」の機内の広さは、鉄道客車1両分に近い100平方メートルあったとされ、巨大な主翼には通路もあり、右翼内に発電室、写真現像用暗室、寝室、化粧室など、左翼内には印刷室、トイレなどまでありました。胴体にはラジオ放送室、電話室、映写室、タイプ室、バー兼喫茶室、無電室、浴室などが配され、まるで客船でした。
「マクシム・ゴーリキー号」機内の客室。
自動車やトラックすら珍しい田舎に巨大飛行機が飛来し、ラジオ放送や「天からの声」と呼ばれたプロパガンダ放送をスピーカーで流したり、印刷物の発行や配布をしたり、到着地で映画上映したり、さらには投影機で飛行しながら雲に映像を投影するという、いまでいうプロジェクションマッピング(これは実現不可能だった)まで計画されています。
しかも機内は客船並みの設備です。社会主義、およびスターリンの威光を知らしめるツールとして絶大な効果が期待されました。
1934(昭和9)年8月16日の航空記念日には、空軍デモフライトのトップを切って飛行し世界中を驚かせます。日本でも1935(昭和10)年3月発行の月刊誌『海と空』で、グラビア5ページを割いて紹介されました。
「映え狙い」が招いた悲劇すら宣伝に
1935(昭和10)年5月18日、「マクシム・ゴーリキー号」モスクワで、機体を造った工場の従業員とその家族38名を乗せて離陸しました。ところが、随伴飛行していたポリカルポフI-5戦闘機が曲技飛行を始め、宙返りしたところでコントロールを失い「マクシム・ゴーリキー号」の右翼に突っ込みます。これにより「マクシム・ゴーリキー号」はモスクワ北西部のソコルに墜落し、乗組員およびI-5パイロットと乗客合わせて49人が亡くなりました。
事故を調査したNKVD(内務人民委員部)は、事故の1時間前、記録映画撮影者が“映える”映像を撮るためにI-5のパイロットへ飛行機の近くで曲技飛行するよう勝手に依頼していたと報告していますが、党幹部の指示だったといううわさもあり真相ははっきりしません。
1934年11月の革命記念日に赤の広場上空を飛行するANT-20。両側にI-5戦闘機を随伴させ、その巨大さを際立たせている。
ソ連政府は大々的な追悼集会を開催し、後に最高指導者となるニキータ・フルシチョフ(当時モスクワ党第一書記)も参列しています。「お察し」の通り宣伝効果は絶大でした。この集会後マクシム・ゴーリキー号建造委員会には、2か月でANT-20が16機建造できる6800万ルーブル(2020年現在の日本円換算で約170億円)に上る寄付金が集まります。
1938年にエンジンを強化した改良型ANT-20bisが建造されますが、すでにプロパガンダに巨人機を飛ばす時代ではなくなっており、同機は国内線の旅客輸送に使われます。
それなりに飛行実績を重ねるものの、1942(昭和17)年12月14日、飛行中に乗客を操縦席に座らせ、操縦機器を誤操作させたのが原因で、中央アジアのウズベキスタンで墜落してしまいました。これにより26人の乗客と10人の乗組員全員が亡くなります。しかし時代は第2次世界大戦のただ中であり、プロパガンダどころかほとんど知られることはありませんでした。
※誤字を修正しました(8月19日6時40分)
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