連勝日本に冷や水を浴びせた武勲艦
第2次世界大戦において、日本軍に撃沈されたアメリカ海軍の空母「ホーネット」が、ソロモン諸島の沖合、深さ5330m地点にて、2019年1月20日に発見されました。アメリカの実業家だった、故ポール・アレン氏が立ち上げた調査チームによるもの。「ホーネット」は、米軍による日本初空襲を行った爆撃隊の母艦として有名です。
空母「ホーネット」。甲板上にF4F「ワイルドキャット」戦闘機、SBC-4「ヘルダイヴァー」急降下爆撃機、TBD-1「デヴァステイター」雷撃機が見える(画像:アメリカ海軍)。
1942(昭和17)年、日本はまだ前年12月の真珠湾攻撃成功に続く、緒戦の連勝に浮かれています。ところが4月18日、この日本国民の戦勝気分に冷や水が浴びせられます。これが、アメリカ陸軍B-25爆撃機16機で編成された爆撃機隊による、「ドーリットル空襲」です。東京を主目標に、焼夷弾による夜間爆撃を企図していましたが、移動中、日本側に発見され、出撃を急いだために昼間爆撃となり、一部は横浜方面や名古屋、神戸、大阪方面に爆弾を投下しました。
日本軍はこの爆撃隊の侵入を阻止できず、爆撃隊を運んできたアメリカ艦隊も取り逃がし、本土防衛体制の杜撰さが明らかになって、大きな衝撃を受けました。
この爆撃隊の母艦が、空母「ホーネット」です。就役したのは太平洋戦争開戦直前の1941(昭和16)年10月20日のことで、最初の大仕事がこの「ドーリットル空襲」でした。
1942(昭和17)年3月、カリフォルニア州のアラメダ海軍基地にて、「ホーネット」は双発中型爆撃機B-25を16機、積み込みます。艦上機ではないため着艦ができず、ゆえにクレーンで吊り上げて飛行甲板に並べたのです。空母の乗員はいぶかしがりますが、日本本土空襲など思いもよりません。B-25をどこかの基地へ運ぶのだろう、くらいに考えていました。
無謀な片道切符「ドーリットル空襲」はなぜ実施された?
アメリカは世論で動く国です。緒戦で連敗を続けて国民に厭戦気分が広がれば、不利な条件で日本と早期講和ということになりかねません。これをなんとしても避けたいアメリカ政府、軍部は、国民の士気を鼓舞できるような勝利を挙げる必要があります。そこで発案されたのが、日本本土空襲作戦でした。そのわずか2年後には、アメリカ軍機は日本の空を制することになるのですが、この段階では、日本本土は不可侵だと思われていました。
艦載機ではなく、足の長い双発の爆撃機を空母で運び日本を奇襲、爆撃機は空母に戻らず、中国大陸に退避するという「片道攻撃」が計画されます。生還できる確率の低い作戦ですが、アメリカはそれだけ追い詰められていたといえるかもしれません。こうして編成されたのが、ジミー・ドーリットル中佐の指揮する「ドーリットル爆撃隊」です。爆撃隊を運ぶ「ホーネット」を含む艦隊も日本の哨戒網に飛び込んでいくわけですが、乗員の士気は高かったそうです。
「ホーネット」飛行甲板上に並べられたB-25爆撃機(画像:アメリカ海軍)。
「ホーネット」から日本空襲へ発艦するB-25爆撃機(画像:アメリカ海軍)。
ジミー・ドーリットル中佐(左)と「ホーネット」艦長マーク・ミッチャー大佐(画像:アメリカ海軍)。
4月18日早朝、ドーリットル爆撃隊を輸送していた「ホーネット」を含む艦隊は、先に述べたように、日本の特設監視艇(徴用された漁船)に発見されてしまいます。このため同隊のB-25は、爆撃後、中国大陸までギリギリたどり着ける位置で発進します。16機全機の発進には約1時間を要し、すぐさま「ホーネット」は反転、1週間後の4月25日にハワイの真珠湾へ帰投します。ドーリットル爆撃隊は日本への投弾という目的を達成し、アメリカ軍による日本本土初空襲は大々的に宣伝されますが、作戦詳細は1年間秘密とされ、「ホーネット」の武勲もお預けとなります。
太平洋を北へ南へ、そして南太平洋海戦へ
その後、「ホーネット」は多忙を極めます。パプアニューギニアのポートモレスビー攻略を企図する日本軍を阻止すべく、オーストラリア北東の珊瑚海へ向け4月30日には真珠湾を出撃しますが、戦闘が発生した5月8日には間に合わず、5月26日に真珠湾へ帰投します。そして、たった2日で補給と整備を終えて5月28日、空母「エンタープライズ」とともに第16任務部隊を編成して、北太平洋のミッドウェーに向かい、「ミッドウェー海戦」で勝利し、6月13日に真珠湾へ戻ります。
南太平洋海戦で「ホーネット」に襲い掛かる99式艦上爆撃機、その下に魚雷投弾後の回避行動をとる97式艦上攻撃機。水面の水柱は対空砲弾によるもの(画像:アメリカ海軍)。
8月7日、アメリカ海兵隊が、アメリカとオーストラリアをつなぐ交通線の要衝となったガダルカナル島にある、日本軍のルンガ飛行場を攻撃、奪取しました。激戦として後世に知られるガダルカナル島攻防戦の始まりです。戦闘が繰り広げられるなか「ホーネット」も出撃し、10月24日に「エンタープライズ」と合流。そして10月26日、「南太平洋海戦(サンタクルーズ諸島海戦)」が起こります。
「エンタープライズ」から撮影された「ホーネット」(画像:アメリカ海軍)。
南太平洋海戦で被害を受けた「ホーネット」の艦橋付近(画像:アメリカ海軍)。
南太平洋海戦で火災を起こした「ホーネット」の信号マスト付近(画像:アメリカ海軍)。
この海戦で、「ホーネット」には250キロ爆弾3発と魚雷2本が命中し、日本側攻撃隊の艦上爆撃機と艦上攻撃機各1機が体当たりしました。火災が発生して「ホーネット」は航行不能となりますが、消火と応急処置に成功し沈没は免れます。しかし、その後も日本軍機による攻撃を受け続け、被害が拡大して、アメリカ海軍は曳航を諦め、処分を決定します。
知られざる武勲艦の、知られないままの最期
ところが、「ホーネット」は頑丈でした。アメリカは駆逐艦2隻で魚雷12発、5インチ砲弾430発を打ち込みますが、火災は発生すれど沈みません。そうこうしているあいだに、日本の駆逐艦「秋雲」と「巻雲」が急接近し、アメリカ艦は退避します。日本の駆逐艦も、可能ならば「ホーネット」を拿捕するよう命じられていましたが、早々に諦めます。
南太平洋海戦にて、応急処置に成功したものの航行不能に陥った「ホーネット」。重巡「ノーザンプトン」(右)で曳航作業を試みるも失敗した(画像:アメリカ海軍)。
「ホーネット」はゆっくりと沈下を続け、10月27日の午前1時35分に沈没しました。就役後わずか372日後のことです。これを見守った「秋雲」と「巻雲」は、「ホーネット」が日本本土初空襲の母艦であったことなど知るよしもありません。アメリカでも、この武勲が公式に認められたのは戦没後ということになります。
沈没地点は判明していましたが、5000mを超える深海域だったため、これまで発見されていませんでした。くだんの調査チームが公開した映像には、深海探査機から77年ぶりの光を受けて、対空砲、艦載機、格納庫のトラクターなどが当時の姿のまま浮かび上がっています。「ホーネット」と共に眠る乗組員は140名とされています。
【写真】米海軍作成「ドーリットル空襲」宣伝パンフレット
1943年にアメリカ海軍が作成した「ドーリットル空襲」を宣伝するパンフレット。作戦の概要が分かる(画像:アメリカ海軍)。