わずか150トンのスクーナーに不釣り合いな「危険すぎる任務」
建造されて間もなく1918年初めにハワイ・真珠湾で撮影された、当時「エルメス」という名称だった「ラニカイ」。中々優美なヨットだった(画像:アメリカ海軍)。
「ラニカイ」は全長26.6m、排水量150トン、エンジン付きの機帆船で速度9ノットでした。3ポンド(47mm)砲1門、12.7mm機銃と7.62mm機銃で武装し、海軍士官ケンプ・トーリー中尉が艇長となり、星条旗を翻し晴れてアメリカ海軍の船となります。しかし、いかにも急ごしらえの小型すぎる武装ヨットで、とても海軍艦艇には見えません。
「ラニカイ」の艇長を務めたケンプ・トーリー中尉。1959年に少将に昇進して退役、100以上の論文と3冊の本を著した(画像:アメリカ海軍)。
「ラニカイ」は、ベトナムのカムラン湾付近の海域まで進出することになっていましたが、日米間の緊張が高まっている時期で、西シナ海では日本軍の活動が活発化しており、任務の重要性、危険性の割にはあまりに不釣り合いに見えるフネでした。
陰謀論か否か 「ラニカイ」が課された任務の「真の目的」
後部マスト付近に搭載された3ポンド(47mm)砲。メモ書きから1941年12月にマニラ湾で撮影されたものと見られる(画像:アメリカ海軍)。
日本軍はツレなかった
USS「イサベル」。12月6日早朝に日本海軍の零式水上偵察機に発見されるが見逃がされる(画像:アメリカ海軍)。
「ラニカイ」は12月7日夜半(国際日付変更線の東側では12月6日)にマニラを出港し、カムラン湾に向かっていました。そして12月8日未明(ハワイ時間12月7日早朝)に日本海軍が真珠湾を攻撃します。これを受け、ギリギリのタイミングで「ラニカイ」には反転帰還命令が出されました。もはやカムラン湾に向かう必要はなくなったのです。
1942年初めにオーストラリアのポート・ボウで撮影されたラニカイ。大きな2本マストが目立つ(画像:オーストラリア戦争記念館)。
「ラニカイ」がもっと早いタイミングでカムラン湾に突入、日本軍がこのエサに食いついていたら、太平洋戦争は日本海軍機動部隊の真珠湾攻撃ではなく、カムラン湾での「ラニカイ号事件」で始まった、と歴史に名を残していたかもしれません。真珠湾攻撃についてはいまだに陰謀論がささやかれますが、歴史の波間にはこうした様々なエピソードが漂っています。
「ラニカイ」はオーストラリアへ脱出後、同国海軍に改めてチャーターされます。そして1946(昭和21)年にチャーターを解除されますが、以前の所有者も権利を放棄し、行き先が無くなってフィリピン スービック湾のアメリカ海軍施設に保管されることとなります。やがて1947(昭和22)年の台風で沈没し、2003(平成15)年には、その残骸が海底で発見されました。