その時、廊下の手すりに両手を結束バンドでしばりつけられ、身動きがとれない職員の前に現れたのは、血だらけの入所者でした。
重度の知的障害と自閉症がある尾野一矢さん(50)。
「携帯とって、四角いのとって」
職員の必死の訴えに、一矢さんが応えます。
首やお腹を刺され、「痛い、痛い」とうめきながら、携帯電話を探し出しました。
職員はその電話で、110番通報をしました。
神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」。
2016年7月26日、ここで19人の死者と、一矢さんを含む26人の重軽傷者が出ました。入所者を次々と刺した元職員・植松聖死刑囚(33)は、こう主張します。
『障害者なんていなくなればいい』
障害者の存在を否定するような植松死刑囚の差別的な言動は、社会に大きな衝撃を与えました。
事件から7年が経とうとする今、一矢さんは施設を出て、介護者の力を借りてアパートで一人暮らしをしています。
2023年6月 久々に取材に訪れた旧知の記者らに自身の名刺を手渡す一矢さん
一矢さんの生活は、事件を起こした犯人の主張に対する「答え」だと家族はいいます。その答えとは何なのか――。一矢さんと一矢さんを支える人の歩みを追いました。
一矢さんは、事件で一時は生死の境をさまよいました。
事件発生から約1か月後、入院先で母・チキ子さんに「おなか痛い」と訴える一矢さん
当時、一命はとりとめたものの、ショックから、母親のチキ子さん(81)が握る大好物のおにぎりも食べようとしませんでした。
「どんなに重度でどんなに言葉が出なくてもちゃんと意思疎通はとれるんです。罪のない人を殺してしまうことに関しては絶対許せない」
父親の剛志さん(79)とチキ子さんは、事件の直後から被害者家族の中で唯一、実名と顔を出してメディアの取材に対応してきました。
「何も恥ずかしくない。障害があったってなんだって普通の子じゃないかって。裁判を通して世間の人たちにきちんと、重度の知的障害の人たちのことを知ってもらいたい」
事件から3年半が経とうとしていた2020年1月にようやく始まった裁判。
その直前、剛志さんは、被害者参加制度を使って植松死刑囚に聞きたいことがあると話していました。
「いま君は幸せか?現時点で幸せを感じているかってことをまず聞きたい。それと、お父さんお母さんに対してどう思っているのかなってことをね。お父さんお母さんごめんねとか、懺悔の気持ちがどっかにないかなってそれを探りたいと思ってるんです。少しでもそういうところが見えたら、彼も人間だったなって思いたい」
迎えた直接質問の日。
剛志さん「今幸せですか?」
植松死刑囚「幸せではありません。どうだろう」
剛志さん「なぜ幸せではないんですか?」
植松死刑囚「面倒だから。・・・今のはちょっと失礼だ・・・。不自由だからです」
剛志さん「意思疎通がとれない人を“心失者”と語っていましたね」
植松死刑囚「はい。それが正しい考えだと思ったからです」
剛志さん「何を根拠に?」
植松死刑囚「お金と時間を奪っているからです」
剛志さん「子どものころ友人とか家族と遊びにどんなところへ行きましたか」
植松死刑囚「川とか海とか、両親とも行きました」
剛志さん「両親と他にどこに行きましたか」
植松死刑囚「・・・特に言う必要はありません」
20分間の質問を終えた剛志さんは。
「『殺すことは仕方ないんだ、当然なんだ』っていう考えが、何も変わっていないんです。なぜそういう罪を犯したのかという過程を僕らは知りたい」
裁判では、剛志さんが初めて知った一矢さんに関する事実がありました。
それが冒頭に記した、やまゆり園の男性職員の供述調書の内容でした。
職員は、廊下の手すりに両手を結束バンドでしばりつけられ、身動きがとれなくなっていました。
「尾野さんが『痛い』と言って出てきました。利用者の前で怖がってはいけないと、『痛いけど頑張ってね。携帯とって、四角いのとって』と言うと、リビングから携帯電話を持ってきてくれました」(供述調書より)
この職員の調書の読み上げを、剛志さんは傍聴席で泣きながら聞きました。
「うちの息子が『痛い、痛い』って言いながらよく頑張ったなって本当に褒めてやりたい」(剛志さん)
17日に及んだ裁判。植松死刑囚の障害者への差別的な主張が変わることはありませんでした。
剛志さんは、最後に、意見陳述でこう語りかけました。
「被告がなぜこのような考えに至ったのか、私たちには到底、理解ができません。絶対に許すことはできません。私たち重度の知的障害の子供を持つ家族の生活は、決してきれい事だけでは語れないけれど、悩みながらも小さな喜びを感じて生きているのです」
下された判決は、死刑でした。
判決を受けて剛志さんは。
「事件を起こした背景とかは裁判では全然語られないまま終わってしまった。僕は絶対に風化させないという気持ちでいます」
この後、植松死刑囚の弁護人が控訴しましたが、それを自ら取り下げ、死刑が確定しました。
「できるの?」から始まった一人暮らし
剛志さんと一矢さんは、実は血のつながりがありません。
一矢さんはチキ子さんと死別した前の夫との間の子どもで、一矢さんが4歳の時に、剛志さんと親子になりました。
剛志さんは、一矢さんを我が子のようにかわいがっていましたが、やがて、自傷行為がひどくなり、体が大きくなった一矢さんの生活を家族だけでは支えられなくなりました。
一矢さんは、障害児の施設を経て、23歳のとき、やまゆり園に入所します。
それでも、剛志さんは、面会や宿泊行事などを通じて、一矢さんを見守り続けてきました。
事件のあと、一矢さんにある変化がありました。
はっきりと「お父さん」と呼んでくれるようになったのです。
週1回の面会の終わりが近づくと、「お父さん今度の水曜日?来る?」と尋ねる一矢さん
「一矢は本当に僕のことをちゃんとお父さんとして見て、ずっと愛してくれたんだって思った」(剛志さん)
事件のあと、一矢さんは、横浜市にある仮移転先の施設・芹が谷園舎で生活をしていました。
剛志さんは、やまゆり園が再建された後は、元の場所に一矢さんを戻すつもりでいました。
しかし、事件から2年が過ぎたころ、転機が訪れます。
取材で出会った映画監督に、重度の知的障害者であっても、長時間ヘルパーが付き添い、家事や移動支援などを含めて一括で介護する「重度訪問介護制度」を利用して、街中のアパートで暮らしている人たちがいると紹介されたのです。
映画『道草』より
「目からうろこ。アパート暮らし、うちの息子が?できるの?と思った」(剛志さん)
大規模な入所施設だからこそ、最後まで面倒を見てくれる。一矢さん本人もやまゆり園での暮らしを気に入っている。剛志さんは、そう考えてきました。
でも、アパートでの暮らしの方が一矢さんにとって幸せなのかもしれない。
実際に生き生きと暮らしている人たちを目の当たりにして、剛志さんは、自分の考えを変えたのです。
「ぜひやらせてください。もう挑戦しますって。でも、最終的に決めるのは一矢です。一矢が嫌だって言ったらしょうがない」
そして出会ったのが、介護士の大坪寧樹(やすき)さん(55)です。
大坪さんは、事件が起きる前、加害の激しい知的障害者の介護が思うようにいかず、挫折をしていました。
そんな時に事件が起こり、介護施設の職員をしていた植松死刑囚がこのような罪を犯したことに大きなショックを受け、自分はこれからも介護士としてやっていけるのか、とさらに自信を失います。
それでも、事業所が一矢さんの担当を任せたかったのは、大坪さんでした。
大坪さんは不安でしたが、一矢さんに初めて会った日に、覚悟が決まったと言います。
その日、一矢さんは、自分のメロンを「大坪さんに」と口に運んでくれたのでした。
緊張していた大坪さんはその振る舞いに救われ、思わず涙があふれたと言います。
「やっぱりもう1回頑張らなきゃって。事件で深い傷を負っても一人暮らしを決意して、ご両親と一緒に迎え入れてくれた。これに応えないと、私が今までやってきたことの意味がなくなってしまう、と」
一矢さんは大坪さんや家族と共に、徐々に施設の外へ出ていく準備を始めました。
30年以上続いた施設での暮らし。
心配する両親でしたが、日帰りの外出でも一矢さんはリラックスした表情を見せるようになっていきます。
大坪さんがそばにいてくれるなら、一矢さんも街の中で暮らしていけるかもしれない。
剛志さんとチキ子さんは、思いを強くしていました。
2020年7月、アパートを借りた一矢さんは、芹が谷園舎から日帰りでの滞在を始め、8月には宿泊に挑戦するまでになっていました。
この時期、大坪さんは一矢さんが介護者に向けて発している「サイン」を感じ取っていたと言います。
部屋でくつろぐ一矢さんですが、見えないところで大坪さんが家事をしていると、不安になるのか、叫び出します。
「出しちゃいけないことはわかってるけど、自分で抑えることがどうしようもなくできないから、『大きい声出しちゃいけない』って大きい声を出す。側に居て欲しいっていう。介護者の立ち位置を教えてくれている」(大坪さん)
食事の時に「おなか痛い」と言って止めては、すぐに「食べるー大丈夫?」と尋ねるのもそうでした。
「『大丈夫』という言葉がほしいんです」
大坪さんが「大丈夫」と言うと、安心したように、一矢さんはまた食べ始めます。
自分の意思を、以前よりも表現するようになった一矢さん。すごく嬉しそうに笑うのは、一矢さんがここの場所を気に入ったということだと、大坪さんは言います。
初めて宿泊に挑戦した日。一矢さんが、「芹が谷園舎に帰りたい」と言い出すかどうか。
慎重に見守っている大坪さんの前で、一矢さんから、「芹が谷やめとく。やめとくー芹が谷やめとく」という言葉が出てきました。
「芹が谷と一矢ん家どっちがいい?」と大坪さんが尋ねると・・・
「一矢ん家」(一矢さん)
大坪さんも一安心です。
「ちょっとほっとしました。もっと大変かなと思ったけど。よかったよかった」
「一人暮らし」で起きた変化
事件から7年という時間が経つ中で、
一矢さんの表情も、少しずつ変わってきました。
事件直後の1年ほどは、不安げな表情を見せる場面もありましたが、いろんな人と触れ合ううちに、初めて会う人にも、大勢から見られていても、人なつっこく笑顔を見せるようになりました。
取材クルーと手遊びをして楽しむ一矢さん
アパート暮らしを始めて3年。
今、一矢さんは、重度訪問介護制度を利用し、大坪さんの他にたくさんの介護士に支えられながら、“一矢ん家”で過ごしています。
平日は生活介護事業所に通い、作業をしたり、散歩をしたり。
土日は一矢さんの希望でドライブをしたり、ご飯を外で食べたり、両親の住む家に遊びに行ったりしています。
他県での宿泊行事や、飛行機に乗ることも経験し、大学の授業に講師として呼ばれるなど、交流の幅を広げ、多くの人と関わってきました。
大坪さんは、近所に住む人やよく行く店などに一矢さんのことを理解してもらおうと、手作りの「かずやしんぶん」を配ったり、SNSに一矢さんの日常を投稿したりすることで、この暮らしについて知ってもらおうと発信を続けています。
最初は、きっと理解してもらえない、と思い発信することに抵抗があった大坪さんですが、SNSの投稿を見た当事者の母親から相談を受けたり、「一矢さんの姿を見て、将来わが子も自立した暮らしができるという希望になった」といったメッセージをもらったりするなど、反響に驚いたと言います。
障害者の生活の情報が不足していたことを実感し、当事者の切実な悩みを改めて知った大坪さんは「発信しなきゃだめだ」と考えを変えました。
初めてのアパート暮らしは想像以上に順調に進みましたが、決して良いことばかりではありませんでした。
介護士との関係が深まってくると、一矢さんが自分の要求をどんどん出すようになり、自己主張が強くなっていったと言います。
「今まで表現しなかったようなことをだんだん表現するようになるわけですよね。不機嫌なときは、物にぶつけるということもするようになるし」(大坪さん)
一矢さんの変化は、言動だけでなく、身体の反応としても表れました。
今年4月、突然身体が動かなくなり、がたがた震える発作が6年ぶりに起きたのです。
さらに、大坪さんがドキッとしたできごとがありました。
「おなか痛い」と言い始めた一矢さんが、「ドバっと血出る?」と聞いてきたと言うのです。
怒りとも悲しみともつかない、叫びのような訴えだったと言います。
「やっぱり僕らが思ってる以上に深い傷を受けているんだと思います。もう時間は経ったんだから傷もだいぶ癒えてんだろうなと思ったらとんでもない。こっちは身を引き締めて、受け止めていかないといけないなとすごく思いますよね」
一矢さんは、信頼関係の深まりから自分を強く表現するようになった一方で、同時に、相手の要求を受け入れる、ということもできるようになりました。
「大きい声を出さないで」と言われると、止めるようになったのです。
大坪さんは、人との関係を築くのが上手な一矢さんに感心しています。
「美味しい世界を手に入れた、それを手放しちゃいけないっていうのがあるんだと思うんですよ。今の暮らしの自分のペースでできるっていうことに喜びを感じているんだと。一矢さんは人を信じるという気持ちを持っていて、そういう一矢さんだからこそ、ロールモデルとしてみんなに示すことができる。同じ重度知的障害者の目標になれる一矢さんの暮らしを発信することで、『地域で暮らすのは無理』という結論にしない、というのを頑張っているところです」
植松死刑囚への答えとは
今、一矢さんは、剛志さんとチキ子さんと週に1回ビデオ通話をしているほか、月に1回ほどご飯を食べに実家を訪ねています。
剛志さんは、いつも、一矢さんの大好きなアイスをたくさん用意して待っています。
「一矢が俺たちと話したいんだって言うのもわかるようになってきたし、一矢がアイスを持ってくるじゃないですか。それで、その持ってきたアイスは、前は全部自分のものなのね。でも今は、人様にあげるんですちゃんと。やっぱいろんな人と交流する中で、そういう気持ちが芽生えたんだと」(剛志さん)
「この前、一矢が『お父さんのこと大好き』って言ってた」と、チキ子さんは嬉しそうに話します。
アパート暮らしが始まった3年前、剛志さんは、「重い障害のある一矢が、多くの人に支えられながら、幸せに生活する姿を見て欲しい。それが、植松死刑囚の主張に対する自分たち家族の答えだ」と、話していました。
それは、今も変わらないと言います。
「『障害者なんていらない』『心失者』って言ったけど、うちの息子は我々としたら心失者でも何でもないよって。ちゃんと意思を持って、言葉は少ないかもしれないけど、意思疎通もできるし、普通の生活もできるんだよって。それをあなたが障害者はいらないとか、そういうふうに考えること自体間違ってるんですよってことを伝えてあげたいですよね。ただ、植松死刑囚には伝えられないかもしれないけど、これからもし彼のような人が出てきたら困るから、植松死刑囚に共鳴するような人たちに伝えられるようにしたいですよね」
そして、剛志さんは、一矢さんのことを発信するだけではなく、国や行政に働きかけ、制度を向上させたいと話します。
「今幸せ。でも幸せでいいのかなって。僕らは運よくこうなっているけど、同じようにやりたくてもできない人もいるし、重度の人にとっては施設があることも重要。障害のある人たちが、生きる喜びができたっていうふうになると嬉しい」
事件後、立て替えられた津久井やまゆり園。
一矢さんは、現場となった園に近づくとパニックになり、20年以上を過ごした場所に再び行くことはなくなっていました。
事件から7年となる7月26日、剛志さんは、毎年献花に訪れているやまゆり園に、自立して幸せに暮らす一矢さんを連れて行きたいと考えています。
「25年暮らしたところだからね、1回ちゃんと見せたい。こんな風に変わったんだよって。19人の仏様に手を合わせてね」
取材が終わるころ、私たちに「また来る?」と笑顔で聞いてくれる一矢さん。
今日も、小さな喜びを感じて暮らしています。
取材・執筆:TBSスパークル ドラマ映画部 福田浩子
この記事は、TBS NEWS DIGによるLINE NEWS向け特別企画です。
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