今から77年前の1945年8月15日。日本は戦争に負けました。
その数日後。満州(現在の中国東北部)に、現地の農民になりすました日本兵の姿がありました。
当時20歳の僧侶・横山周導さん(95)もその一人です。
部隊は現地解散となり、祖国へ帰りたい一心で道を急いでいました。しかし。
「コラ、日本人!」
ソ連(現在のロシア)兵の呼びかけに思わず振り返ってしまい、捕われの身になってしまうのです。
捕虜として送られた先は極寒のシベリア。そこで待っていたのは、想像を絶する寒さ、重労働、そして飢えとの闘いでした。「シベリア抑留」です。
地獄と呼ばれたシベリアからなんとか帰国した横山さん。
数十年後、死んだ戦友に導かれるように、再びソ連の地を訪れ、ある衝撃の事実を知ることになります。
以来彼は、ソ連の地を33回も訪問し、かつての敵と友情をはぐくむことになりました。
その事実とは。そして現在ウクライナ侵攻を続けるロシアをどう思っているのでしょうか。
戦時中「19歳」で満州へ
戦争中、満州で住職をしていた横山さん。
当時、たくさんの日本人が暮らしていた満州で住職になることは、「お国のためになる」と考えて、19歳で満州に向かいました。
しかし、実際に見た満州は、日本で聞かされていたのとは違うものでした。
「国が土地を準備してくれるという話でしたが、実際は満州人の土地を取り上げて、日本人に分け与えていました。だから、満州人は日本人に対して非常に敵愾心(てきがいしん)を持っていました。それは日本ではわからない、現地に行って初めて知った事実でした」
戦争末期の1944年10月。横山さんに召集令状が届きます。20歳の時のことでした。
「当時は『根こそぎ招集』といって満州にいる16歳から45歳までの男性は全部召集されました。満州に行ってお寺をやることも、兵隊に行くことも天皇陛下のため、東洋平和のためという時代ですので、お坊さんだからといって、自分だけ平和なところにいる、楽なことをやる、そんなつもりはありませんでした」
ソ連が攻め込んできた日
軍隊に入って1年近くがすぎた1945年8月9日。ソ連(現在のロシア)が中立を破り、国境を越えて満州に攻め込んできました。その日のことを横山さんははっきりと覚えています。
「普通の朝でした。ところが非常呼集がかかって国境のほうへ行ったところ、橋がすでに壊されてなくなっていた。日本とソ連の間には日ソ中立条約があるんだから、攻めてこないだろうと思っていたので、びっくりしました」
ソ連兵が乗るトラックに爆弾を投げつけ、抵抗を続けた横山さん。そのまま8月15日の終戦を迎えます。しかし。
「私たちの部隊は24日まで知らなくてずっとソ連兵を相手にゲリラ戦をやっていました。24日に私が伝令として中隊に行ったら、『日本は15日に降伏した。26日に部隊を解散する』という指令を受けたので、戻ってその通りに報告したら誰も信用しない。『お前はスパイだ』と。仕方がないから別の人間を伝令で出したらまた同じことを聞いてきたので、これは間違いない」
“終戦” すれ違ったソ連兵に捕まり…
横山さんの部隊は26日に「解散」します。中隊長ら幹部は白旗を掲げソ連軍へ投降。200人近くの兵隊は武器を捨て、マッチと塩、そしてわずかばかりの食料をもらって、山のなかで「解散」となりました。
「私は5人一緒に山を下りました。兵隊の格好は目立つから、農民の服を着て、満州人の帽子をかぶって歩いていたが、ソ連兵とすれ違う。向こうは日本人も満州人も区別がつかないから『ミカド』とか『ハラきり』などの言葉を投げかけて、我々の反応を見る。『日本人か』と聞いてくる。私らはぽかんとした顔をして、知らん知らんと首を振っていました」
「ところが延吉という町まで来たとき、後ろから『こら日本人!』と言われて思わず振り返ってしまった。それでソ連兵に捕まってしまいました」
ソ連兵は横山さんたちに「トーキョーダモイ(東京へ帰る)」と言っていたといいます。その言葉を信じて10日間歩かされ、日本海に面したウラジオストク近くの町まで移動しました。
この道中ではじめて、日本の敗北を痛感したといいます。
「道端や田んぼや沼の中、あちらこちらで日本兵が死んでいた」
横山さんは、死体を見るたび、拝みながら歩き続けました。
忘れられないのは、満州で暮らしていた日本人の姿です。
「女性や子どもたちが『兵隊さん助けて』というわけ。でも自分たちも捕虜になっているのでなんともならん。持っている食料を渡して別れたんですけどそれは本当に気の毒で。今から思うとあの人たちはみな亡くなったんだろうなと思う。今でもよう忘れんわね。かわいそうで」
ウラジオストク近くの町についた横山さん。しかし、日本になかなか帰れません。ソ連兵は「日本から船が来ないから」と繰り返し、1か月そこに留め置かれました。
「今思うと日本兵の捕虜を何十万人も集めて、ソ連のあちこちの収容所に振り分ける作業をしておったんでしょう」
1か月後、汽車に乗せられた横山さん。しかし、汽車は日本とは逆の、西に向かって走り出しました。逃げようとする人は容赦なく撃ち殺されたといいます。
「ソ連兵に捕まった」と知る
着いた先は、鉄条網に囲まれた収容所でした。
「みんな日本に帰れると思っていたから、怒り出すもの、泣き出すものがいました。奥さんや子どもがいる人もたくさんいたから、大変な騒ぎだった。日本に帰りたい、帰りたいと」
横山さんたちはここで、シベリア鉄道の建設工事に駆り出されました。
季節は冬。マイナス45度の寒さの中でも、毎日、時には夜中まで仕事をさせられました。
シベリア抑留とは
横山さんのように中国大陸で敗戦を迎えた日本兵や一部の民間人は、ソ連やモンゴルなどに2000か所以上あったといわれる収容所に送り込まれました。
正確な人数はわかっていませんが収容された人は、60万人に上るともいわれています。
彼らは、冬にはマイナス40度にもなる極寒の地で、木の伐採や鉄道建設などの強制労働に駆り出されました。過酷な労働、貧しい食事で栄養失調になる人も多く、6万人が死亡したと言われますが、今もその実情は、正確には分かっていません。
抑留を命令したのは、当時のソ連の指導者、スターリン。第二次世界大戦でドイツとの長い戦争を戦ったソ連では、多くの国民が死に、国は疲弊していました。スターリンは、国を再建するための労働力として、日本人を使ったのです。
「まず森の木を伐採する。運んで枕木に加工する。重い鉄を持ち上げて、線路を敷く。それを寒い中でやらなくてはならない。防寒具も十分にもらえないし、何しろ寒くてじっとしておれないの。いつも動いていないと寒くて寒くて。特に夜中はマイナス60度にもなって、体が十分に動かない中での作業でしたから、危険もありました」
食事は、1日1回。小さなパンが一つに、飯盒(はんごう)一杯分のスープだけ。
「仕事はきつい、食べものはない。ただ、食べたい、食べたいとだけ思っていた。とてもではないが、先に希望を持つなんて考えられない毎日でした」
過酷な労働と寒さ、飢え。次々と仲間が亡くなっていきました。
「夕べにしゃべっていた人が朝になると亡くなっている。そんなことがよくあった」
せめてもの弔いに横山さんは、お経をあげ続けました。
「誰かが亡くなると、お通夜のようにみんなで寄って、少しの間、私がお経をあげました。線香もないから、少々のタバコを燃やしてお別れする。みんな、亡くなった人を『気の毒だ、気の毒だ』と言いながら、一方で『次は誰だ?自分ではないか』という気持ちがある。次々に亡くなるのでだんだん神経も鈍っていった」
いつか日本に帰りたい。その日までなんとか生き延びよう。淡い希望をもって、過ごす日々でした。
幸運にも横山さんは2年で帰国が許されました。
「帰れるぞって言われたときはそりゃ嬉しかったです。私は年が若かったのに、ソ連側の命令でお年寄りの人たちよりも先に帰ることになった。心の中では帰りたい帰りたいばっかり思っていたから、残された人たちの気持ちなんて考えずに帰ってきました」
日本に帰っても“戦争”は続く
帰国後、教師として教壇に立ちましたが、シベリア抑留の体験について、話すことはありませんでした。
しかし、横山さんの中で、シベリア抑留は終わっていませんでした。
「向こうの夢をよう見ました。ロシア語で喧嘩している夢とか。向こうに友達を迎えに行ったような、そんな夢もみた。苦しんでいた友達に『はよ帰ってこい』という気持ちがありました」
自分だけが生き残り、友達を置いて先に日本に帰ってきてしまった。シベリアの夢を見続けたのは、罪悪感からでした。
「悪いことしたんじゃないんだけど、そういう気がするわけですよね。先に帰ってきたことが罪みたいに思えるわけやね」
帰国して30年以上がすぎた1983年。横山さんはソ連を訪問します。シベリア抑留で亡くなった人たちのお墓参りをするためでした。58歳でした。
ソ連の大地を踏みしめると、ホッとしたような、安らかな気持ちになったといいます。
「ここへきて、お墓の前に立つと安気になる。少しでも近くに来たということで気持ちが安らぐ。何しろ友達は22,23歳で死んでいるんだという気持ちが自分にはあるわけで。やっぱり一番心に残るのは、抑留の生活だもんで」
シベリアに心を残したまま戦後を過ごした横山さん。ようやく夢を見ることもなくなり、心休まる日々が訪れました。
日本兵が、ロシア人にしたこと
しかし、追悼の旅を重ねるうち、横山さんは、ある事実を突きつけられることになります。
アムール州、イワノフカ村。村の博物館には、ある記録が残されています。
イワノフカ村事件。
1917年、ロシア革命が起きると日本はその混乱に乗じ、シベリアに兵隊を出して反革命派を支援しました。「シベリア出兵」です。
このとき日本軍は、「日本軍に抵抗する軍隊を掃討する」として、イワノフカ村の住民を生きたまま小屋に閉じ込め、火をつけて虐殺したといいます。子供を含め、300人以上が犠牲となりました。
この事実を知った横山さんは。
「シベリアに抑留された自分は被害者だとずっと思っていたけど、我々も加害者だったんだということが初めて分かりました。イワノフカでこんなひどいことをしとった。これは我々がひどい目にあうのも当たり前だと。日本はこんなに悪いことをしたのに、それを子どもたちに教えてこなかった」
以来横山さんは、毎年のようにイワノフカ村を訪れ、村人と交流を重ねてきました。
イワノフカ村の元村長、ゲオルギー・ウス氏。横山さんと同じ95歳です。
村長として長年、横山さんと交流を重ねてきました。ウスさんもまた、日本との戦争に参加しました。
「私は横山さんを非常に尊敬しています。彼は毎年イワノフカ村を訪れてくれます。彼も戦争を体験しました。私たちは、日本とロシア、両国の平和が大切だという意見で一致しています」
村の中心にある公園には、横山さんとウスさんたちが建てた、記念碑が建っています。
「反省と深い悲しみを込めて」
かつて日本がイワノフカ村で行ったことを反省し、一方でロシア側はシベリア抑留で多くの日本人を死なせたことを反省する。その両方の意味が込められています。
ウス元村長はいいます。
「私たちは同じ太陽、同じ空、同じ水、同じ空気を共有しています。人間は、毎日同じ太陽の光をいただいている。私が吐いた息をあなたが吸っている。お互いを訪問し、お茶を飲み、話をすることが一番重要なことです。若い人たちに言いたいのは『この世界を大切にして下さい』ということです。平和の中で生きて、この世界を大切にして下さい。歴史を決して忘れないで下さい。なぜならこれまでたくさんの人が犠牲になったのですから」
日本で横山さんは、イワノフカ村事件を追悼する法要を毎年行っています。イワノフカ村の住民を日本に招いての交流も重ねてきました。
シベリア抑留とイワノフカ村事件。日本とロシア、お互いに深い傷跡を残した戦争。その記憶を大切にしたいと思っています。
「お互いに憎しみはあったかもしれん。でも交流を重ねれば、日本人、ロシア人という感じはお互いになくなっていきます。今度はお互いに自分たちのやったことを考えながら、新しい、戦争のない世界を築くために、はっきりと自信をもって生きていける道を選びたいと思っています。戦争は何にもならん。何の助けにもならん」
横山周導さんが“今”思うこと
2022年。ロシアがウクライナを侵攻しました。横山さんはこの戦争をどう見たのでしょうか。
「これまで33回、追悼のためロシアを訪問しましたが、普通の市民の人たちは、みな平和を望んでいると思います。プーチン大統領のような考えの人はいないと思います。プーチン大統領は国民の気持ちとかけ離れたことをやっていると思うし、独断で戦争をおこしたことはとても残念だと思います」
また、ウクライナ侵攻をきっかけに世界中で軍備拡大の動きが広がっていることやアフリカなどの国で食糧危機が起きていることにも懸念を示しました。
「新型コロナウイルスの感染拡大で、本来なら全世界が一つになるべき時に、ウクライナに戦争をしかけるなどあってはならないし、今はそんな時ではないと思います。とても裏切られたような気持ちがします。いつまでこの戦争が続くのかわからないが、これを世界が認めることがあってはならないと思います」
TBS報道局外信部 北京支局長・立山芽以子(2019年に取材、放送したものを再構成したものです。年齢・肩書・地名は当時のものです)
文中の絵は、同じくシベリア抑留を体験した都内在住の中島裕さんが、自身の記憶をもとに描いたものです。
この記事は、TBS NEWS DIGによるLINE NEWS向け特別企画です。