「最後に一目子どもを」叶えられなかった夫の願い、107歳の今も。妻・母として“生きると決めた”日の記憶
栃木県那珂川町の箱石シツイさん、107歳。今も現役の理容師だ。戦争で夫を失い、ハサミ1つで子ども2人を育てあげた。
今でも現役で店に立ち散髪する箱石さん
箱石さんは今でも鮮明に覚えていることがある。召集を受けて家を出る日、顔中涙だらけにして幼い子どもを抱きしめていた夫。「貯金も何も全部使ってしまっていいから、どうか子どもたちを守ってほしい」。そう言い残され、伴侶を見送った80年前の記憶。
夫の戦死を知り、箱石さんは一時、子どもたちと後を追うことすら考えたという。「戦争」は、終わりを迎えた後も市井の人々を苦しめた。妻として、母として、箱石さんはどのように乗り越えてきたのだろうか。
夫と子2人 充実した生活は徐々に厳しさを増す
箱石さんは、14歳で理容師になるために栃木から上京。22歳の時に同じ理容師の二郎さんと結婚し、2人の子どもに恵まれた。
夫婦は東京・新宿区に理容店を開業。その2年後には太平洋戦争が始まった。国民の協力が呼びかけられている時期。ぜいたく品は手に入らなかったが、職人、弟子、家事手伝いも雇い、忙しくも充実した日々を送っていた。
しかし、戦況が悪化するにつれ、配給事情も段々と厳しいものになり、手に入れられる食材は減っていく。鍋や皿を持って、食事はもっぱら雑炊。だんだんと手に入れられる食材は減っていった。わずかな野菜と米。イワシのぶつ切りが入れば良いほう。「動物のエサよりひどいと思った」と振り返る。たまに売り出される練り菓子や饅頭を大行列に並んで買うのが唯一の贅沢だった。
「家族も、理容店で働く職人も弟子も、誰も腹いっぱいには食べられませんでした」。
箱石さんは、理容師の仕事、子育て、さらに食材の買い出しに追われた。リュックを背負って満員の電車に揺られながら、埼玉県の所沢市に野菜の買い出しに通った。農家のもとを訪れ「畑になっている野菜を譲ってもらえませんか」と求め歩く日々。それでも農家の人からは「うちでも食べるものに困っている」と断られることの方が多かった。
空襲の夜、息子が笑った理由
アメリカの爆撃機B29が空を飛び交い、次々と焼夷弾を落とした。家の外のあちこちで『ドカーン』と爆音がする。
「B29が低空して来ると、いつも『もうやられる』と思った。急いで座布団を背中に背負って、赤ちゃんにおおいかぶさりました」と箱石さん。自分はどうなってもいいけれど子どもは守りたい、その一心で必死だった。
「赤ちゃんは、あやして遊んでくれていると思っているのか、キャッキャと喜んで笑うんです」。
飛行機が遠のいたか確かめようと窓を開けると、花火のように焼夷弾がピラピラと街に降っていた。
出征前、夫が見せた涙
1944年7月、ついに夫・二郎さんも召集された。令状が来てから3日で家を出ることになった。近所の人たちが二郎さんの見送りに来てくれた。1階で大勢が待っているのに、夫はなかなか降りてこない。
2階に様子を見に行くと、二郎さんは、幼い子ども2人を抱えて大粒の涙をボロボロと流していた。箱石さんも泣きたかったけれど、こらえた。「皆さんがお待ちですよ」とだけ伝えた。
入隊翌日、箱石さんは子どもを預けて1人で二郎さんと面会に行った。夫は「水も飲ませてもらえず喉がカラカラで声が出ない」と訴えた。
喉を潤してあげたいと考えた箱石さんは、再び農家を訪ね歩く。断られ続け、うっすら赤みが出始めたくらいの、ほとんど緑色のトマトを見つけた。「1個でいいから譲ってください」。懇願すると、農家は「いいですよ」と譲ってくれた。
二郎さんに届けると「やっと喉が潤ったよ」と、食べごろではないトマトをおいしそうにほおばった。
二郎さんから「子どもの顔を最後にもう一目見たかった」と言われ、箱石さんは胸がいっぱいになって言葉を返せなかった。「夫婦で貯めたお金は全部使ってしまっていいから、子どもを守ってほしい」二郎さんはそう言い残した。
差出人のないハガキに託された願い
入隊後どこの戦地に赴くか、家族にすら言ってはいけなかったという。箱石さんも、二郎さんがいつどこに向かうのか知らなかった。
面会の翌日、差出人の名前がなく「新宿1230通過」とだけ書かれたハガキが届いた。文字を見て、すぐに夫の字だとわかった。赤ちゃんを背負って新宿駅に急ぎ向かおうとした。でも、大混雑のバスに乗り込むことができず、間に合わなかった。
「夫はきっと、トイレか何かに隠れて必死にハガキを書いてくれたのだと思います。汽車の窓から外を見て、私と子どもがどこにいるか探したと思います。家族の姿がない新宿駅を通過したとき、夫はどんな気持ちだっただろう…」と箱石さんは言葉を詰まらせた。
「最後に一目、子どもを見たい」というささやかな夫の願いを、かなえてあげられなかった。後悔は、107歳になる今も頭から離れない。
栃木県の実家の父親から「東京は危ないから早く子どもを連れて逃げてきなさい」と繰り返し催促され、店を閉めて疎開した。その数日後、大空襲で東京は焼け野原になった。箱石さん夫婦の理容店も住んでいた家も、跡形もなく焼けてしまった。
ふるさとで親戚の家に身を寄せながら、1945年8月、終戦を迎えた。
しかし、夫・二郎さんに関する知らせは何もなかった。どうやら満州に赴いたようだったが、生きているのか亡くなったのかもわからない。ただただ帰りを待った。
「また家族4人で一緒に暮らしたい」「小さくてもいいから、夫婦で理容店を開きたい」。
二郎さんとの再会を待ちわびながら、戦後の混乱期を子ども2人と生活していかなければならなかった。あす食べるものはどうするのか。1日1日をどうにか暮らしていく日々が続き、気づけば終戦から何年もの月日が流れていた。
夫の戦死「夢も希望もなくなった」
1953年、終戦から8年が経ったある日突然、二郎さんの戦死の公報が届いた。呆然とする暇もなく、遺骨受領があると東京に呼ばれて向かった。
白い遺骨が入っていると思われる箱を手渡された。息子が箱を持ったまま転びそうになったとき、箱のなかで、カラカラと音がした。
「お母さん、これお骨じゃないよ!」
息子にそう言われて箱を開けると、小さな位牌が入っていた。遺骨ではなく、ただの板切れだった。
二郎さんが家を発ったとき生後10か月だった息子は、小学校3年生になっていた。記憶に残っていない父の姿を思い描き、対面できる日を夢見ていた。
「ずっと待っていたのに、こんな板切れだ」と息子は泣いた。
箱石さんは、「骨も爪も髪の毛も何もない。爪だけでもいいから本物が欲しかった」と悔しさをにじませた。
「これからどうして生きていこう。夢も希望もなくなった」。4~5日雨戸を閉めて、暗い家のなかで考えた。もし自分が倒れたら、幼い子どもたちはどうして食べていくのか。実家や親せきの世話になりっぱなしというわけにもいくまい。子どもに苦労かけるのもかわいそうだ。途方に暮れた。
娘に「お父さんのところに一緒に行こう」と伝えた。娘は「お父さんのところに行くということは、死ぬんでしょ?」と訊ねる。「そうだよ」と答え、抱き合った。
そこへ、息子が外遊びから戻ってきた。「どうしてこんなに家の中は真っ暗なの?」
「お父さんのところに、お姉ちゃんと一緒に3人で行ってしまおう」と伝えた。
「いやだよ!おれ、死ぬの嫌だよ!」と言って息子は駆け出していった。
近くに住む甥が駆けつけてきて「おばさん、なんてことするんだ。子どもたちには夢も希望もあるんだ、こんなことをしても、おじさん(二郎さん)は悲しむだけだ」と涙ながらに叱ってくれた。
「生きていかなければ」そう思い直した箱石さんは、2人の子どもと共に前を向こうと決めた。
「生きていてよかった」駆け抜けた70年
なんとか生計を立てるべく、戦後母子福祉金を借り、ふるさとの那珂川町で新たな理容店兼住宅を建てた。戦後は資材も不足し、屋根からは雨漏りがした。畑を買って、野菜も自分で作った。
ある時、息子が特大のジャガイモを掘った。「お母さん、こんなにでっかいよ!」
息子の弾ける笑顔を見た箱石さんは、初めて「あのとき死なないで良かったね」と言った。息子は「うん」とだけ返事し、あとは2人とも言葉が出なかった。
それから約70年の月日が流れた。箱石さんは「海越え山越え、今、やっと落ち着きました」と語る。
寝室の壁に飾られた、夫・二郎さんの写真。
「なんとか頑張っていますよ」。箱石さんは時折、二郎さんの写真に、こう語りかける。
100歳を超えても現役で仕事を続け、健康維持に取り組んでいる箱石さん。2021年東京五輪では栃木県内最高齢の聖火ランナーに抜擢され、その出発前にも「きょうは大仕事。頑張りますよ」と手を合わせ、報告した。
「戦地に赴いた人も、偉い人も、そうでない人も皆苦しんだ。そして私のように、残された女性や子どもたちも、皆つらい思いをした。そんな時代がこれからずっと、来なけりゃいいね」妻として、母として、戦禍を生き抜いた箱石さんは、そう願っている。
「戦争だけは、二度とやるもんじゃない。絶対に」
(TBSテレビ報道局記者・柏木理沙)
挿絵:画家・根本真一(箱石さんの記憶をもとに描画)
この記事はTBS NEWS DIGによるLINE NEWS向け特別企画です。