テレビ画面には、ロシア軍に追われ、隣国へ避難しようと駅で列をなすウクライナの人々が映っていた。
北海道の根室市に住む得能宏さん(88)は、他人ごととは思えなかった。
ああ、自分がソ連(現ロシア)の船に乗せられて、強制的に移住させられた時も、同じような光景だったな―。
77年前。得能さんの故郷は突如「占領」された。
自宅には見知らぬソ連人が住み着き、自分たちは物置小屋へと追いやられた。
ずっと続くはずだった平穏な日々が、ある日を境に“捕虜”のそれのようになった。劣悪な環境に幽閉され、家族や知人が次々と命を落とした。
今もロシアに占領されたままの、北海道の東側に位置する4つの島。「北方領土」という名で語られる、日露間の領土問題だ。
ロシアのウクライナ侵攻によって、北方領土問題の解決ははるかに遠のいてしまった。
「元島民」が向き合う冷徹な現実、そして得能さんが“息子”と呼ぶ、あるロシア人男性が語った衝撃の一言とは―。
国際法上も「日本であるはずの島」
得能さんが生まれ育ったのは北方領土・色丹(しこたん)島。「日本であるはずの島」は、歴史的な背景も国際法上の根拠もないまま、ロシアに支配されたままだ。
5月中旬、根室市に桜が咲いた。毎年、全国で最も遅い開花を迎える。桜の名所として知られる寺に、両親の墓参りに訪れた得能さんの姿があった。
「色丹島には先祖が眠っている、根室も色丹も自由に行き来できるようになったよと報告することが僕の願いなんだよ」
もう何十回になるだろうか。ここに来るたび同じ言葉を口に出す。
「まだまだ頑張るから。どうか、力を貸してください」
クジラを食べた平和な日々
国後(くなしり)、択捉(えとろふ)、歯舞(はぼまい)、色丹の4島からなる北方領土。戦前には1万7000人以上の日本人が暮らしていた。
そもそもは、開拓のために祖父が富山県から移り住み、漁業で生計を立ててきた。得能さんも、この地で生まれ育った。
「島にクジラが1日に7、8頭上がってくるんだよ。下校中に近所の漁師が焼いたクジラをもらって食べてたんだ。これは捕鯨場の近くに住む人の特権だった」
2月に米寿を迎えたが、色丹島での日々を鮮明に覚えている。幼心に、ぼんやりと思っていた。
大人になったら自分も漁師になって、この島で家族を持つのかな―。
そんな当たり前の未来は、11歳の時に突然奪われることになる。
戦後のどさくさに紛れて奪われた北方四島
第2次世界大戦の終盤。日本の敗色が濃厚となった途端、ソ連が対日参戦を表明した。1945年8月18日に北海道の北東に伸びる千島列島に攻め入り、9月1日に色丹島にも上陸した。
得能さんは登校するために家を出ると、港に入ってくる黒い軍艦2隻が見えた。たなびく赤い旗を見て「ソ連だ!」と気づき、慌てて学校へ向かった。
得能さん
「ソ連兵が7,8人連発銃をもって勢いよく教室に入ってきた土足のままダーン!て。僕らは悲鳴をあげるなんてもんじゃなかった」
日本が無条件降伏した後もソ連は侵攻を続け、同年9月5日までに北方領土は占領された。敗戦の混乱の中、いわばどさくさに紛れて奪われたのだった。
その後、色丹島にはソ連兵の家族が移り住み、日ソの奇妙な混住が始まる。島を脱出する人もいたが、軍兵だった父が連行されたため、得能さんは家族と共に留まった。
「一番屈辱的だったのは家を奪われたこと。ロシア人(旧ソ連人)が元の家に住み、その横にある物置小屋で自分たちが生活していた。トイレも窓もなかったんだよ」
2歳の姪の死をひた隠し
ソ連の管理下での生活は2年続き、その間に祖父・源次郎さんは亡くなった。そして13歳の時、ソ連軍から強制送還の命令を受ける。
「すぐに戻ってくるからなー!」。貨物船の甲板でそう叫び、遠ざかる島影をじっと見つめた。到着したのは、すでにソ連の支配下にあった樺太・真岡だった。
収容所での生活は劣悪なものだった。風呂には入れず、食料は満足に与えられない。子供や高齢者など多くが栄養失調で亡くなった。
2か月がたち、ようやく北海道に引き揚げさせられる船に乗ることが決まった。これで苦しい生活が終わると、乗客みんなで涙を流して喜んだ。
しかし、函館に着いた時、姉の背中で2歳になる姪が死んでいた。
「昔は船の中で人が亡くなると遺体を海に流していた。後で聞いたら、あの船でも約50人が流されたらしい。姉は姪を連れて帰りたくて、亡くなったことを家族にも言わなかったんだ」
忘れもしないあの侵攻から10年、20年、30年…。元島民にとっては返還を訴えるだけの日々が、無情に過ぎ去っていくことになる。
そして始まった「ビザなし交流」
1991年、ソ連のゴルバチョフ大統領が訪日した日ソ首脳会談で、領土交渉はようやく動き始める。共同声明でソ連は、日本との間に「領土問題がある」と初めて認めたのだ。
翌年、元島民とロシア人が相互に訪問する「ビザなし交流」が始まった。「領土問題の解決に向けて、互いの理解を深めること」が目的だ。
第1陣に参加した得能さんは、45年ぶりに実家があった場所に向かった。しかし、そこはロシア国境警備隊の基地に変わり、足を踏み入れることはできなかった。
ロシア人からは歓迎をうけ寝食をともにした。しかし、返還の気持ちが先走ってしまい、衝突を繰り返したという。
「ビザなし交流という名前なんだけど、思惑・腹の中は違う。日本は訪問しては返還の思いを訴える。すると、『日本人にもう会いたくない』とロシア人が言い出した」
それでも、故郷とのつながりを断つわけにはいかない―。やがて、現地での返還の訴えは影を潜めるようになった。
ロシア人の「息子」ができた
交流を重ねる中で、17年前、得能さんは色丹島に住むイーゴリ・トマソンさん(56)に出会う。いまでは互いに父・息子と呼び合うほどの関係だ。
「歳を聞いたら息子と同じだから、友達じゃなくて息子にならないかと聞いた。そしたらトマソンが『ハラショー(すばらしい)』と言っていたね」
得能さんが訪問する時には、トマソンさんが必ず出迎えるようになった。
20年ほど前、生まれ育った地区の高台に得能さんは墓を建てた。祖父と引き揚げ船で亡くなった姪が眠っている。島に来られない時期は、トマソンさんが掃除をしてくれていた。
「私はここで生まれ得能さんもここで育ちました。私たちは良好な関係で対立もありません。得能さんは日本人の中でも特に温かい人です」
島で喫茶店を営むトマソンさんには幼い2人の子がいる。得能さんにとっては故郷にできた「孫」だ。子どもたちも、得能さんに会える日を毎年心待ちにしているという。
島民を翻弄し続ける日露関係
そうして築いてきた友好関係に思わぬ障害が立ちはだかった。
今年2月、ロシアが隣国・ウクライナへ軍事侵攻を開始したのだ。一方的な侵略行為に欧米諸国から批判が高まり、日本政府も経済制裁に踏み切った。
これに対し、ロシアは北方領土問題の協議を含む平和条約交渉の中断を表明。それは日露関係の破綻を意味していた。
「本当に厳しい。本当に涙が出るくらい悔しいよ」。得能さんの顔が、苦渋でゆがむ。
さらに遠ざかる故郷。元島民たちはこれまでも日露関係に翻弄されてきた。
1956年の日ソ共同宣言では、平和条約を結んだ後に歯舞・色丹の2島を引き渡すことが明記されていた。日本は、それ以前に調印していたサンフランシスコ平和条約で、北方四島のうち国後と択捉は放棄するという立場をとっていた。
しかし、日ソの接近を警戒した当時のアメリカは、「国後と択捉を放棄するなら沖縄は永久に返さない」と日本を脅したのだ。
このため日本は4島一括返還に方針転換し、長らく交渉は停滞した。2000年に就任したプーチン大統領も、2島返還を記した56年宣言が交渉の根柢にあるという立場を崩していない。
日本も一枚岩になれず
このままでは、領土問題は動かない。4島から2島先行返還に舵を切ろうとしたのが安倍元首相だった。
最も進展が期待されたのは2016年。プーチン大統領が訪日した首脳会談だ。しかし、合意したのは「特別な制度での共同経済活動」の協議開始のみ。領土交渉はまるで進まなかった。
ソ連時代から交渉の最前線にいた元外務省欧亜局長の東郷和彦さんはこの時、政府が4島一括の方針を変えることができなかったと証言する。
背景には、「外務省主導」と言われる北方領土交渉の実態があった。
東郷和彦元外務省欧亜局長
「外務省と官邸で折り合ったのは特別の共同経済活動っていう。しかしこれね『主権交渉』じゃないんですよ。完全に日本は逃げたとしか見えない。官邸では最後の案を出せない」
4島一括にこだわる外務省、2島先行で進めたい官邸。日本の領土交渉には、両者の軋轢が付きまとっているのだ。
“息子”の口から出た、衝撃の「現実」
20年ほど前、北方領土は貧しく、生活水準はロシア本土と雲泥の差があった。ロシア側が実施したアンケートでは、島民の8割が「暮らしが豊かになるならば、島を日本に引き渡してもいい」と答えた時期もあったという。
しかし、プーチン大統領は大規模開発に着手。得能さんの故郷・色丹島もインフラが整備され、ロシア最大級の水産加工場も完成した。
次第に、ロシア人の領土問題への意識は薄らいでいった。得能さんが息子と慕うトマソンさんも例外ではない。日本との領土問題についてどう思うかという質問に、こう答えた。
トマソンさん
「私自身は領土問題はないと考えています。けど日本側からみればあるのかもしれません」
得能さんを父と慕い、墓守までしている“息子”ですら、躊躇なく領土問題はないと言い切る現実。
30年たっても、隔たりは埋まっていない。ビザなし交流は、領土問題の上に立たないまま続いてきた。得能さんもトマソンさんの領土への思いに気が付いていたという。
それでも、ロシア人との絆を広げていくことが未来につながると信じている。
「ここは日本人が開拓して、僕らが住んでいたという歴史を広く知ってもらうことが大事。返還する、しないは国同士が決めること。島に住むロシア人には、将来日本人と一緒に住んでもいいなと、まずは思ってもらいたいんだ」
もう会えないかも
トマソンさんはコロナ禍もあってすでに3年間会えていない得能さんにビデオ通話をすることにした。
「パパ、オゲンキデス?オハヨウゴザイマス!」
「おはよう!元気そうですね!」
もう会うことができないかもしれない。そんな思いに駆られて、得能さんは息子の写真を手に取った。
「もしも僕がいけなくてもこの息子が行くからね。あなたの兄弟だから。よろしく頼みますよ」
「もちろん息子さんと喜んで会います。でも得能さん自身も必ず来てください。88歳なんて、まだこれからですよ」
励ましの声に笑顔を見せるが、過ぎ去った年月が重くのしかかる。
約1万7000人いた元島民は5400人に減り、平均年齢はすでに86歳を超えた。自分たちの代での返還は、もう叶わないかもしれない。
故郷を追われた体験を語り継ぐ「語り部」の活動を長年続けてきた得能さんは、次世代に返還の思いを伝えていくことに、一層力を注いでいる。
「もう島に行けないと思うことはある。気持ちは絶対行くぞってなるけども、行けない時の布石を子供とか孫に打っておこうと思ってね」
島民に残された希望は細り…
3月末、色丹島はようやく雪解け時期を迎えた。トマソンさんはスコップを手に得能家の墓に向かった。いつか会える日を願いながら、墓の除雪に汗を流す。
「お墓はちゃんと私が守っているし得能さんの健康を祈っています。また先祖の墓参りに来てくれるのを待っています」
30年培ってきたロシア人との絆が実を結ぶのかはわからない。それでも、故郷の返還にむけて、元島民にとっては唯一残された光だ。
これから、日本は北方領土にどう向き合うのか。ロシアにどう向き合うのか。元島民が人生をかけてつないできた想いが、まだ見ぬ未来に語りかけている。
(札幌テレビ放送報道部 中内 佑)
※この記事は、札幌テレビ放送(STV)によるLINE NEWS向け特別企画です。