チームメイトへの暴行で、8月11日に球団から出場停止処分を受けた日本ハムの中田翔。16日になって栗山英樹監督が退団の可能性も示唆するほどの騒動となっているが、実際に過去にも、不祥事を起こして移籍の憂き目にあった選手がいる。
“懲罰トレード”となると真っ先に浮かぶのが、二岡智宏の例だろう。強打の遊撃手として1998年ドラフト2位で近畿大から巨人に逆指名入団。2003年に29本塁打を放つなど看板選手の一人として活躍していたが、08年7月に同じ広島県出身のタレント、山本モナとの不倫スキャンダルが週刊誌にスッパ抜かれた。二岡本人は丸刈りにしてこの騒動を謝罪したが、巨人は二岡をオフにトレードで放出。奇しくも移籍先は、現在渦中にある日本ハムであった。
同じように主力ながらトレードされた選手には、50年代に“野武士軍団”と呼ばれた常勝・西鉄(現西武)を支えた豊田泰光がいる。原因は暴行ではなく“暴言”だった。60年代に入って強さに陰りが見え始めた西鉄は、62年に中西太を選手兼任監督、豊田を選手兼任助監督に据えたが、実はこの2人は仲が悪かった。
中西は当時、慢性的な腱鞘炎に悩まされており、この年の出場はわずか44試合。そんな中西に対し、4番を務めていた豊田は不満を募らせ、思わず「オレだって身体が痛くても試合に出ている。そんな腐れ手首は切ってしまえ!」と発言してしまった。首脳陣の確執で空中分解したチームはこの年も優勝を逃し、豊田もオフに国鉄(現ヤクルト)へ金銭トレードで放出された。
首脳陣やフロントに対する行動が原因となって、移籍の憂き目にあった選手は他にもいる。
04年オフに山﨑武司が04年オフにオリックスを退団する要因となったのは、当時の監督だった伊原春樹への“造反”だった。
今年2月に伊原がYouTubeで明かしたところによると、造反の理由は名古屋で行なわれたゲームで、不振の山﨑をスタメンから外したことにあるという。愛知県出身の山﨑は、地元出身の自分をスタメンから外すのはあり得ないとして、試合前に中村勝広GMの下へ赴き、伊原の解任を直訴する“暴挙”に出た。
この一件が問題視され、山﨑はシーズン終了後に自由契約に。一度は引退も考えたというが、翌年から新規参入する楽天からオファーを受けて移籍を決意。06年から就任した野村克也監督の指導により、07年には39歳で本塁打と打点の二冠に輝いている。
山﨑退団からわずか2年後の06年オフ、同じオリックスで今度は中村紀洋も騒動を経て退団した。この時、中村が対立したのは監督ではなく球団フロントで、きっかけはこの年の中村が死球で左手首を故障したことだった。この怪我が原因で中村は85試合の出場にとどまったものの、12本塁打はチーム2位。まずまずの成績だったこともあり、契約更改は揉めに揉めた。
「公傷」を主張する中村に対し、球団側はそれを認めず、年俸2億円から60%減の8000万円を提示。交渉は平行線となり、越年で6回も交渉した末に決裂となった。退団した中村に支配下契約のオファーを出す球団はなく、結局中日と育成契約。年俸はわずか400万円で、前年からの年俸ダウン率98%は史上最も大きな減額となっている(開幕直前に支配下登録され、年俸は600万円まで上昇)。
ここまで挙げたものは、どちらかといえば球団内部の事情やトラブルが原因となっているが、中田の場合は一歩間違えば刑事事件である。過去には実際に逮捕され、一度はプロ野球選手の身分を失った選手もいる。
66年の2次ドラフト1位(この年のドラフトは国体に出場したか否かで対象が1次・2次にそれぞれ分かれていた)で社会人の日本軽金属からサンケイアトムズ(現ヤクルト)に入団した加藤俊夫は強肩強打を武器に、2年目から正捕手に定着。だが、4年目の70年シーズン途中に、無免許で車を運転した挙句、交通事故を起こして逮捕されてしまった。球団から無期限出場停止処分を科された上に、オフにはあえなく解雇。後年、加藤は「この頃はプロを舐めていた時期だった」と後悔を込めて振り返っている。
だが、1年のブランクを経て日本ハムの前身である東映フライヤーズで現役復帰すると、再び正捕手として活躍。オールスターには4度出場し、77年にはベストナインとダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデン・グラブ賞)を受賞するなど、リーグ屈指の捕手として再起を果たした。
中田が今後どのような道をたどるかはまだ分からないが、再びグラウンドに立つことがあれば、加藤のように心を入れ替え、プレーでファンの話題をさらう選手に戻ってほしい。
構成●SLUGGER編集部
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