「ついに周平がここまで来たか……」。そう感慨にふけった竜党は決して少なくないだろう。11月25日、2019年度セ・リーグベストナインが発表され、高橋周平(中日)がゴールデン・グラブに続いて初受賞。プロ8年目にして、名実ともに一流選手の仲間入りを果たした。
11年のドラフトで超高校級スラッガーとして注目を集め、ヤクルト、オリックスとの競合の末にドラゴンズに入団した高橋――いやこの稿ではドラゴンズファンがいつもそうしているようにあえて「周平」と呼ぼう――は、ブレイクまでに長い雌伏の時期を経験した。
結果が出なかった時期、周平への周囲からの風当たりはかなり強いものがあった。ドラフト1位選手の常と言ってしまえばそれまでだが、周平の場合、ある事情によって周囲の「やきもき感」がより一層強まっていたようにも思う。 それは、彼の入団とほぼ軌を一にするように、ドラゴンズが球団史上最悪の低迷期に突入したことだ。入団2年目の13年から7年連続Bクラス。これは、チームにとって文字通り「未知の領域」だった。実は、それまでのドラゴンズは長期低迷知らずのチームだった。2リーグ制以降では1968~70年の3年連続Bクラスが最長で、低迷した翌年は必ずと言っていいほど優勝争いに絡んでいた。
そのドラゴンズが、13年から長い長いトンネルに入った。そして、伸び悩む周平はある意味で「低迷の象徴的存在」として受け取られるようになっていったのだ。その意味で、彼には不必要なプレッシャーがかけられていたのも事実だ。球団の育成方針も一貫性に欠けていた。一軍に上がっても結果が出ないとすぐ二軍に落とされ、かといってじっくり育てるわけでもないどっちつかずの状態が何年も続いた。
ファンも、期待すればするほど肩透かしを食らうような思いをしてきた。個人的に印象深いのが17年の開幕戦だ。ドラゴンズブルー復活に歓喜して背番号3のレプリカユニフォームを購入し、文字通り首を長くしながら待っていた東京ドームでの試合で、周平はスタメンどころか一軍にもいなかった。6月頃だったか、ナゴヤ球場での二軍戦を見に行った時も、合わせたようなレフト前ヒット1本に終わり、「これじゃ一軍から呼ばれないよな……」とひとりごちながら尾頭橋駅へ向かってトボトボ歩いて帰ったっけ。
知り合いのライターから「プロ1年目のキャンプでのフリーバッティングは凄かったですよ。とても高卒とは思えない打球をガンガン飛ばしてましたよ」と言われ、嬉しいような悲しいような、何とも言えない気持ちになったこともあった。
思えば、ドラゴンズファンが周平に抱く感情は、親が子へ向けるそれとよく似ている。「この子はもっとできるはず」「いや、そんな風に思っているのはひょっとして自分だけなのでは……」という交錯した感情。昨年、与田剛新監督が周平をキャプテンに指名した時だって、多くのファンが「あの子にそんな大役が務まるのか?」と不安に駆られたものだった。
同時に、ドラゴンズファンは「周平はできる子」と必死に言い聞かせてきた。「そもそも中日の高卒野手は大成するのに時間がかかるんだ」と強弁してきた。そこには「周平がダメだったら本当の暗黒時代が到来する」という危機感というか、大げさにいえば救世主願望のようなものがあったように思う。
それだけに、ここ2年間の成長ぶりは目覚ましいものがあった。昨年はプロ7年目で初めて規定打席をクリアし、今年は前半戦に首位打者争いを演じて初のオールスター選出。最高潮の時に不用意な怪我で離脱してしまうのが周平らしいと言えば周平らしいし、ホームランの数もまだ物足りない。それでも、今年は本人もファンも満足感を覚えた初めてのシーズンだったはずだ。チームも結果は5位だったものの、シーズン終盤でCS争いを展開。若手選手が続々と台頭し、トンネルの出口に差し込む光が見えてきた。
中日スポーツによると、沖縄での秋季キャンプで周平は根尾昴にこんなアドバイスを送ったという。「いいものを持っているからドラ1。自分を信じろ」。言葉はシンプルでも、これまで周平が経験してきた紆余曲折を思えば、実に重みがある。
竜の未来を担え 君の手で
飛び立て高く ゆけ周平
顔はまだあどけなさが残る周平だが、来年1月で26歳。プロ野球選手として脂の乗り切った時期を迎えた彼は、応援歌に込められたファンの願いを現実のものにしようとしている。
文●久保田市郎(スラッガー編集長)
外部リンク