半田健人
「僕ね、人間はどのくらいテレビを見ないで生きていけるかって人体実験をしてみたんですよ。2012年くらいのことですかね。そうしたらやっぱり人間って習慣があるから、最初は物足りなかったりするんですけど、ある時点から見ないことのほうが当たり前になっていくんですね。本当に見なくなっちゃって、今年90過ぎになるうちのじいちゃんのほうが芸能にもトレンドにも詳しいんですよ。90超えたおじいちゃんが!」
「あれはもう少し省エネでやることもできたけど、それじゃダメ。ダサいものは手を抜くと、もう見てられなくなるんです。もちろん、台本と演出に準じていますが、どのテンションでセリフを言うかは僕のフィールド。そこはやりすぎなぐらいやるしか方法はない。でも、そんな小難しいことじゃなく、単純に楽しくて“これ、面白いじゃん”と思ってやっていたんです」と説明する半田。
昭和クサさを求めた“鼻水マン”の芝居
「世間的に僕は何をやっても仮面ライダーとして見られる。歌でもバラエティでも、“555(ファイズ)の人ですよね”と。与えられしヒーローという人生を背負ってるんだとすれば、それを満喫してしまおうと、ある時から思ったわけです」
「僕は昭和が好き。昭和のわかりやすいヒーローの喋り方、発声法、仕草であったりが平成に入ってから駆逐されていき、まるでコントのようになっている。昭和のクサい世界っていうのを自分の表現の1つとして、“これやらせたら半田うまいんだよ”っていうものを身につけたい。そういう思いがたぶんあの鼻水マンの芝居に出たんだと思います。2枚目じゃない昭和クサい世界を期待されているなら、とことんやらなきゃダメでしょう、と思ったら“やりすぎです。そこまでやっていただかなくても”って逆に言われちゃって。まあ、半日くらいの撮影だったんですけど(笑)」
「世間で半田健人見ないよね、消えたよねってなったのはいつぐらいのことなんでしょうか? 主観ではわかりえないというか、僕としては時計は止まってないわけですよ。事務所を辞めるということになったのはざっくり2011年くらいとしましょうか。それでも関西テレビの『よ~いドン!』はそのあとも出演していましたし、SBSラジオの『林哲司&半田健人の昭和音楽堂』は今も続いていて15、6年になります」
「やっぱり事務所移籍報道みたいなのがあると、みなさん“巻き込まれたくない”と思うのか、どこに行ってもそう。よく“干された”って表現を使うけど、例えば芸能界のドン”みたいな人がいたとして“あいつはこういう不義理をしたから使わないように”みたいなことをテレビ局やメディアに伝えるなんていうケースとはぜんぜん違って、単純に僕がフリーになったから、どこにも所属してないタレントは使いにくいという状況だったんだと思います」
売れた、成功した人間が幸せとは限らない
「ラジオの仕事も続いているし、関西テレビも事実上フリーになっても個人契約を交わしてくれました。手を差し伸べてくれる人はいたんですけど、露出のペースはかなり落ちました。これは負け惜しみに聞こえるかもしれないけど、売れてる人間、成功してる人間が幸せと思われてますけど、僕はいまはそう思ってなくて。人生単位での成功、芸能人としての成功はテレビに出ることかもしれないけれども、人生として振り返った時に自由と時間、この2つを手に入れたのは狙ってできることではなかった」
「やっぱり殺伐とするんですね。そんなつもりはなくても、今思えば一個一個の仕事が散漫になっていました。朝から晩まで1日3本、別の番組に出演。それが毎日続くと、仕事をいただいてるっていう感覚がなくなっていく。乱暴な言い方をすると“休みくれよ。また、仕事入れやがって”ですよ。スタジオでディレクターさん、プロデューサーさんが“よろしくお願いします”って来てくれても、“よろしくお願いします”とは言いますけど、内心としては“もうしんどい”のほうが先に立っちゃってるっていう状況が正直ありました。
ジュノンボーイコンテストでついた“ウソ”
「土屋太鳳さんと百田夏菜子さんが主演。太鳳ちゃんが40年前の世界にタイムスリップして『全日本歌謡選手権』に出るんですけど、コンビを組む女の子が百田ちゃんで実は自分のお母さんだったっていう話なんです。僕はその全日本歌謡選手権の司会役で、モデルになった全日本歌謡音楽祭はスリーファンキーズの長沢純さんが司会をされてたんです。佐々部清監督(故人)が“キャスティングをぼんやり考えたときに、半田くんの役は一番最初に決まった”って言ってくださって。“半田くん、僕より詳しいよね”って」
「たぶん、日ごろの昭和研究みたいなところが生きた瞬間ですよね。役ははっきり言って端役ですけど、自分にしかできない役をいただいたという体感があったんです。鼻水マンにしても、2枚目じゃない昭和くさいヒーローを期待していただけたんじゃないかと思います」
「ジュノンボーイを受けたときに俳優をやりたいって言ったんですけど、実は大嘘だったんです。当時はジュノンで音楽をやりたいって言ったら、僕の苦手なダンス系とかアイドル系になっちゃうのかなって思って、“僕、歌はダメなんです”って答えてたんです。でも、最終選考会では野口五郎さんの『私鉄沿線』を歌ったんですけど(笑)」