中村吉右衛門さんと尾上菊之助
「今年の3月28日、公演後に訪れたレストランで倒れ、心肺停止状態に。『楼門五三桐』に石川五右衛門役で出演していて、千秋楽を残すだけでした。救急搬送されて一命をとりとめますが、しばらく意識不明の状態が続いたといいます。回復してからはリハビリに取り組むものの、復帰は叶わず。
尾上菊之助が声を震わせて
「後に意識がない状態だったことが明かされましたが『七月大歌舞伎』のポスターには出演者として吉右衛門さんの名前が掲載されていました。入院中の様子は血縁者や松竹の幹部クラスのごく一部しか聞かされていなかったようです」(同・スポーツ紙記者)
「岳父は全身全霊をかけて芝居に打ち込まれました。先人たちがつくり上げた教えを守って、血と汗と涙の結晶をさらによいものにして後世に伝え、現代の歌舞伎を進化させてくださいました。私たちは、その教えを守って後世に伝えられるように、研鑽していきたいと思っています」
「3月に倒れる直前、自分もつらかったはずなのに、当時、腕を骨折していた私のことを心配してくれた。尊敬するとても優しい父でした……」
「岳父の芝居を愛してくださったみなさま、本当にありがとうございます。岳父のこと、中村吉右衛門のことを忘れないでください」
「菊之助さんは感情をそれほど表に出さない冷静沈着な方。彼があそこまで取り乱すのは珍しいことです。菊之助さんは吉右衛門さんの芸と人間性に心服していました。だからこそ、実の父を失ったのと同じぐらいの喪失感なのでしょう」(歌舞伎関係者)
兄とは対照的な「孤高の役者」
「大きな体格とよく通る声は唯一無二。『勧進帳』で演じた武蔵坊弁慶は当たり役でした。歌舞伎でつちかった芸は'89年からドラマで演じた『鬼平』でも生かされます。実力に知名度が追いつき、播磨屋は揺るぎない存在に。
'06年から初代吉右衛門の俳名を冠した『秀山祭』を開催。定期的に追善公演を行っているのは市川團十郎ら成田屋と尾上菊五郎らの音羽屋のみですから、彼らと肩を並べるほどの名跡になったと認められたことになります」
「先代の初代・吉右衛門さんは大正から昭和にかけて活躍。当時は六代目尾上菊五郎と人気を二分し“菊吉時代”と呼ばれたほど。一代で播磨屋の名跡を築きましたが、芸を継ぐべき男子は生まれませんでした。
「白鸚さんはおおらかで天然ぎみ。器用なところもあります。吉右衛門さんは、芸一筋の孤高の役者。周囲と距離を置いて思い詰めることもある繊細な気質でした」(同・松竹関係者)
菊之助が準備していた恩返し
「'55年に東宝が松竹に対抗して“東宝歌舞伎”を立ち上げた。吉右衛門さんは'61年に実父や兄とともに東宝に移籍し、同じ舞台に立つことになったんです」(同・松竹関係者)
「吉右衛門さんは、スタンダールの『赤と黒』や漫画『巨人の星』の星一徹役など、現代劇からミュージカルまで幅広く挑戦。でも、自分ではしっくりこなかったようです。一方、白鸚さんは現代劇でメキメキと頭角を現し、主演した『ラ・マンチャの男』は代表作になりました。吉右衛門さんは'74年に松竹に戻ります。出戻りということで冷遇されましたが、確かな芸が彼の評価を高めていきました」(同・松竹関係者)
「今、とても悲しいです。たった1人の弟ですから。幼いころ、波野の家に養子となり、祖父の芸を一生かけて成し遂げました。病院での別れの顔は、安らかでとてもいい顔でした。播磨屋の祖父そっくりでした」
「結婚当初から菊之助さんに息子が2人生まれたら、1人を吉右衛門さんの養子に出すという話もあったそうです。でも、長男の丑之助くんが生まれた後は、女の子が2人。菊之助さんは、恩返しできなかったことを悔やんでいたのかもしれません」(前出・松竹関係者)
「倒れた直後の4月に行われた『絵本太功記』では、吉右衛門さんの得意とした光秀の息子役を菊之助さんが、7月の『御存鈴ヶ森』でも吉右衛門さんが演じる予定だった幡随院長兵衛の相棒役である白井権八役を菊之助さんが演じました。吉右衛門さんがいつ復帰してきても相手が務まるようにと、菊之助さんの意向が強く反映されていたのでしょう」(前出・歌舞伎関係者)