増田惠子(1970年代後半から1980年代初頭にかけてアイドルデュオ「ピンク・レディー」のケイとして活躍)
「デビューしたときにスタッフがファンのターゲットとして考えていたのは、中学生以上だったんですよ。最初は深夜番組に出たりしていましたから。雑誌の撮影で、都内のキャバレーでホステスさんが着るような衣装に着替えて、お酌をするなんてこともありましたね」
ピンク・レディーデビューのきっかけ
「決戦大会で優勝したのは清水由貴子ちゃん。指名に手を挙げた事務所は、実に14社でした。私たちにも9社くらいの指名はありましたが、そこまで期待されているという感じは受けなかったですね」
『スタ誕』に出る前、増田は未唯mie(当時はミー)と一緒に浜松市内のボーカルスクールに通っていた。
「もともとは中学・高校の同級生でしたが、それぞれソロでヤマハのオーディションに合格。スクールの先生に2人で組むことを勧められて、キャッチ―で耳に残る、“ピンク・レディーサウンド”を作ったんです。新商品と一緒にトラックに揺られて、“このステレオはカラオケもついています。私たちが歌います”って3000円のギャラを頂いていました」
『8時だョ!全員集合』にはヘリコプター移動
「『スタ誕』の前にまずフジ系の『君こそスターだ!』に出たんですが、落ちてしまいました。自信満々だったんですけどね。プロ歌手みたいで新鮮味がなかったみたいです。何がいけなかったのかがわかったので、本命の『スタ誕』ではミニの衣装は着ないで、誰も知らない曲を踊らずに歌いました。それが功を奏したんでしょうね」
「5月末くらいから、仕事がひっきりなしに入るようになり、睡眠時間は2時間ほど。当時は歌番組自体が多かったし、日テレ系の『カックラキン大放送!!』のような歌ありのバラエティー番組がたくさんありましたからね。ただ、当時はみんな忙しくて、私たちだけが特別という感じじゃなかったんです。コンサートは毎週土日、夏休みや春休みは全国縦断コンサートというのが普通でした。生中継だったTBS系の『8時だョ!全員集合』にヘリコプター移動したことも。体力的にもかなりキツかったですが“(西城)秀樹は1日3回コンサートだから”ってマネージャーに言われていて、ほかの方たちはもっと大変なんだって思っていました」
「売れているって実感したのは、4曲目の『渚のシンドバッド』のときですかね。地方の収録でタクシーで現場まで行くときに、白い砂浜がずっと見えていたんですね。近づくと、黒い岩みたいなものが、ボコボコと並んでいる。砂浜なのに岩場って変だなと思ったら、岩じゃなくて人の頭だった(笑)。こんなに人が集まっているということは、それだけ人気になっているのかなって思いました」
「その年はレコード大賞を取れるのでは? という噂があって、新人が取れるはずないと思いながらも、どこか期待している部分がありました。実際には『勝手にしやがれ』で沢田研二さんが受賞しました。記者会見で沢田さんが“若い2人の女の子が、食べる時間も寝る時間もない中でこんなに頑張っているんだから、男の自分が弱音を吐いちゃいけない。頑張らなきゃ”って言って下さって。小学校のときにザ・タイガースが大好きでしたから、憧れの人に優しい言葉をかけて頂いてうれしかったですね」
「小さいころは近所の男の子と野球をやったりしていたので、王さんが大好きでした。あるとき、王さんとの対談のお仕事があり、初めてお会いしたときは“王さんだ!”って心の中で叫んでしまったくらい感動しました」
ダブルブッキングは当たり前
「青江三奈さんや佐良直美さんたち大先輩が出る番組に大遅刻。何時間も遅れて到着したらスタジオは異様な雰囲気で、みなさん腕を組んで待っていたんです。“どなたかがマネージャー出てらっしゃい。オタクの事務所はどうなってるの? この子たちを殺す気?“って。すぐにマネージャーが謝ってくれたんですが、先輩にかばってもらえてありがたいのと同時に、マネージャーがかわいそうでしたね。当時はいろいろな人が事務所に来て、勝手にスケジュールを入れていった感じでした。ダブルブッキングは当たり前。断らない会社だったんです」
「変な言い方ですが、キャンディーズさんはすごくかわいいらしい先輩でした。私たちはブーツを履くと180センチ近くになっちゃいましたが、キャンディーズさんはみんな小柄だったんです。よく比較されましたが、とんでもない。いつも“ちゃんと寝てる? ちゃんと食べてるの?”って心配してくれました。百恵ちゃんも優しかったことを覚えています」
「オファーを断るのがプロデューサーだった相馬一比呂さんの長年の夢だったんです。“番組を選ぶ権利はこちらにある”って思っていたみたいなので、こちらからお断りしたかったのでしょう。でも紅白を辞退したことで、大人たちの見る目が変わってきた気がして、暗雲が立ち込めてきたなというのはなんとなく感じ取っていました」
ピンク・レディー、アメリカ進出の成否
「当時は“アメリカの番組に出られたのは、お金を積んだからだ”って言われましたが、アメリカのショービジネスはそんなに甘い世界ではありません。ピンク・レディーは、アメリカの3大ネットワークと言われるNBCで冠番組を放送していたのに、悪いことしか書かれない。“大失敗”って書かれたときは悔しかったですね」
「確かに恋愛も1つの理由かもしれませんが、やっぱりレコード大賞を取って紅白を辞退したころから、歯車が外れた感じはありました。私たちもこれからどうやっていけばいいかわからなくなり、スタッフも方向性に迷ってしまった。アメリカに行って成功しても日本ではネガティブに扱われたりとか、みんなの心の中にすきま風が吹いていきました。自分もどんどん追い詰められていったんです」
「最初の曲は、ヤマハの大先輩でもある中島みゆきさんに書いてもらいたいって強い思いがありました。残念ながらお会いすることはできなかったのですが、デモテープでみゆきさんの歌う『すずめ』を聞いたときは、何とも言えない衝撃でしたね。2曲目の『ためらい』は松任谷由実さん、3曲目の『らせん階段』は竹内まりやさん、4曲目の『女優』は桑田佳祐さんが作ってくださって。今思うと、すごい方ばかりですよね」
フランスデビューと女優活動
「大林宣彦監督の『ふたり』や『あした』に呼んでいただきました。“ピンク・レディーを解散したら、女優をやればいいよ”って言っていただいたことがあって、本当に新尾道三部作のお話をいただいて。私は暗い役ばかりで悩んでいると相談したら“ケイちゃん、明るい役は誰でもできるんだよ”って。“陰って誰もが持つものではないから、陰のある役と言えば増田惠子って言われるようになればいいじゃないか”と言ってくださった。本当に救われましたね。人との出会いにはとても恵まれています」
「最初はソロ40周年の記念になればと思っていたんですが、阿久悠先生の未発表曲2曲を含む5曲が新曲で、自分のルーツであった人々に見守られてきた軌跡を表現できたかなと思っています」
「年を重ねたから歌える楽曲があるし、歌詞の理解力も深まってきた。見た目はシワが増えたりとかありますけど、若いときとは違う深さとか温かさとか、そういうものがシワに刻まれていく気がしていて。だから私は、これからも凛として生きていきたい」
「結婚しなくても人間ができ上がっているつもりでいたけれど、伸びしろはまだまだありましたね。結婚してすごく成長しました。歳を重ねてからの結婚のほうが、自分ができていますから、ここは譲れるとか、譲れないとか、人としての余裕が違うんじゃないでしょうか」
「18歳のとき『スター誕生』に合格してデビューしたことです。幼い頃からの歌手になる!という夢を叶えられたことは本当に幸せに思います。大変なこともあったけど、人間その気になったら出来ないことなど何ひとつないということを学びました。絶頂期と比べたら、その後の人生は何もつらくないです。ピンク・レディーは、人生の道しるべを作ってくれた4年7か月でした。あの経験があるから、今でもこうして笑顔で楽しく生きていけるのかなって思います」