「花の中三トリオ」(上段左から桜田淳子、森昌子、山口百恵さん)、下段は中森明菜とピンク・レディー
日テレと渡辺プロの“関係”
『スタ誕』の誕生前、日テレには『タレントスカウトショー あなた出番です!』(1966年~1969年)というオーディション番組があった。制作に深く関わっていたのは当時の芸能界に君臨していた芸能事務所の渡辺プロダクション。ここで発掘された新人はすべて同社からデビューした。
「ウチとしてはほかのプロダクションともお付き合いしたかった上、そもそも当時は渡辺プロへの不満が溜まっていた。そんな下地があったので、渡辺プロを除いた約40社のプロダクションとレコード会社に参加してもらい、『スタ誕』をつくったんです」(同・元日テレ幹部)
『君スタ』からは林寛子(62)、高田みづえ(61)、石川ひとみ(62)たちがデビューした。所属先は必ずしも渡辺プロではなく、さまざまだった。
「審査員も張り合い、『スタ誕』の顔が作詞家の阿久悠さんだったのに対し、『君スタ』はライバルのなかにし礼さんを起用。充実していました」(同・元日テレ幹部)
『スタ誕』の場合、予選大会の通過者が決勝大会に進み、プロダクション、レコード会社が「獲りたい」と思うと、社名入りのプラカードを上げた。この仕組みが功を奏したとよく聞く。
「視聴者が見ている前で獲得を宣言するから、みんな責任感が増すんですよ。視聴者が将来を期待した人を失敗させる訳にはいきませんから」(元レコード会社幹部)
アイドルが“儲かった”時代
「この慎重さも結果的にはよかった。ミスマッチが極力防がれた。また、日テレが有望な人材を特定の会社に集中させなかったから、お互いにライバルなのに各社から不満が出なかった」(同・元レコード会社幹部)
「本当は多くの社が2人とも欲しかったんです。図抜けた存在でしたから。けれど日テレがそれを許さなかった」(同・元レコード会社幹部)
「くしくも1970年代、80年代は各社がアイドルに力を注いだんです。理由は単純明快。アイドルは絶好のビジネスでしたから。それまで主流だった歌謡曲の歌手や演歌歌手、フォーク歌手と違い、レコードが売れるだけでなく、ドラマや映画もつくれる。CMの仕事も来る。あの時代、芸能人でもっとも商品価値が高かったのはアイドル。各社とも『スタ誕』から目が離せなかった」(同・元レコード会社幹部)
「ホリプロ・スカウトキャラバンが1976年に始まるなど各社が自前でオーディションをやるようになり、『スタ誕』に出るメリットが乏しくなりましたからね。各社としてみたら、ウチに仕切られるより、やりやすいし、アイドル志願者もプロダクションやレコード会社のオーディションのほうが歌手デビューや映画出演などの近道と考えた」(同・元日テレ幹部)
高堀冬彦(放送コラムニスト、ジャーナリスト)
1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立