'87年、日本武道館で行われた『全日本歌謡音楽祭』で『難破船』を歌う明菜
「母が亡くなり、明菜とも会えなくなって、もう27年になりますね……」
「今年の5月1日でデビュー40周年を迎えた明菜さんですが、ご本人が出演するようなテレビ番組やライブなどの活動は何もありません。あるといえば、衛星放送で過去のライブ映像が流されたぐらいで……」(スポーツ紙記者)
「父が大森で精肉店を営んでいたころです。自宅にひとりでいた母を突然、陣痛が襲ったのです。自宅に電話がなかったので、母は助産師さんを呼ぶために急いで近所の公衆電話まで行ったんです。そうしたら、そこで半分ぐらい明菜が出てきてしまったみたいで(笑)」
母が名付けた「明るい菜の花で、明菜」
「名前は母がつけました。生まれた時季の花ではないですが“明るい菜の花で、明菜”だと、母が言っていました」
「病弱だったんです。よく熱を出して、小学校も休みがちでした。プールに行くと、すぐに唇が紫色になっちゃって」
「もう母にベッタリでした。お出かけするときは母と手をつなぎたがって。母が出かけるときは、駆け寄って“私も行く!”と言ったりね」
《思えば私、デビュー以来ずっと誰かのために歌ってきたような気がします。最初は家族のため。小さい時から身体が弱くて迷惑ばかりかけていたから、「明菜、いいコだね、エライね」って、誉めてもらいたくて》(『SAY』2003年7月号)
「お母さんは“明菜がお腹にいるときから歌謡曲を聴かせていたので、絶対に歌はうまいはずです”と言っていたのをよく覚えていますよ。お母さんは、明菜をなんとしてでも歌手にしたいという思いが強かったように感じました」
仲良し家族を引き裂いたカネ
「母も明菜がデビューしたことはすごく喜んでいました。ただ、『少女A』については、少なからず不満があったようです。“あんな曲、歌いたくない”と明菜が言うと、母は“芸能界は甘くない。そんなワガママ言ったらダメ”とたしなめていましたが、実際は母も犯罪者を示すようなタイトルがあまり好きではなかったようです(笑)」(明菜の兄、以下同)
「“この間、ステージで着た衣装は私が決めたんだ”とか“アルバムのジャケットでも私がこういうところを考えたんだよ”って、褒められたくて母に報告してましたね。母も“すごいね!”って返すから、明菜はうれしそうで。明菜の税金対策のためにオープンさせたカラオケスナックも、母がお店をやりたいと知っていたので、明菜もとても喜んでいたんです」
「家族が私のお金を使い込んでいる」
「明菜は“この人”と思ったら、信じすぎてしまう面がありました。マネージャーか誰かに吹き込まれたんでしょうね。私たちは“人をあんまり信じたらダメだよ”と伝えてはいたんですけど……」
「明菜は仕事が忙しかったこともあり、お見舞いに来たのは数回だけでした」
「お母ちゃんの遺体を見たくない」
「明菜は母が亡くなる前日、病院に来たんです。目にいっぱいの涙をためて、こぼれ落ちそうになりながら“お母ちゃん、明菜だよ”と声をかけて、手を握ってね。ただ、母は痛みがすごくて大量の麻酔薬を打っていたので、意識はありませんでした。明菜は次の日に仕事があるので帰ったんですが、それが最後に……」
「通夜も葬儀も来ませんでした。明菜の1つ上の姉が電話したときには“お母ちゃんの遺体を見たくない”と話していたと聞いています」
「母が大好きでしたから、亡くなったという事実を受け入れたくなかったのかもしれません……」
「父はまだ入院していますが、健やかに過ごしていますよ。老人ホームに入所する予定ですから、誰も住まなくなった実家は売却することになりました。今、兄が手続きを進めています」
《今もお母ちゃんは清瀬の家にいてね、黙って私のことを心配してくれてる。なんかそんな気がするんです…》(『JUNON』1995年9月号)