悠仁さま、14歳のお誕生日に際しての近影。秋篠宮さまと(2020年8月10日・宮内庁撮影)
「2月16日、秋篠宮家の最側近である加地隆治(かちたかはる)・皇嗣職大夫(だいぶ)が、宮内庁で急遽会見を行いました。その場で“提携校進学制度を利用したご進学”とアナウンスされたことに驚きました。
“悠仁さまのために作られた特別制度なのでは”との報道もありましたし、悠仁さまが一般入試の当日に試験会場にいらっしゃったので、どのような形で合格したかについての経緯は、いっさい明かさないと思っていましたから」(宮内庁関係者)
歯切れの悪い最側近の回答
「提携校制度に出願するためには学業成績が秀でていることが求められ、大夫は会見で“悠仁さまは学業において最優秀グループに入っておられた”と説明しました。
「記者から“提携校制度は何年から導入されたのか”との質問に大夫は“私からは控えたい”と回答。その後、学校側が制度の実績などの詳細を公表していないことで“国民から疑念を持たれる可能性がある”と記者が問うと“入学者選考の事柄になりますので”と言葉を濁す。ほかの質問に対しても “提携校制度の条件を満たして合格された”ことを強調し続けました」(秋篠宮家関係者)
秋篠宮さまが抱かれた学生時代の“持論”
「皇室は公正であることを重んじていますので、宮内庁や秋篠宮殿下が、受験に関して誤魔化すようなことはあり得ません。ですから、悠仁親王殿下は、提携校制度の基準をクリアして合格されたのでしょう。もし学力が足りなければ、入学後にご本人が苦労するだけです。筑附としては、中学校での成績や今回の学力検査の結果を踏まえて、問題ないと判断したのだと思います」
「秋篠宮さまは“学習院ありき”というわけではなく“子どもの可能性を伸ばすにはどうしたらいいか”を、いろいろな人に意見を聞きながら模索されます。というのも、秋篠宮家の教育方針は、上皇ご夫妻から殿下が受けたものを踏襲されています。殿下は“私の好きなことをずっとやらせてくれたことに感謝しています”と、おっしゃっていました」(宮内庁OB)
「当時、学習院の理系学部の学生が“勉強が大変”と弱音を吐き、宮さまに“単位の取りやすい学部に転部すべきか”と、相談したことがありました。すると宮さまは“楽な学部で簡単に単位を取るよりも、一生懸命に打ち込める興味関心のあるものを見つけたほうがいい。そうでなければ理系のままでいいのでは”とお答えになりました。その学生は殿下のお言葉に納得し、理系学部のままで勉強を続けたのです」
日本最古の定期対抗戦
「学習院はもともと、特権階級である華族が一般市民と異なった環境で学ぶ学校として設置され、そこに皇族も入学するようになりました。一般市民とは異なる優美なライフスタイルを持つ子弟ばかりでしたが、それだけに皇族への敬愛もあり、皇族の生き方を理解する学生がほとんどでした」
「教員や学校設備も、ふさわしい対応を続けており、戦後に一般の学校になったものの、内部では伝統がまだ受け継がれています。悠仁さまを将来の天皇として教育されるのであれば、学校設備や同級生との関係などに、長年配慮してきた学習院のほうが適していると思われます。一般の教育機関に入っていくことは、いらぬ出費や精神的負担、制度改革などを当該学校や在職者、在校生に負わせるリスクがあります」
「秋篠宮家の方々は、なぜ頑なに“学習院以外”の学校を選ばれるのでしょうか……。学習院OBの一部からは、怒りにも似た声が聞こえてきます。上皇陛下や天皇陛下、秋篠宮さまなどの皇位継承者の方々は学習院に進まれています。警備体制のノウハウはもちろんのこと、学校職員や保護者にも学習院のOBが多く、皇族の受け入れが理解されやすい学校のため、静かな環境で学ぶことができるはずなのですが……」
「これは学習院と筑附の両校が部活対抗で試合を行う恒例行事。この総合定期戦は1896年の野球と柔道の対抗戦が起源で、何度か中止になることはあれど70回も続く“伝統の一戦”なのです。6月の第一土曜日に各運動部が競い合うもので、学習院側は“附属戦”、筑附側は“院戦”と呼び合っています。
山下晋司 皇室ジャーナリスト。23年間の宮内庁勤務の後、出版社役員を経て独立
小田部雄次 静岡福祉大学名誉教授。専門は、皇族や華族に関わる日本近現代皇室史