OLから転身し、親友とコンビを組んで漫才師になった今くるよさん。女芸人は数えるほどしかいない時代にデビューし、長い下積みも、漫才ブームの過密スケジュールも乗り越えてきた。苦楽をともにした相方・今いくよさんを失ってから2年半。くるよさんは、今もひとり、笑いの舞台に立つ─。
今くるよさん
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今年8月、大阪のなんばグランド花月(NGK)で、『女芸人大集合! なんばでどやさ!』が開催された。これは一昨年、いくよさんが亡くなった後、今くるよさんが女芸人の活躍の場を作りたいと立ち上げたイベントで、今回で3回目となる。
東京からのゲスト、阿佐ヶ谷姉妹ほか、今売り出し中の尼神インター、ゆりやんレトリィバァからNGK初登場の若手まで、多くの女芸人が参加。テレビでは女芸人ブームと言われているが、実際は女だけの出演者で観客を集めることは難しい。
しかし、この公演は約900席もあるNGKが満席となり、立ち見も出るほど大勢の観客が詰めかけた。
「すいません、地味な衣装で」と言いながら、くるよさんがピンクのひらひら衣装で登場すると、一気に会場が沸き、「可愛い!」の声までかかった。一緒に司会を担当する尼神インターからは「どこが可愛いねん!」とツッコミが入り、ドッと笑いが起こる。
こうしてイベントはスタートし、ネタあり、トークあり、新喜劇ありの内容たっぷりの2時間を、女芸人だけでやり通した。
「今は女芸人も増えてきましたけど、まだまだお笑いは男社会ですから。こうして女の芸人だけのイベントをやろうとしても、いまだに“無理と違うか?”と否定的な意見もあると思います。でも、女芸人たちがきちっとネタをして、お客さんに笑っていただく、時には批判もしていただく場は、今後のために必要なんです。
私のプロデュース公演では恒例なんですけど、今回も舞台に出る前、出演者全員で円陣を組んで“ファイト!”“楽しく行こうぜ!”と声をかけました。みんな一生懸命やってくれたし、会場いっぱいのお客さんも喜んでくれはったし、こんなうれしいことないですわ」
くるよさんのそんな思いは、後輩にも十分伝わっている。
「こういうイベントを催して、後輩の女芸人にも大きな舞台に立つチャンスを作ってくださるのは、本当にありがたいですね。ただ、くるよ師匠自身が、若手より目立って笑いをとっていかれるので、そこは困るというか(笑)。これだけ長くやっていて、舞台に出るだけで会場をわっと沸かせることができるって、やっぱりすごいと思います」
と、ヤンキーキャラで売る尼神インターの渚が、笑いを交えながらも、素直に感謝していた。
ソフトボールで運命の出会い
今くるよさんは京都府京都市生まれ。本名は酒井スエ子。6人きょうだいの末っ子として生まれたので、つけられた名前だという。
「親が年とってから生まれた子どもだったんで面倒を見切れんかったというのもあって、外でずーっと遊んでるやんちゃな子でした。近所にいた年の近い子たち3人と仲よしで、一緒に家の2階から大文字の送り火を見たり、京都で盛んな地蔵盆でお菓子もらうのになんべんも並んだり。今思っても遊んでばっかりの楽しい子ども時代でしたね」
とにかく身体を動かすのが好きで、中学時代からソフトボールを始め、スポーツ推薦を受けて京都明徳高校に入学。そこで、将来の相方となるいくよ(本名・里谷正子)さんと出会った。
「私の場合は、通っていた中学が高校にグラウンドを貸してたから推薦してもらえた気楽な立場でしたが、いくよちゃんはスポーツ万能で中学の全国大会で活躍した期待の花形選手でした」
新入部員は、みんなの道具をリヤカーで運ばなければならず、その当番が一緒で、ふたりは仲よくなった。「いくよちゃんはピッチャーでエース、くるよちゃんはキャッチャーでロース」というのが漫才のネタだが、実際のところは、いくよさんはセンターを守る強打者で1年のときからレギュラーとして活躍。くるよさんは控えのキャッチャーだった。
「私は足が遅くて、外野まで打ち返してもファーストでアウトになる(笑)。いくよちゃんは私が長距離打者になれるように“家で素振りを100回しよう”と提案してくれたんですけど、私が素振りをしたのは3日だけ。いくよちゃんは当時から努力家で、素振りもやり通しました」
2年の秋に、いくよさんはキャプテンになり、くるよさんはマネージャーに転向した。人を笑わせることの楽しさに目覚めたのはこのころ。365日休みなしという厳しい練習の合間、監督やコーチのものまねをしたり、二人羽織をしたりして、空気を和ませるのが役目となっていた。
キャプテンのいくよさんがチームを引っ張り、マネージャーのくるよさんがムードを盛り上げ、結果、チームは全国準優勝を成し遂げた。
鳴かず飛ばずで交通費も稼げず
高校卒業後、いくよさんはスカウトされ実業団ソフトボールチームの期待選手として大阪の保険会社に、くるよさんは地元・京都の電気機器メーカーに就職。
「呑気にOLしていたときに会社の友達から“吉本という会社がなんか募集してるで。あんた面白いし、受けたらどう?”と言われたのがきっかけですわ。それで、仲のよかったいくよちゃんに、“一緒に履歴書を送ってみよう”と声かけたんです。
まったくの興味本位ですよ。ところが、面接の案内が来たのはいくよちゃんのみ。私には何の連絡もない。“いちばん可愛らしい写真を送ったのに! どういうこと?”と、ふたりで理由を聞きに面接会場に行こうということになったんです」
「一緒に漫才をしたい」ということにして、ふたりで面接会場に乗り込むと、試験は受けさせてもらえた。しかし、「やめといたほうがええ。こんな安定してる会社に勤めてるんやから。考え直しなさい」と、にべない返事。
「吉本の人は、苦労するだけやからという親切で言うてくれはったと思うんですけどね。そこで私たちの負けん気に火がついてしもたんです。ソフトボール部では、千本ノックを受けて、“やめろ”と言われても“もう1本お願いします”と耐えて向かっていく。
そんな厳しい練習を乗り越えてきたわけですから。お笑いも“やってやろうさ!”と、ふたりでやる気になってしまった」
ふたりとも会社を辞めて、夫婦漫才で人気だった島田洋介・今喜多代師匠に弟子入りした。
かしまし娘など女芸人はまだ数えるほどしかいなかった時代。OLから転身して一からお笑いの勉強を始めるという女性コンビは初も初。当時の楽屋には女性用のトイレも更衣室もなく、交代で風呂敷を使って隠しながら着替えていると、「みんなの前でパァッと着替えろ」とセクハラまがいのことを言われたこともあったという。
師匠が出演する地方巡業に弟子としてついてまわったときに、欠員メンバーが出て、代わりに急きょ本名のままで出たのが初舞台。その後、大阪の本舞台にも立つチャンスを与えられたものの、スタッフには「10年かかる」とあきれられるような、ウケない漫才しかできなかった。
「舞台で漫才していた私たちに、劇場の支配人がバッテンをしながら詰め寄ってきて、“はよ舞台降りろ”と叱られたこともあります。確かに私ら不器用で、なかなか面白い漫才ができなかったんで、しょうがないんですけどね」
修業期間を終えて、今いくよ・くるよという名前で正式デビューしてからも、漫才師としてはまったく期待されず、鳴かず飛ばずの日々が長く続いた。
OL時代の貯金はすぐに底をつき、ガソリンスタンドなどでアルバイトをしてなんとかしのいでいたが、大阪から京都に帰る交通費もままならず、劇場の公衆電話から友人に電話をして、お金を貸してほしいと頼むことまであった。
「そんな電話の声が聞こえてしまったんでしょう。劇場の売店のおばちゃんが見かねて、お金を貸してくれたこともありました。絶対売れて恩返しせなあかんなぁと思いましたね」
しかし、30代に突入し、友人のほとんどが結婚した後も、まだ芽は出ない。後輩にも追い抜かれていく。不安と焦りから、親友だったふたりだがケンカもするようになった。舞台を終え、楽屋に入ったとたん、「ウケへんかったのは、あんたのせいや!」とつかみ合いまでしたこともあるという。ふたりとも、それほど漫才に真剣だった。
ダメなら辞める覚悟で臨んだ
転機が訪れたのは弟子入りして10年目の’80年。日曜夜の人気番組『花王名人劇場』で関西の漫才師が東京公演を行うという企画があり、そのメンバーに今いくよ・くるよが抜擢されたのだ。
「やすしきよし師匠が司会で東京の国立劇場で収録。全国ネットの番組で漫才するなんて夢のまた夢でしたから。ドキドキで楽屋行ったら、プロデューサーに“ウケなかったら放送しません”と言われたんですよ。えーってショックでしたけど。“これであかんかったら、きっぱりと辞めよう”と、いくよちゃんと覚悟を決めて臨みました」
当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった『横山やすし・西川きよし』による漫才が最初に披露される。爆笑に次ぐ爆笑で、40分以上もかけあいが続いた。観客は笑い疲れており、その後、舞台に出ていくのはどう考えても不利だったが、「色を変えるには女性コンビがいい」と次の出番にいくよ・くるよが指名された。
「次は女コンビの『今いくよ・くるよ』」と紹介された。といっても、観客のほとんどは名前も顔も知らなかったに違いない。「月賦でそろえた」ピンクのドレスに身を包み、ふたりは大緊張しながら舞台に出て行った。オンエアか引退か。『私はモテたい』というネタで、勝負は始まった。
「『いくよちゃんの胸はAカップ。私のお腹はワンカップ』というネタで、私がお腹を叩いたらパチーンとええ音が鳴って、お客さんがドーンと飛んだ。それほどウケたんです。それからも必死で叩き続ける漫才をやって、やっと舞台を終えて袖に帰ったときに、やすし・きよし師匠が“お前ら1着やな”と言うてくれはったんです」
収録の3か月後、無事にオンエアされ、お腹の音も、観客が飛びあがるほど笑った姿も、画面に映った。
未婚のまま漫才ブームに突入
「オンエアされてよかったなぁ、と喜んだ翌日から世界が変わりました」
お笑い番組はもちろん、久米宏司会の『おしゃれ』などそれまで芸人が出なかったような番組まで、さまざまな番組からの出演依頼が殺到。全国ネットのCMも10数本。今いくよ・くるよは、たちまち売れっ子になった。
「すさまじいスケジュールでした。朝いちばんで大阪の舞台に立って、それから九州、次は東北と北海道で2ステージ出て、最後は東京という1日もあったぐらい。体力だけは自信ありましたから、なんとかなりましたけど。まぁ、グチ言うてる暇もなかったですね」
漫才ブームの波もきて、人気芸人はとてつもない忙しさとなる。毒ガス漫才で注目を浴びたツービート、歌までヒットさせたザ・ぼんちなどと一緒に仕事をしまくった。さぞ儲かったと思われがちだが、手元に入る分はさほどではなかったらしい。
「でも、私たち売れない時期が長かったですからね。漫才できる場があって、飲んで食べるお金があったら十分。忙しくて大変でしたけど、楽しかったです。一緒に夜中まで収録したり、全国ツアーで日本中を駆け回ったり、漫才ブームで一緒に仕事をした人たちは、苦楽をともにした戦友ですね」
忙しい最中、いくよさんに恋の噂がたったこともある。
だが、ふたりは結婚することなく、漫才の道を突き進んだ。
「いくよちゃんはモテたと思いますよ。私は全然モテませんでしたけど(笑)。不思議と、ふたりでそういう話はしたことないんです。仕事終わってからは仲よくご飯食べたりはするんですけど。
愚痴を言ったり、相手に心配かけるような相談はマナーとしてしなかった。私らは“女は結婚して辞めるから”とよう言われて、それに対する反発心もありましたからね」
今でも付き合いのあるという、京都明徳高校ソフトボール部時代の先輩・上村加代さんはプライベートのふたりの様子をこう語った。
「色っぽい話は私らも聞いたことがないんです。たぶん、あったやろうけども、そんなそぶりは見せなかったですね。ふたりは漫才と結婚したみたいなところがあるからね。
舞台を降りてもふたりは仲よしでしたよ。楽しく飲んで騒いで、ケンカしてるところは見たことない。私たちソフトボール部の仲間もずっと大事にしてくれて、オリンピックも一緒に観戦に行きました。東京五輪ではソフトボールが復活するので、一緒に見に行こうねって言うてたんやけどね……」
倒れた相方をナイスキャッチ!
漫才ブームも落ち着いた’97年、くるよさんが急に体調を崩した。検査をすると心筋梗塞とわかり、血管を広げるステントを4か所も入れる手術を受けた。初めて仕事を3か月間休み、健康の大切さが身に染みたという。
大好きだったタバコをきっぱりやめ、酒量も大幅に減らして、仕事復帰。再び、ふたりで元気に漫才をしていたが、’09年、くるよさんは舞台で漫才をしている最中に倒れた。
「漫才中に動き回っていたときにふらっときて、そこから意識がなくなった。そこで、いくよちゃんはさすがの名選手。ナイスキャッチで、私が頭から倒れんように支えてくれたんです。“緞帳おろして!”“救急車呼んで!”と叫んでるのが遠い意識の中で聞こえました。打ちどころが悪かったら、危なかったでしょうね。いくよちゃんは命の恩人です」
倒れた翌日に東京で行われる漫才の会に出演する予定だったため、くるよさんは「仕事に行きたい」と言って医師を困らせたが、そんなことができるような軽い症状ではなかった。いくよさんはひとり上京。くるよさんが着るはずだった衣装を持って舞台に立った。
「帰ってきてからも、手術の説明を受けて不安になってる私に、“やってもらいよし!”と背中を押してくれた。それでペースメーカーをつける手術と心臓バイパス手術が受けられたんです」
「仕事のことは忘れて、ちゃんと治しや」と、いくよさんはひとりで仕事をこなしながら毎日面会に来てくれたという。おかげでくるよさんは回復。ふたりはまた元気に漫才ができるようになった。
’12年には40周年イベントを、地元・京都のよしもと祇園花月で開催。
「次の45周年は何をしようか」と相談しながら、元気に仕事をしていた’14年9月、いくよさんの胃がんがみつかった─。
忘れられない最後の漫才
「前から痛みはあったのに、胃潰瘍やと思い込んでたんです。あるときムカつきがひどいからと病院に行ったら、しこりがみつかって、検査をしたら胃がんとわかった」
付き添って、検査結果を一緒に聞いたくるよさんは「命だけは助けてください!」と叫んでいたという。「即入院」をすすめられたが、責任感の強いいくよさんは検査をしながら1週間かけて仕事を調整し、その後入院。抗がん剤治療を経て、10月に手術した。
「痛いとか苦しいとか、いくよちゃんは1回も言わなかった。手術後もすぐにウォーキングして鍛えてたぐらいです。もう1回、舞台に立ちたいという気持ちが大きかったんでしょうね」
12月には舞台復帰。それから半年間、漫才師今いくよ・くるよとして舞台に立った。
「’15年5月11日、最後になったなんばグランド花月での舞台。いつもはフロアの違う楽屋から、階段で行き来するのに、“エレベーターを使ってええかな?”とマネージャーに聞いたんです。“どうぞどうぞ。階段で上り下りするのは、いくよくるよさんぐらいですよ”と操作してくれたんですけど。それが長い付き合いの私が聞いた、いくよちゃんの最初で最後の弱音でした」
それから、再入院。検査の時に「里谷正子、28歳です」と年齢詐称ギャグを言って周りを和ませていたいくよさんだったが、27日に急変。最後の舞台から1か月もしない5月28日に亡くなった。ご家族と一緒に、最期を看取ったくるよさんは、高校時代からの呼び名「まぁはん」と叫んでしまったという。
「今振り返っても、いくよさんはすごい人やなぁと思います。人としても芸人としてもパーフェクト。人の悪口を言うたことない。愚痴も言うたことがない。漫才の台本も2日で覚えてしまう。誰に対しても優しくて、自分には厳しい頑張り屋。そんな素晴らしい人と縁あって漫才できて、私は本当に幸せでした」
周りの人たちは、いくよさんの死を悼みながら、同時にくるよさんのことを心配した。独身のまま漫才一筋できて、相方でもあり、親友でもあったいくよさんを失って、くるよさんはどうにかなってしまうのではないか。それほどくるよさんは憔悴していた。
「今後どうしますか」と報道陣から質問が飛んだときには「女優か歌手でもやります」と芸人らしく笑わせたが、本音は違う。
「正直、いくよちゃんが亡くなったばかりのころは“私ひとりぼっちになってどないしたらええの?”としか思えませんでした。でも、このまま落ち込んで何もせぇへんかったら、いくよちゃんが悲しむと思ってね。新しいことを見つけられるよう、努力せなあかんと思い始めたんです」
その年、『今くるよグランド花月~VIVA女芸人~』を開催し、初めて女芸人が中心のイベントをプロデュース、これがその後も続いていくことになった。
後輩に受け継がれる女芸人魂
今いくよ・くるよは後輩芸人に対して、優しい先輩として有名だ。毎年3月3日には、女芸人を集めて、お雛祭り会を開き、まだ名前も知らない新人たちまで招いて、一緒に飲んだり食べたりし、楽しい時間を過ごす。その会は、いくよさん亡き後も、くるよさんひとりで続けている。
「私たちは“女芸人なんかあかん”と言われた時代からスタートして、つらい思いもしましたけど。ただ、数少ない女芸人の先輩方にはよくしていただいたんですよ。いろんな方にお世話になりましたが、東京の内海桂子師匠は特に印象的でしたね。
相方を失ってひとりになられたときだったと思いますが、お正月番組で共演したときにご挨拶に行ったら“よう頑張ったなぁ。あんたらが頑張ってくれたから、私らもテレビに出られる。ありがとうな”とおっしゃったんです。大師匠にそんなこと言われて、恐縮するやらうれしいやら。私も若い人に対して、感謝できる先輩になりたいと思いましたね」
女芸人も急激に増えた。最近、東京進出を果たした20代の尼神インター誠子は、
「女の人生はいろいろありますから、芸人を長く続けるのはやっぱり難しい。そんな中こんなにも長く愛されてる、くるよ師匠は奇跡に近いぐらいすごい存在。私は生まれてずっと彼氏がいないので(笑)、漠然と不安は感じてるんですけど。独身のまま、お笑いにかける人生もいいなぁと勇気もらえますね」
と尊敬の眼差しを向ける。
ピンで活動するゆりやんレトリィバァは、
「小さいころ、NGKで初めて生でいくよ・くるよ師匠の漫才を見てから、ずっと憧れの存在です。師匠たちが女芸人の道を作ってくださったおかげで、私たち後輩は得をしてます。まぁ、女は面白くてもモテないから、“何をモチベーションにやってるの?”と聞かれたりはしますけどね(笑)」
と、平成生まれの新世代として明るく楽しくお笑いの道を歩む。
後輩たちは多方面で活躍し、結婚したり出産したりした後も、仕事を続ける女芸人も増えてきた。
くるよさん自身は、入門以降お笑い一筋を貫いた人生に後悔はないのだろうか?
「もし私がお笑いの世界に飛び込まずに、あのままOLをやってたら、どうなったんでしょうね。ソフトボール部時代の友達は、“きっと普通に結婚して、ええお母さんになってたよ”と言うてくれますけど。
バカ正直なんやろうか。わき目もふらず漫才だけの道を走ってきてしまった。後悔はないけど、いくよちゃんは頑張り続けたまま亡くなってしまって……。ああ、やっぱり寂しい。またいくよちゃんと一緒に漫才したいなぁ」
くるよさんは涙をぬぐい、それから泣き笑いのような表情になって、前を向いた。
「私が泣いてばかりいてはいくよちゃんが成仏できませんからね。芸人を辞めようとは思いません。舞台に立つと、“いくよちゃん、笑ってくれてはるで。ここに来てみんなの笑顔を見ていき”という気持ちになるんです。喜んでくださる方がいるかぎり、お笑いをやり続ける。これが、私の生きてる証です」
写真撮影のとき、くるよさんは、NGKの前で人混みをものともせず、満面の笑顔で手を交互に動かす「どやさ」ポーズを決めてくれた。気づいたファンたちが、思わずうれしそうな笑顔になって立ち止まる。たちまち楽しい空気がひろがった。笑いで人の和をつなげて、くるよさんは生き続ける─。
取材・文/伊藤愛子 撮影/松井ヒロシ
伊藤愛子(いとう・あいこ)◎人物インタビューを中心に活動するライター。著作に『ダウンタウンの理由。』『視聴率の戦士』『40代からの「私」の生き方』などがある。理学部物理学科卒業の元リケジョだが、人の話を聞き、その人ならではの物語を文章にするという仕事にハマって、現在に至る。
※2017年末まで公開の期間限定記事です。