メンタリストのDaiGoが自身のYouTubeチャンネルで、生活保護を利用する人やホームレスの人たちを侮辱し、排除する発言をした。その後、二度の謝罪をするも騒動は収まらず、社会問題として発展。DaiGoの発言を受け、緊急声明を発表した、生活困窮者の支援活動を行う『つくろい東京ファンド』の小林美穂子氏による寄稿。
DaiGo
250万人のフォロワーを持つメンタリスト・DaiGo氏がYouTubeに投稿した動画を知ったのが8月12日。その日からずっと心を削られ続けている。
「社会的無責任論者」と自己紹介に書いている250万人のインフルエンサー、その彼が動画配信サイトで流した差別的な発言は、明らかに度を超えていた。
DaiGo氏の投稿が炎上してから、私たちのもとには生活保護利用者たちからの悲痛な声が届いている。コロナ禍で仕事を失い、所持金も100円から数十円になって、慣れない路上生活も経験したのちに支援につながった若者たちだ。
彼らのほとんどがテレビは見ず、テレビを必要とも思っておらず、もっぱらスマホでYouTubeやインスタを楽しんでいると知ったのも、若い世代と関わるようになった最近のこと。
DaiGo氏に「どうでもいい命」と切り捨てられた元路上生活者や、生活保護利用で命や生活をつなぎとめた若者たちは、どんな思いでDaiGo氏の発言を聞いただろう。
「あれはいくらなんでもあんまりですよね」
「誰だかわからない人に、私の命の線引きをされたんですよね」
「ナチスと同じじゃないですか。学校で習わなかったんですかね」
LINEやメールで届いた彼らの言葉に心が痛む。そして腹が立ち、たまらなく悲しくなる。
インフルエンサーの“辛口”トーク、その罪とは
考えて欲しいのだ。好きで生活困窮する人がいるだろうか?
ーー頑張りたいけど思うように頑張れない、頑張ってきたけどうまくいかない。
それは、彼らのせいではない。そうでなくても生活保護バッシングや路上生活者への襲撃や殺人が後を絶たないこの国で、後ろめたい気持ちを抱えながら生きる人たちに対し、DaiGo氏の吐いた言葉の罪は非常に重い。
彼の言動は、ホームレス状態の人たちの命や安全を脅かすだけでなく、これから制度を使うべき困窮者の生きる道をも閉ざしてしまう。やっとのことで生きている人の力を奪い、自死に向かわせるリスクをはらみ、また優生思想に共感してしまう人たちをヘイトクライムに向かわせるに十分な影響力を持っているのがインフルエンサーの罪であり、その罪深さの前に「社会的無責任論者」だなんて言いわけは通用しない。
2012年に芸能人の親の生活保護利用について一部の政治家(片山さつき議員ら)が生活保護利用者のバッシングをし、メディアがこぞって追随し、バッシングの嵐が日本中に吹き荒れた。
そのころ、私が在籍していた困窮者支援団体には、泣きながら電話をしてくる方、家から外に出られなくなった方、ほかに生きる術はないのに「生活保護を切ろうと思います」と取り乱す方からの電話が相次いだ。バッシングはもともと精神的に疲弊しながらも、それでもなんとか生きようとしていた人々の心を折った。
あの厚労省が動いた
社会は優生思想を絶対に許してはいけない。それはなぜか。
優生思想は我々が暮らす社会の基盤を崩すからだ。「あいつは生きていていいが、こいつはダメだ」という身勝手な線引きは、この社会で暮らすすべての人の安心を奪う。ある日突然、誰かが自分の好き嫌いだけを理由に「おまえは生きなくてヨシ!」と指を指されることを想像してほしい。そんなことが許されていいはずがない。
だから、社会がこの危険な発言には大きなNOを突きつけなくてはいけないのだ。
ヘイトクライムや差別に敏感な国であれば、影響力のある有名人のヘイト扇動発言に対しては、首相や大統領レベルが自ら発言をし、差別を許さないという姿勢を見せ、国民にも強い牽制をするだろう。
しかし、残念ながらこの国では差別に関しての認識と意識は何周も遅れを取っているため、まず期待はできない。と、思っていたら今回は国が動き、正直、驚いた。
DaiGo氏の投稿が炎上した翌日の13日、厚生労働省がツイートを更新した。
「生活保護の申請は国民の権利です」
ホームページのコピペという省エネ投稿ながら、絶妙なタイミングが国民への強いメッセージとなり、DaiGo氏への牽制の役割も担って、2.9万 リツイート、4万いいねという低燃費ながらすこぶる大きな反響を残した。
生活困窮者支援団体による緊急声明
厚労省に一日遅れの14日、生活困窮者支援に取り組む4団体が共同で緊急声明文を出した(メンタリストDaiGo氏のYouTubeにおけるヘイト発言を受けた緊急声明)。
声明文の内容要約 (4団体の声明文を要約すると以下のとおり)
1 形だけの反省・謝罪にとどまらず、自分の発言内容の重大さをきわめて危険な反社会的行為であることを認識し、真摯に自己と向き合い、反省した上で撤回、謝罪すること。
2 菅首相からも、DaiGo氏の発言が許されないものであることを明言したうえで、生活保護の申請が国民の権利であることを率先して市民に呼び掛けること。
3 厚生労働省も、公式サイトで生活保護制度の案内を大きく取り上げる等、制度利用を促す発信に力を入れること。福祉事務所が追い返しなどしないように、周知徹底をはかること。
4 マスメディアは、DaiGo氏の起用を差し控え、その発言の問題点を報道し、このような発言を許さない姿勢を明確にすること。
5 私たち市民は、今回のDaiGo氏の発言を含め、今後ともこのような発言は許されないことを共に確認し、これを許さない姿勢を示し続けること。
これを前後して、DaiGo氏を広告に起用していた会社のひとつが彼を降ろした。日ごろからホームレス支援活動を応援している会社だったので当たり前すぎる対応である。メンタリストがこの展開を読めなかったのは残念だ。
DaiGo氏は13日に謝罪動画をYouTube投稿し、14日には「昨日の謝罪コメントを撤回します」という釣りタイトルのような動画を相次いでアップしたが、そこで分かったのは、「この人、なんにもわかってない」ということだった。
私刑、集団リンチという意見
今回の一件で、乙武洋匡氏は自身のツイッターで以下のようにつぶやいている。
《件の“人権軽視”発言を擁護するつもりは毛頭ありませんが、だからと言って集団リンチによる“私刑”が、他者に社会的な死をもたらす社会が健全だとは思えません。失敗から学び、再出発できるチャンスを奪うことは、それこそが人を死に追いやりかねない構造をつくり出してしまうのではないでしょうか。》
乙武氏はその後、『DaiGoさんの炎上発言に思うこと』という記事をnoteにまとめているが、これがまた有料なので残念ながら読んでいない。
「集団リンチ」とか「私刑」の言葉の強さに思わず息をのむ。ネットの世界では、言葉がどんどん過激性を帯びていくという傾向を知っていてもなお。
そして、和や秩序を大事にし、対立を好まない国民性によるのか、次第にDaiGo氏擁護派がチラホラと出てくる今、私は考え込んでいる。
今から27年前、私がマレーシアで働いていたころ、職場でストーキングされたことがある。会話を交わしたこともないその職員は、目が合うと柱の陰などから避妊具をちらつかせた。上司の一人にそのことを話すと翌日から姿を見せなくなった。聞くと、「安心して。昨日でクビ」と言われ、私は慌ててしまった。「そこまでしなくてもよかったのに。つきまといさえやめてくれればよかったのに」と言うと、「アンタ、なにいってんの?」という顔をされた。
国際的に見れば、ハラスメントもヘイトスピーチも一発アウトな国は多い。それらが一発アウトの解雇理由となり得ることは、過去ニュースを検索してもわかる。
しかし、残念ながら、日本では明らかな暴力があっても、被害者がバッシングを受け、企業や社会が加害者に配慮するケースが未だにあとを絶たない。「ダメなものはダメ」という毅然とした態度が取れない中で、差別やハランスメントは助長されていく。「ダメなものはダメ」という姿勢は、スポンサーや企業など社会全体が取る必要があり、それによって世の中の人々にも浸透していくものなのだと思う。それは、「失敗から学び、再出発できるチャンスを奪うこと」とはイコールではない。彼が学んだあとに再出発はできるはずだし、そんな社会を作らなくてはいけない。
困窮者支援団体で学ぶことを手引きする是非
DaiGo氏の投稿動画が炎上し、DaiGo氏側に心を痛めた人がいる。茂木健一郎氏だ。
「友人のDaiGoという人が問題になっている。話をしてあげられないか」と北九州市で長きにわたりホームレス支援の活動をして来られたNPO法人『抱樸』理事長の奥田知志氏に打診したそうである。
謝罪動画の中でDaiGo氏が「抱樸に行く」と言ったとき、誰が手引きしたのだろう?と思った。そして、ザラッとしたものが心に残った。自分が「ホームレス=犯罪者」のように言い、そして社会から抹殺してもいいとすら匂わせた対象を支援するNPOを石鹸代わりに使って、自分の不始末を洗い流すつもりなのかと驚いた。それは不謹慎だと思ったし、どれだけ無神経なのかとも思った。
たとえば性暴力加害者の友達が「友達が問題になっている。そちらで学ばせてやってほしい」と性暴力被害者たちが保護されている女性支援団体に連絡してきたらとどうだろう。彼の言動は、それとどこが違うのだろうか。
とはいえ、『抱樸』理事長の奥田氏も心得ていて、守るべき人たちの安全を万全にした上で、学びたいのなら教えるという寛大な姿勢を取っており、また、「反省」という行為についても過不足のない見解を述べておられる。さすがである。私たちの気持ちも総括してくださった。
DaiGo氏の差別発言に関する見解と経緯、そして対応について
「反省する」とはどういうことか
緊急声明の厳しさを批判する声やバッシングなど、多くの反響がある中でずっと考えていた。反省というものは一朝一夕にできるものではなく、自分のこれまでの人生を振り返り、向き合い、その価値観を否定し、ひっくり返すような作業を伴うもので、それは身を切る痛い作業の積み重ねだ。
困窮者支援の活動を始めて12年になる私にも、消えては浮かぶ差別意識がある。今でも向き合う内省作業はずっと続いているし、きっと一生続くものと思っている。これまでの自分が長い時間をかけて培い、積み上げてきた価値観を否定していくという作業は、誰にでもできることではない。
とても身近な高齢者で、DaiGo氏と似た発言をする人がいる。その人と議論を続けて10年以上になるが、あるとき、悲しそうな顔をしてその高齢者は言った。
「自分はこれまでこんな自分が正しいと思って生きてきた。どうかこのままでいかせてくれ」
それは、価値観を変えるということはそれほどまでに難しいことなのだと知った瞬間であった。
守るべきもの、守るべき対象を見誤るな
DaiGo氏が全否定したホームレスや生活保護利用者に、その人らしく生きる権利が保障されているのと同様、DaiGo氏にも反省したり、学ぶ権利がもちろんある。やり直す権利も当然ある。それが社会であり、人権というものだ。
だが、いま、私たち社会が守るべきは、今回DaiGo氏に差別され、否定され、不安と恐怖にさらされている人たちではないだろうか。
DaiGo氏の権利を守ろうとする人々には部分的には共感する。しかし、日本の人権教育が一向に進まない最大の理由は、守るべき根幹の部分が常にブレてしまう点にあるようにも思えた。思いやりは大切だ。しかし、バランスを大事にするあまり、被害者が見えなくなってしまう。そんな中で、被害者たちは更に傷つき、孤立し、不安と恐怖に苛まれながら日々を過ごす。
今回、私は「いなくていい」とされた人たちと共にあり、その恐怖を自分のこととして体感した。今でも怖い。だけど、その恐怖に負けて黙ってはいけないのだ。
これまで想像を絶するバッシングにさらされてきたフェミの女性発信者、命の脅迫を受けながらヘイトスピーチに抗ってきた在日コリアンの方たち、障害者運動の方たちの顔が浮かぶ。どれだけの恐怖と闘いながら立ち続けてきたのかと。心からの敬意を表し、私もしっかりと立ち続けたい。
そして、DaiGo氏の動画に傷ついた人たちと共にあるということを、声を大にして叫びたい。要らない人なんて誰もいない。みんなで一緒に生きられる社会にしていきましょう。そこにはDaiGoさん、あなたもいるのです。
小林美穂子(こばやしみほこ)1968年生まれ、『一般社団法人つくろい東京ファンド』のボランティア・スタッフ。路上での生活から支援を受けてアパート暮らしになった人たちの居場所兼就労の場として設立された「カフェ潮の路」のコーディネイター(女将)。幼少期をアフリカ、インドネシアで過ごし、長じてニュージーランド、マレーシアで働き、通訳職、上海での学生生活を経てから生活困窮者支援の活動を始めた。『コロナ禍の東京を駆ける』(岩波書店/共著)を出版。