尾崎豊
「遡(さかのぼ)ること30年、歌手の尾崎豊さんが26歳の若さでこの世を去りました。死因は肺に水がたまってしまう肺(はい)水腫(すいしゅ)で、司法解剖では覚醒剤の服用が判明。夢や愛、生きる意味を表現した彼の歌は10代を中心に絶大な支持を集め、追悼式には4万人にも及ぶ参列者が押し寄せました」(スポーツ紙記者)
“伝説のアーティスト”として今なお愛され続けている尾崎。'83年12月、アルバム『十七歳の地図』、シングル『15の夜』でデビューした彼のバックバンドでリードギターを務めた江口正祥(まさよし)は、その出会いをこう振り返る。
「もともとバックバンドのメンバーは『APRIL BAND』という名前で活動していたんですけど、その解散ライブに尾崎と、彼の事務所の福田信社長が来ていたそうなんです。うちのキーボードをやっていた井上敦夫が福田社長と繋がりがあって、そんな流れから“やってみないか”とバックバンドに誘われました。本人と初めて会話をしたのは、デビューライブに向けたリハーサルのとき。ふつうの青年だったけど、若さからくる“やってやるぜ”という気迫はみなぎってましたね」
「感覚は鋭いものを持っていたけど、音楽の知識に関しては、当時はまだ素人だった。“江口さん、壁が壊れるようなギターを弾いてほしい”と、求める音を彼なりの表現で伝えてきました。ただ、あまりにも抽象的だったので、とりあえず音を歪ませた激しい感じでいろいろ弾いて聞かせると“ちょっと違う”と。そこで最後に、一番単純で基本的な8ビートを弾いてみたんです。そしたら“江口さん、それです!”って。“これは8ビートっていうんだよ”と教えたのを覚えています」
「音楽の知識を飲み込むのは、とにかく早かった。表には出さないけれど、陰では一生懸命、音楽の理論を勉強していたんじゃないかな。リハを進めたり次のツアーになったりすると、音楽的なことが飛躍的に分かるようになってるんですよ。例えるなら、英語が分からなかった人が陰で勉強を重ねて、次会ったときには少し片言で喋れるようになり、その次には完璧に話せるようになっているような感じ」
「まだ高校を卒業するくらいの年齢だったから“音楽の世界に飛び込んだのはいいけれど……”という不安はあったと思います。彼のお兄さんが僕と同い年ということもあって、いちばん最初のリハのときに“江口さん、お兄ちゃんって呼んでいいかい?”と言われたのを覚えていますね。仕事という感じではない、家族のような心の拠りどころが欲しかったのかな」
「あのころのハイエースは椅子も直角だし、後ろの荷室はほとんど楽器だった。眠いやつは、楽器の上の数センチの隙間によじ登って寝てました(笑)。尾崎もスタッフも含め、運転はみんなで持ち回りで乗ってましたから、そういう意味では絆は深まりましたね」
目がイッちゃってたんです
「ツアーではイントレ(足場)によく登っていました。僕のギターソロの間に登って、わざと落ちそうなふりをする。その後、目で合図をしつつ、降りるタイミングを計りながら歌に戻る……という演出だったんです。ただ、あの日は目を見たときに“あ、これはヤバいな”と。目がイッちゃってたんです(笑)。いつもと違う目だと思ったときには、落ちてましたね」
「痛いなんてレベルじゃなかったはず。そのときに僕らは彼から、音楽にはどんな激痛やアクシデントをも超えるようなパワーがあることを教わりました。脚から落ちてくれて本当によかったです。下はコンクリートでしたから、頭から落ちていたら即死ですよ」
「当然、緊張はしていたと思います。でも“俺、こんなところでライブできるんだ”という喜びの気持ちのほうが大きかったんじゃないかな」
「売れてくると、周りは“もっと売れてほしい”とか期待をするけど、本人にとっては最大のプレッシャー。それだけ“売れる”というのは大変なことだし、伴う重圧もすさまじいんだなと」
「尾崎から“復活するから、お願いします”って電話をもらったんですが、すでに別のアーティストのツアーに同行することが決まっていて。残念ながら、お断りすることになってしまったんです。もちろん一緒にやりたかったけど、東京ドームで彼についたのは一流のミュージシャンの方ばかり。尾崎がそんな人たちとライブをするのはとても嬉しかったし“よし、僕も頑張ろう”と清々しい気持ちになったのを覚えています。そうすれば、どこかで再び一緒にやれるんじゃないかと思って」
ヘッドホン越しに“尾崎が死んだ”と聞いて…
「その日は何の偶然か、彼のデビューライブでバックバンドを務めたメンバーが久々に集まり、レコーディングをしていたんです。僕のギターソロを収録しているとき、ヘッドホン越しに“尾崎が死んだ”と聞いて……。言葉では言い表せない、複雑な気持ちになりました」
「仕事で各地をまわりますが、尾崎のことはどの世代の誰でも知ってる。そんなミュージシャンほとんどいませんよね。どえらいやつだったんだなと思います。尾崎豊という人間を心の中に留めて生きていきたいし、僕も彼の音楽をこの世界に少しでも伝えていくことが生きがいです。僕の人生は、彼に作ってもらったようなものなので」
「当時は新宿に私が経営する『スナックカンちゃん』があって、尾崎さんが通う車屋さんのオーナーが彼を連れて来たんです。ある日、本人の前で彼の曲を歌うお客さんがいたとき、尾崎さんがデュエットしたんです。お客さんが写真まで撮ろうとしたから私は制したんですが、尾崎さんは“いいんですよ”って気さくに対応してました。私が演歌を歌ったときは“一緒に歌いましょう”と入ってきたことも。三橋美智也の『哀愁列車』という曲で、彼は知らなかったんじゃないかな」
「スタッフのまかない用にカレーを作っていたんですが、それを尾崎さんに気に入っていただき、必ずシメで食べるようになったんです」
「亡くなる8日前も来てくださってたんですが、車屋さんから電話で訃報を聞いて。冗談もほどほどにしてほしいと思いましたが、残念ながら本当だったんだよね……。生前は、バンド仲間を何人も連れてきたりして、気さくで紳士的な、いい青年でした」
【OZAKI THE PARTY】
4月24日(日)、尾崎豊の没後30周年ファンイベントが『インド料理ムンバイ 四谷店』で開催される。見どころは、尾崎と深い友情で結ばれたキラー・カンの闘病後初のお目見えと、尾崎が愛したカレーの復活祭。尾崎の小学校、中学校からの同級生や先輩、後輩が集まり、『新宿ルイード』でのデビューライブのころのような盛り上がりを見せる。