新曲の歌詞に熱い思いを託し、スクリーンを背にして逆光で熱唱する西城秀樹
*この記事は『週刊女性』2012年12月4日号に、6ページにわたって掲載された「人間ドキュメント・再発した「脳梗塞」西城秀樹さん」をニュースサイト『週刊女性PRIME』に転載したものです。
舞台中央にリフトに乗った秀樹のシルエットが浮かび上がると、会場から歓声とともに拍手が沸き起こった。
HIDEKI SAIJO
CONCERT 2012
心響 ―KODOU―
2度目の脳梗塞で倒れてから1年も待たずに西城秀樹がステージに帰ってきた。
2本の脚でしっかり立ち、片腕をまっすぐ上に上げ、静かにオープニングナンバーの『蜃気楼』を歌い始める。
まるで自らの心情を歌に託すかのように─。
崩れゆく灰のよう
俺を呼ぶ叫び声
今確かに聞こえる
もう一度だけなら
立てる気がした
焦げつきそうなこの身体
闇に塵の世
一筋の光求めて
スクリーンに映し出される歌詞が胸に迫る。未発表の新曲とはいえ、この歌には、苦しいリハビリに耐えて復活にかける秀樹の思いが、痛いほど込められていた。
2曲目からはリフトを降りてステージに。トークなどではイスに座ったが、杖をつくこともなく、『抱きしめてジルバ』『ギャランドゥ』『情熱の嵐』『ブルースカイブルー』など、おなじみの大ヒット曲を次々に披露していく。
ステージ上を移動する足取りこそゆっくりしていたが、目をつぶって聴いていると脳梗塞を患ったとはとても思えない、張りのある声、そして歌唱力である。
「毎日毎日がリハビリです。来年あたりは、もっと元気になっていたいなぁと、そう思っています。今日のコンサート、見守っていただけたでしょうか!」
トークを交えて2時間、18曲を歌いきると、秀樹は満足そうな笑みを浮かべた。
◇ ◇ ◇
秀樹ファンにとって、とても待ち遠しく楽しみにしているのが、恒例の「秋のコンサート」である。
今年も、秋のコンサートのステージに立つ。その思いを胸に、秀樹は懸命にリハビリに励んできたに違いない。
「みんなに僕の心の叫び、生きている心の喜びを伝えたかった。歌が下手だろうが、足がよろけようが、僕にはもう1度歌いたい歌がある。伝えたい言葉があるから」
日を改めたインタビューで、秀樹は言った。
そういえば、会場で揺れるペンライトのイルミネーションを舞台から見つめ、
「いいねぇ。これが秋のコンサートだよ」
と客席に語りかけた秀樹の満足げな姿が、とても印象的だったのを思い出した。
「デビューして40年、シングルだけでも86曲出しました。1曲1曲、とてもかわいいんです。どの曲も大好きです。歌うたびに、僕自身が励まされる。先日のコンサートでも、本当に力をもらいました。さすがに終わった次の日は、疲れきって死んだようになったけどね(笑い)。
でも今は“じゃあ、次は年末のディナーショーだ”って。歌を歌うこと、目標を持つことで生きる勇気がわいてくるんです」
そして現在の思いを、こうも語ってくれた。
「まだ早くしゃべろうとすると聞きづらいかもしれないけど、歌詞をメロディーに乗せて歌う分には、まったく問題はないんです。
芸能界には歌のうまい人はたくさんいるけど、僕は病気をしたからこそ歌える歌があると思っている。これからは詞が伝わってくるような、味のある歌を歌いたい」
それにしても……と、苦い思いがこみ上げるのは、2度目の脳梗塞を患ってしまったことだ。
「正直、もっと厳しく自分を律していれば、という後悔はある。自分なりに気をつけていたつもりだけど、どこかイヤなことは忘れたいという甘さもあった。9・5まではできていたが、10までのツメが甘かった。
この病気の恐ろしさ、厄介さを知ってしまった2度目の発病の時は、最初の何十倍ものショック。1回目でアッパーカットを食らった気になってたけど、今思うとあれは軽いジャブで、本当のアッパーカットは2度目にくらったんだなぁと思うよ」
実は1度目よりも、今回の2度目のほうが、後遺症は重かったのだから……。
悪化する症状に「不安」が募り
2011年のクリスマスイブに開かれるディナーショーが5日後に迫ったその日、秀樹は体調の異変を感じて、リハーサルを早めに切り上げ、慶應病院に向かった。
ここは'03年に脳梗塞を治療してもらった病院だが、
「まさか……。ずっと食事にも気をつけてきたし、再発はありえない」
一瞬頭をよぎった「脳梗塞再発」の恐怖を、秀樹は必死に振り払った。MRIの画像に異常は認められなかったものの、ふらつく様子を見て、医師は念のために入院することをすすめた。
「ところがその夜、トイレに立とうとベッドを降りようとしたら、脚から崩れ落ち、翌朝にはもう起き上がることも難しかった」
脳梗塞の再発だった。
前日に引き続き、再度MRI検査を受けると、今度は明らかな異常が見られた。
「リハーサルの時は風邪だと思って念のために病院に行きましたから。まさか脳梗塞とは考えてもみませんでした」
デビュー以来、秀樹の一挙手一投足を見つめてきた中田葉子(ファンクラブ会長)も思わず、声を詰まらせた。
ディナーショーは中止となり、中田はチケットを予約したファン全員へのお詫びの電話に追われた。
《また言葉が出にくくなってしまうのか。またあの屈辱的なリハビリを繰り返すのか》
そしてなにより、同じ脳梗塞でまた倒れたことが悔しかった。秀樹は、心の中で己の人生を呪った。
初めて脳梗塞を起こしたのは、2003年6月3日。ディナーショー出演のために、韓国の済州島のホテルを訪れていたときだ。
サウナで汗を流し、部屋に戻ると強烈な眠気とだるさに襲われた。翌朝目が覚め鏡を見ると、左の頬が右側に比べて少し下がっていることに気づいた。
同行していたマネジャーもろれつが回っていない様子を見て、あわてて日本の医師に電話を入れた。
「脳梗塞の疑いがありますね。一刻も早く病院に行ってください」
いったい何が起こったのか秀樹にはわからなかった。そんなことより数時間後に始まるディナーショーのことが気がかりだった。
秀樹は、この日予定していた楽曲から急きょ熱唱型やリズムの激しい曲をはずして乗り切ると、翌日、早い便で帰国し慶應病院に駆けつけた。
診断は「ラクナ梗塞」。
脳内の細い血管が狭くなって血流が悪くなる脳血栓症のひとつである。
大きな血の塊が脳まで流れてきて突然、血栓を詰まらせる「塞栓性脳梗塞」に比べ梗塞が小さいので、急激に病状が悪化したり、命に関わることはないものの、脳の内部が少しずつ腫れてくる。入院して5日後、病状は悪化し、不安は募るばかりだった。
《しかし、なぜ俺なんだ》
不自由な身体をじっとベッドに横たえていると、その言葉が何度も頭に浮かんでは消えていく。
「バランスのよい食事を心がけ、子どもが生まれてからはタバコもやめていたのに、なぜなんだと思ったよ」
だが、原因ははっきりしていた。西城秀樹らしい情熱的なステージを見せるために続けてきた激しいトレーニングと、181センチ、68キロの体形を維持するためのダイエットが、秀樹の血管を少しずつむしばんでいた。
「当時、生まれたばかりの長女はまだ1歳。妻のお腹の中には妊娠7か月の赤ちゃんもいた。よりによって今このタイミングで、と目の前がふさがる思いだった」
17歳下の妻・美紀は、秀樹が入院して以来、献身的に支えてくれた。
「大きなお腹を抱えて毎日病院に通い、病院の食事では味気ないだろうと気遣い、栄養とおいしさのバランスを考えたメニューを用意して、食べさせてくれた」
喉と唇にマヒが残っていたうちは、ヨーグルトやゼリーをスプーンですくって食べさせ、固形食が食べられるようになると、脂肪や塩分の少ない材料を使ってチャーハンを作り、病院まで届けた。愚痴ひとつこぼさない妻を見て、秀樹は胸がつまった。
「妻や子どもたちのためにも、1日も早く後遺症を克服して元気になりたい、そう思っても身体はなかなか言うことを聞いてくれないんだよ」
倒れてから3週間後、マスコミ相手の記者会見を控え、秀樹は弱音を吐いた。
「もう、歌手を辞めなくちゃならないかもしれない」
そうつぶやく秀樹に、
「今すぐ結論を出さなくても、いいんじゃないですか」
妻のその言葉に、秀樹は救われた。
「美紀があせっていないことを知って、これなら頑張る時間がもらえる。ちゃんとゆっくり治して、もう1度、復活しよう」
そう心に誓った。そして、自分の胸で安心しきって眠る1歳の娘・莉子の顔を見て、
「マイナス思考はだめだ。顔を上げて、いや顔が動かなかったら目線だけでも上を向いていこう」
「カッコいい自分」を変えた女性
1972年、“ワイルドな17歳”というキャッチフレーズでデビューした西城秀樹は'73年に5枚目のシングルとなる『情熱の嵐』がヒット。
激しいアクションに加えて、持ち前のハスキーボイスで歌い上げる絶唱型のボーカルスタイルでスターダムにのし上がり、郷ひろみ、野口五郎とともに「新御三家」として歌謡界に確固たる地位を築いていった。
このころの秀樹に、デビュー前の歌手・早見優は、少女時代を過ごしたハワイで会っている。
「『スター誕生!』のハワイ収録で秀樹さんが来たんです。“サインください!”って言ったら、お弁当を食べている最中だったんで“ごめんね、あとで”って言われて、内心もうダメかなと思ったら、食べ終わって後ろを振り返って“いいよ!”って呼んでくれたんです」
デビューした後にそのことを伝えると、秀樹は真っ黒に日焼けした少女のことを覚えていてくれた。そのことが早見にはうれしかった。
『激しい恋』のジャケット写真の撮影以来、40年近い付き合いのカメラマン・武藤義はこう語る。
「ざっくばらんで、あれだけのスターなのに偉ぶらない。撮影の時も自分からアイデアを出したり何をやっても一生懸命なところが魅力です。ただ雨男というか、海外ロケで現地に入ろうとすると天気が荒れる。ところが、いざ撮影になると晴れるんだから、まさに嵐を呼ぶ男だよ(笑い)」
ヒット曲が続き、テレビの歌番組やドラマに出演するようになると、芸能界にも友人、知人がたくさんできた。
「当時の思いはただひとつ。カッコいい自分でいたいと思った。わかりやすく言えば、ブランドものの服を身につけ高級外車に乗り、夜は仲間たちと繰り出して、みんなにうまい酒と料理を振る舞う。これがカッコいい生き方だと、単純に思っていた」
少年のころの夢を叶え、スターとなった秀樹に、怖いものなど何もなかった。
その秀樹を変えたのが、生涯の伴侶となる、17歳下の美紀との出会いだった。
当時、秀樹は45歳の男ざかり。何度か恋も経験したが、「自分は一生結婚しないままかもしれない」と思い始めていたころだった。
仕事で大阪に行き、知人の男性と食事をした際、同席した男性の娘が彼女だった。
「会ったとたんにピンときたとか、ひと目で恋に落ちたとかは全然なかった(笑い)。でも彼女の前では、不思議と西城秀樹ではなく、(本名の)木本龍雄に戻れるような気がした」
美紀は土木会社の公共事業を請け負う部門に所属し下水道の設計を担当していた。
「現場ではいつもヘルメットを着用していて、まったく色気のない仕事なんです」
そんな美紀のさりげない魅力に秀樹は心ひかれた。
初めてのデートでの出来事が、最近出版したばかりの自著『ありのままに』にこう書かれている。
秀樹は待ち合わせをして食事をした後、「帰りは彼女を家まで送っていこう」とベンツに乗っていった。初デートの後、ベンツで送ってもらえば女性はきっと喜ぶだろう、と考えていたのだ。ところが、その申し出を断られた。
理由を聞くと、
「私、今日は自転車でここまで来たので」
《なんと美紀は、僕との初デートにママチャリでやってきたのだ。僕は軽い肩すかしをくらって、「またこの人に会いたいな」と思うようになった》
なんとも微笑ましいエピソードである。
「美紀の実家はけっこう裕福で、世間からすればお嬢様として育ったはず。それなのに彼女は実家から独立して、ひとりのOLとして周囲のバランスを考えながら暮らしてきた。自分だけが目立つようなものは身につけないように配慮している。そんな彼女の生き方が僕に刺激を与えた」
美紀と付き合うようになって、秀樹はごく普通の美紀の価値観に感化されていった。
2001年6月30日に挙式。しかし、2人を待っていたのは、2度にわたる病気との闘いだった。
「神様」が与えてくれた時間
前述したように、2度目の脳梗塞は、初期症状こそ最初の時より軽かったが、後遺症はずっと重かった。
考えたことを伝えようとしても、唇や舌がしびれて自由に動かせない。ろれつが回らなくなる「構音障害」と呼ばれる症状である。
そのうえ、1度目では経験しなかった右側の手足を自由に動かすことができない「運動障害」にも悩まされた。
慶應病院を退院して、河北リハビリテーション病院に入院すると、本格的なリハビリが始まった。
「一番つらかったのは、ほかの入院患者さんたちと一緒にリハビリのメニューをこなさなければならなかったこと。覚悟はしてたけどリハビリルームに行くと、好奇心いっぱいの目で見られる。その視線が僕の身体に突き刺さるようでたまらなかった」
しかもリハビリの内容が気に入らなかった。
「マヒしている右手の機能を回復させるため、ボールを持ち上げる、おはじきをする、お金をつかむといった子どもじみたことばかり。しかも、言われたことがまったくできないんだ。自分は幼稚園児以下なのか、と思って落ち込んだよ」
消灯時間が過ぎ、ひとりで暗闇に横たわっているとマイナスのことしか考えられない。夜の闇が、果てしない底なし沼へと引きずっていく。
「これが脳梗塞を起こした人の大半が経験するうつ症状。そこから抜け出すには、手や指先に神経を集中させ、課題を何度も繰り返しできるようになるしかなかった」
秀樹は暗闇に引き込まれてゆく恐怖と闘いながら、懸命にリハビリに励んだ。
2012年の1月下旬、秀樹は病院を退院して自宅に戻り、家族そろっての生活が再び始まった。すると、自分の心に心境の変化が訪れていることに気がついた。
「病気のせいで仕事を減らしてリハビリに励んでいると、今まではそんな自分がもどかしかった。でも成長期の子どもたちと過ごす貴重な時間を神様から与えられた、と考えるようになったら、家庭での生活が、がぜん楽しくなってきた」
秀樹には3人の子どもがいる。結婚1年後に生まれた長女・莉子。翌年の長男・慎之介、さらにその次の年に授かった次男・悠天だ。
子どもたちと密にふれ合ううちに、秀樹は子どもたちが秀樹の成長を促し見守っていることにも気がついた。
「父親が病気を抱えていることで、子どもたちがよりやさしい人間に育ってくれるような気さえ、今はしています」
仕事に復帰したのは、2012年1月28日、静岡県で行われたチャリティーコンサート。発症から、わずか1か月後のことだった。
「この時はまだ普通に歩くことすら難しかったけど、断れない仕事だった。ずっと立ち続けることもつらい状態だったので、舞台でイスに座らせてもらった。歌もすべてバラードにして、無事に最後まで歌いきることができて正直ホッとした」
この記念すべき復帰コンサートでも思わぬサプライズが起きた。
「ラストソングで西城がテーブルにつかまって立ち上がり、ふり絞るようにして歌ったんです。この1か月間リハビリする姿を見てきましたから、思わず涙があふれて、楽屋で声をあげて泣きました」
と、前出の中田葉子(ファンクラブ会長)は振り返る。
応援しているのは、ファンだけではなかった。手紙やメール、さらに道ですれ違った時に「頑張れ!」と声をかける人もいる。
「特に同じ脳梗塞を患う人を家族に持つ方たちからの声援が予想以上に多かった。米農家を営むご主人が自分と同じ病気を患ったことで、僕を仲間のように思ってくれて、お米を送ってくださった。こうした“同志”ともいえる仲間たちの思いが大きな支えになりましたね」
そうした熱い声援に応えるために、秀樹は2012年8月26日午後7時、『24時間テレビ 愛は地球を救う』の生中継が行われている日本武道館のステージに立った。
スクリーンには、闘病生活の様子が流れ、秀樹は舞台の袖で出番を待っていた。
「ビデオから流れてくる音声はまったく耳に入らなかった。聞こえてくるのは心臓の音だけ。脚は緊張して、こわばっていたな。今まで何千回と袖で出番を待ったことがあるけど、これじゃあ、まるで新人歌手のようだと思ったよ」
再現ビデオが終わり『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』のイントロが流れ出し、歌い始めると声はスムーズに出るものの、脚の硬直はますますひどくなる。
秀樹は無我夢中でマイクスタンドをつかんだ。
「マイクを持って熱唱してましたねって言われたけど、倒れないようにとっさにマイクスタンドにしがみついたんだ(笑い)。
病気で倒れた後も、この曲を歌うことで僕自身もずいぶん励まされた。前へ進む姿勢を見せていれば、多少歌の完成度が下がっても、切れのある動きができなくてもいい。ありのままの姿で堂々と人前に出ようと思った」
来年はもっと「元気」な姿を
2012年10月29日の東京・中野サンプラザ。
アンコールではもちろん『YOUNG MAN』を熱唱し、さらに2度目のアンコールの声がかかった。
復活を待ちわびたファンのために、秀樹がラストソングに選んだ曲が『青春に賭けよう』だった。
ステージに映し出されたスクリーンには、熱唱する若き日の秀樹と熱狂するファンの姿が映し出されていた。
《ありがとう!》
「これまでの人生で数え切れないほど口にしている言葉だけど、本当に心を込めて言えるようになったのは、やはり病気と向き合うようになってからかもしれない」
不死鳥となって甦った西城秀樹は、舞台を終えてそう私たちに語りかけた。
コンサートを終えた秀樹の楽屋には、秀樹の復活を祝福する多くの仲間たちが駆けつけていた。
早見優に話を聞くと、
「秀樹さんの歌唱力は、本当に、本当にすごいって感動するばかり。森口博子ちゃんと2人で“ヒデキ~!”と叫びながら、ペンライトをしっかり振ってきました。たった8か月でこんなに元気になっちゃうなんて、本当に驚きました」
今年の2月、熊本のホテルのエレベーターの出口で偶然再会した秀樹は、杖をつき、
「今回はカムバックできるか自信がないな……」
と、不安を口にしていたからである。
前出のカメラマン・武藤義は、秀樹の変貌ぶりに驚きを隠せなかった。
「病気で苦労したせいか、歌に深みが出てきて素晴らしかった。円熟してきた彼の歌がこれからとても楽しみだね」
その秀樹に、
「ありのままの自分を見せることができましたか?」
という質問をぶつけてみた。
すると秀樹は、
「丸裸になった自分を見せることができた。自分をさらけ出すのは恥ずかしいよ。でもさらけ出したから、みんなも涙してくれたんじゃないかな。来年はもっとよくなったぼくの姿をみんなに見せたいな」
そう言ってペットボトルの水を飲むと、
「中国や香港といったアジアのファンも心配してくれている。元気になった姿をぜひ見せたいね」
スターとしてカッコよさを追い求めていた第一の人生。妻と出会い、最初の脳梗塞を患った第二の人生。そして今、秀樹は、第三の人生を精いっぱい生きている。
飾らず、隠さず、気取らず、そのままの自分でいることが、秀樹は一番カッコいい。
<取材・文/島 右近(しま・うこん)>◎放送作家、映像プロデューサー。文化、運動をはじめ幅広いジャンルで取材・文筆活動を続けてきた。ハワイのテレビ番組『ハワイに恋して』(BS12ほか)に携わったことをきっかけに、マリンスポーツにはまる。沖縄の文化・音楽を研究中。