都道55号、通称“日産通り”沿いの商店。日産村山工場があったころから営業する店はほんのわずか
「ゴーン氏のモラルがわからない。高額報酬に批判があり、それを嫌って約50億円のお金をもらっていないように見せかけたってことでしょう?
批判されたくなければもらわなければいいのに、嘘つきじゃないですか。お金を公明正大に使っていたら、工場を閉鎖したり、従業員を解雇しなくても会社を立て直せたんじゃないのか、と思えてきて悔しい……」
閉鎖された工場
「リストラされた人の多くは50〜60代だった。親の介護や子どもの学校などのため転居できずに会社を辞めた人もいます。再就職がうまくいかなかった人や、退職金で飲食店を始めた同僚もいましたが、彼らはゴーン氏逮捕のニュースをどんな思いで受け止めたのか」
と思いを馳せる。当時50代だった知人がリストラされた、と話す元下請け会社の男性は、
「その知人は下請け会社に再就職したけれど、日産時代のことは一切話さないんです」
追い込まれた従業員
「リバイバルプランが発表されたとき村山工場では約3000人が働いていた。私たち組合の調べでは710人が神奈川県横須賀市の追浜工場に異動、1010人が栃木県上三川町の栃木工場に異動するなど、車種や業務に合わせて転勤を余儀なくされました」
「結局、'01年4月までに元村山工場出身の退職者は620人以上にのぼった。60歳まで勤め上げた定年退職者は100人程度にすぎなかった。つまり、従業員のほとんどは退職に追い込まれたんです」
「ゴーン氏は、従業員の生活を向上させようという観点が全くない人間だった」(境氏)
ゴーンの俺様ぶり
「工場閉鎖で大勢の人が泣きました。従業員とその家族だけでなく、部品を作っていた下請け工場、地域の飲食店や商店など日産に関わっていた人がみんな涙した」
「日産がダメになって街が死んでしまった。急に過疎が進み、今もそれを引きずっています。ゴーン氏は村山工場をためらいなく潰し、閉鎖後も気にかけることはありませんでした。事件は悔しいし、許せない! ちゃんと日本の裁判で裁いて刑務所に入れてほしい。じゃないと納得がいかない!」(前出の店主)
「就任当時、ゴーン氏が“再建するぞ”と張り切って仕事をしていた姿を見ていただけに非常に残念です。汗水流して働いて会社を守ろうとした思いは、根底では私たちとは一緒ではなかったんだな、と思いました。会社から“働け、働け”で、これまで働いてきた私たちは怒りますよ」
「就任してすぐうちの会社にゴーン氏が視察に来ると言い出し、そのとき赤絨毯を用意しろと要求されたんです」
「ゴーン氏は視察当日、本当に赤絨毯の上しか歩きませんでした。しかも、ちょろちょろっとだけ。何様のつもりなんだ、と思いましたね。日本で仕事をしているのに日本語を覚えないし、通訳がいるので会話に困ったことはありませんが、信頼関係は何度会っても築けませんでした」(前出・関連会社役員)
「私は日産の車が好きだし、日産の街っていうことが誇りでした。でも、もう元には戻せない」