小林照子さん 撮影/齋藤周造
「もちろんあります。歌手になりたい、モデルになりたい、政治家になりたい。そう言って私のもとに来た人たちが、夢を引き寄せていったんですから」
親が5人いた幼少時代
「物心つくかどうかというころに、親が何人も代わった。だから、それぞれの親の肌の感覚が違うのも覚えている。私をおぶった実母が、家に帰らない父を原っぱで待っている。その寂しさや悲しみが背中越しに伝わってきたこと。
離婚する前、私たちきょうだいを抱きしめて『何があっても、あなたたちのお母さんは私よ』と言ったこと。継母も養母も『私が本当のお母さん。前の人は乳母だったのよ』って同じことを言ったとき、『本当は違うのにな』と思ったこと。親が代わらない人は、感覚も変わらないから忘れてしまうのかもしれませんけどね」
「B29がギンヤンマのように空に飛んできて、爆弾を落としていくのをずっと見ていました。平和を知らない灰色の時代に育って、まだ子どもだったので、恐怖より好奇心のほうが強かったですね」
「東京大空襲(3月10日)の直前だったから、さらに悲惨な目にはあわなくてすみました。でも、当時の近所の同級生の消息は、まったくわからないですね」
戦争体験とメイクとの出会い
「山に行って食べ物をとってきたり、農家の手伝いに行って、お裾分けをもらったり。それは苦にならなかったですね。当時の小中学校では、農業の授業があって、農家の子は嫌がったんですが、私は植物の苗が成長して収穫できる様子がとてもクリエイティブに思えて、楽しかった。先生からも可愛がられて、農業で食べていこうかな、と思っていたくらいです」
「養父は、学もあり商才もあった人でしたが、以前は頭脳労働で成功していたプライドからか、地元の人たちになじめなかったんです。それにカリエスは結核性のものなので、若い私にうつらないようにという配慮もあったと思います」
「私が乳飲み子のころを知らず、養女になったときは7歳で、結構、働き者だった(笑)から。例えば運動会で、紅白饅頭をもらって帰宅して、私が『お腹がいっぱい』と言うと、両親が『本当? いらないの?』なんて目を輝かせてお饅頭を食べたりね。普通なら子どもに食べさせたい、って思うでしょ? そんなふうで、養父母との関係は、子どもを守るというより、頼ったり頼られたりの同志みたいだったかもしれません」
「時代の先を読め、と教えてくれました。養父自身がそういう人で、家具問屋から防空資材の会社に転じて成功した。アイデア豊富で、焼夷弾を通さない厚手のフェルトの防空頭巾を発明して、新聞に載ったこともあります。戦争に負けることも、早くから予見していましたね。
特に忘れられないのは、店が空襲を受けたときのこと。一緒に見に行ったら、中の防空資材が略奪されていたんです。略奪を防げなかったことを謝る大家さんに『1人でも命を助けることができたのなら本望です』って言ったんです。本当にカッコいいなと思いました」
「『夕鶴』の主人公のつうが、だんだんやせ細っていくのをどう表現したらいいかと思って。薬局で相談したら、青いアイシャドーがあるよって。それを塗ると、健康的な顔がすーっとやせたように見える。すごく面白いなと」
「小中学校のときは、東京出身でセリフがなまらずにうまく言える、というので当たり前のように主役に選ばれていたけれど感動はなかった。自分が照明を当てたり、プロンプターで陰からセリフを補助したりするほうが喜びがありました。練習のときにはセリフが覚えられなくて心配していた人が、本番で堂々と演じているのを見ると、うれしくて涙が出るほどでしたから」
運命の出来事、いざ東京へ
「演劇のメイクをする人になりたい」そう思い始めた小林さんだが、方法がわからない。近所に住む美容師さんから「東京の美容学校に行けばチャンスがあるかも」とアドバイスされたものの、学費を捻出するのは難しかった。ところが、運命的な出来事が起こる。18歳のころ、長年、自宅で闘病していた養母が亡くなって間もなくのことだ。
「病気が病気だからと、家は消毒され、親戚も1週間は来なかった。土地の風習で養父は家で見送り、私と叔父だけで養母をリヤカーで火葬場まで運び、荼毘に付しました。帰り道、叔父と別れてひとりで骨壺を持って歩いていると、お寺の奥さんに会ったんです。その奥さんも、以前は同じ病気だった。それもあって、奥さんは『かわいそうね』って泣いてくれたんです」
「以前、私が学校で家庭科の授業の準備をしていたとき、邪魔だったので腕時計をはずして近くに置いておいた。そこにお寺の子どもが遊びに来ていて、いたずら心で持って帰って、返す機会を失って川に捨ててしまったそうです。そのお詫びだと。でも、その腕時計は壊れてて捨てられていたものを拾ったものだったんです。だから私も『うっかりなくした』程度で忘れていたんですけどね」
「同じ病気で苦しんだ養母への思いや、自分の子どもがやったことの口止めという意味もあったかもしれません。かなりの大金でした」
「養父は、私に何もしてあげられなかったこと、世間に冷たくされて養母を送るという過酷な体験をさせてしまったことを、かわいそうに思っていたんでしょうね」
「先輩からは口で説明して売ればいい、と教わったけど、私はお客様に実演をしたんです。マッサージやローションパックをした後、メイクをしてあげる。使った商品は簡単なカルテにして渡す。それが喜ばれて、どのお店も行くたびにお客様が増えた。私もたくさんのお客様にメイクできるのが楽しくてしかたがなかったですね」
「理想の顔と違う部分を探して、判で押したような顔にするなんておかしい。むしろそこを強調したほうが、魅力的に見えることが経験からわかっていました。私がメイクをした女性の教育部長が、すごく印象が変わって、ほかの人から褒められたとか、受付の人にメイクを教えたらお見合いに成功したとか……そういうことが重なって、認められるようになったんです」
後輩の人生の道筋をーー
「テコ先生(小林さん)が、つなぎを着て、モデルにメイクをしている姿が、今でも目に浮かぶくらいカッコよかった。みなの憧れの人でしたね」(原田さん)
「入社前、私は進路に迷っていたんですが、メイクの道が見つかり、メイクで人が輝く喜びを知ることができた。忙しくて無我夢中でしたけど、充実していましたね。コーセーは結婚退職しましたが、その後、美容の商品開発の仕事について定年まで勤めましたから」(原田さん)
「悔しい思いもたくさんしました。でも、反対の理由を徹底的に聞くことで、問題点にも気づけたんですね。
「組織には、いろんな意見がある。それを乗り越えて総力を結集できたもの、私がこれをやった、俺はこれをやった、って多くの人が振り返ることができるものが、成功するんですね」
「同僚の盛田さんに、世田谷にいい保育園があると聞いて、買ったばかりの家を夫に黙って売って、近くに引っ越すという無茶をしたこともありました。あれもこれもと手をかけてあげられないけれど、子どもの命や健康に関わることは大事にしよう、と割り切っていた面はありますね」
働く母としての苦労
「子どもができれば仕事をやめるだろう、と思っていたら違った。何かあると『子どもがかわいそうじゃないか』『だからやめろって言ったんだよ』って言葉がおいかけてきました。
「子ども扱いせず、私の意思を尊重してくれたことはよかった。叱られたのは、人の悪口や告げ口。人のいいところを見なさいと。その教えは、私の人生を楽しくしてくれています」(ひろ美さん)
「むしろ母のあのエネルギーが、自分だけに向かっていたら大変でしたよ」と笑うひろ美さん。とはいえ、さまざまな葛藤はあったのだろう。前述の後輩、原田純子さんは話す。
「忙しくて寝ていないのか、朝、『私、昨日のお化粧のままなのよ』っておっしゃったり、『ひろ美が、仕事に行かないでって泣いて、ひっかいたのよ』って傷だらけの手を見せてくれたり。子どもがいて、あれだけ仕事をするのは並大抵のことじゃないのだなと感じていました」(原田さん)
「出世に興味がなくて、最初はお断りしたんです。でも、お世話になった創業者に、どうしてもと言われて。後に続く人のことも考えて、お引き受けしました」
地位を捨て独立、次世代の育成へ
「私は、手探りでメイクアップアーティストになりました。その知識や技術、考え方を、後に続く人たちに伝える場所をつくりたい」と。もうひとつは、美容でより多くの人を幸せにすること。
「美容は、美しくなるためだけのものじゃない。自分の美意識を持ち、個性を磨き、なりたい姿に近づくためのものです。それがあれば夢を叶えることもできる。その可能性をもっと追求したかったんです」
「例えば『企業でキャリアアップしたい』と言って私のもとに来る。その人はとても愛らしい顔だけれど、夢に近づくためには、より信頼される大人っぽい印象を与えられたほうがいい。それで『こういうメイクを足すといいですよ』と提案すると、愛らしい魅力を生かしながら、その人らしい気品がある顔になる。
私のメイクの理論は、ただ眉を描いてラインを引く、みたいなことだけじゃなくて、その人が何者で何になりたいか、と心にまず触れる。そして、元の印象を分析したうえで、夢に近づけるメイクを考える。結果、自分も周りも幸せになれるから“ハッピーメイク”と名づけたんですよ」
「小学校のころから、歯磨きを教えてもらうかのように、スキンケアの基本を教えられました。でも若いころは日焼けブームにのって、肌はぼろぼろに。母にあきれられていました」(ひろ美さん)
「みんなから『そういうことが知りたかったのよ』ってすごく感謝されたことがうれしくて。そうか、私にできることはこれだ、と目の前の霧が晴れたようでした」(ひろ美さん)
「人が喜んでくれるのがうれしいのは母譲りです。でも、自分らしい道も見つかった。それ以来、仕事への取り組み方が変わりましたね」(ひろ美さん)
「美容に特化した高校を作る、と言ったとき、大賛成してくれたのが彼女。カリキュラム作りから学生の募集、広報と、全部やるってくらい張り切ってくれた。それで抜擢しました」(小林さん)
夢は言葉に、未来を面白がって
「願ってもないチャンスだなと。だから、暇さえあれば小林さんに質問し、提案書も200くらい書きました。そしたら『あなた、やりなさいよ』って」(関野さん)
「お客様はひとりひとり違うし、その肌は心とつながっていて繊細。それを扱うのが美容です。だから学校では、技術以上に、礼儀や敬意、人の気持ちを想像する力など、“人間力”を育てることが大事だと考えています」(関野さん)
「柔らかで偉ぶらない人柄、年齢を重ねてますます自分を“進化・深化・新化”させていく姿勢。お会いしてますます、この人の背中を追って生きたい、と思いました」(片岡さん)
「われわれのように年齢を重ねた男性も、肌と心を整える美容は重要だと実感しています。小林さんから教わった“蒸しタオル美容法”は特に役立っていて、周囲の人にもすすめています」(片岡さん)
「技術の習得は若いほうが早いかもしれません。でも美容の根っこは、人をきれいにしたい、という思いやりの心。子育てや家事をがんばってきた人、会社でもまれてきた人は、それがすでに身についている。それは、美容の技術や知識に、キャリアとして上乗せされるんです」
「だから自分は何もできない、なんて思わず、何歳でもチャレンジする価値はあるんです」
「時代の進化に合わせて、便利なものはどんどん利用する。未来を面白がるのが私なんです」
「現場力があり、自分のことだけではない広い視野を持っている。そんな20代、30代の女性を募り、連携力をもって、将来、政治にもものを言えるような人材を育てようとしているんです」
「もし身体がきかなくなっても、そのときにできることをすればいい。いくつになっても夢は言葉にすれば叶うと思うし、私はいつでもその後押しをしたい。人の役に立つのが好きなんですね」
取材・文/秋山圭子(あきやまけいこ)女性向けライフスタイル誌の編集部を経て、フリーの編集・ライターとして独立。『週刊女性』などの女性誌、男性誌、ウェブサイトなどさまざまなメディアで、美容・食・人物インタビューを中心に執筆。