8年ぶりに公の場に出てきた若林は元気そうな印象だった
4月に仙台市の中学2年生がイジメを苦に自殺。市内で2年7か月の間に3人の中学生が自殺するという異常事態に、文科省が「学校は隠蔽との疑念を抱かせる対応だ」と批判した。
今年に入ってからも新聞やテレビは連日のように、イジメを報じている。福島原発から横浜市に自主避難した子どもに対するもの、代議士が秘書を罵倒するものなど……。
そして、芸能界からもイジメの被害者が重い口を開いた。
「実は、これまで私は『天までとどけ』の出演者、あるいはスタッフさんにイジメられてきたんです」
そう涙ながらに告白するのは、'09年に引退した元女優の若林志穂。公の場で話すのは、実に8年ぶりだ。
「若林さんといえば、'01年に世田谷区内で青竜刀を持った男と至近距離で遭遇。警察官が犯人ともみ合いになり、両者が死亡する凄惨な現場を見てしまったことでPTSDになり、芸能活動を1年ほど休むことになったんです」(スポーツ紙記者)
1度は芸能界に復帰したものの、'09年9月には『週刊女性』において引退宣言。その後、表舞台に姿を見せることはなかったが、今回はあえて自らの体験を語る決心をしたという。
「今年5月、スマホで目に飛び込んできたのは『天まで』のメンバーが再会するニュースでした。記事には《今夜、みんなが集合する》と書かれていて、私はここにいるのになんでなんだろうと。それで、5月19日に放送された『爆報!THEフライデー』(TBS系)を見てみたんです」
『天まで』は'91年から'99年まで毎年制作され、合計8シリーズが放送。父親役の綿引勝彦と母親・岡江久美子のもと、8男5女の子どもが織りなす大家族のホームドラマは人気を博し、最高視聴率は19パーセントと、昼ドラとしては異例のヒットを飛ばした。
その子どもたちのまとめ役が若林が演じた長女の待子。最初のシリーズではナレーションも担当するなど、ドラマには不可欠な存在だった。
「『爆報─』を見ていると、『天まで』に待子が存在していないかのような作りになっていました。そもそも、私には出演のオファーがありませんでした。でも、ネットを見てみると“長女の待子ちゃんは?”という声を目にして、ファンの人が私のことを覚えていてくれたのがすごくうれしくて私はここ何十年間もかなり苦しかったから……。
ファンの方たちに報告するときが来たと思いました」
長年、彼女は苦い思いを胸に秘めてきたが、番組で再会するきょうだいたちを目の当たりにしさまざまな“裏切り”を告白する決心をしたのだ。
「『天まで』パート3のとき、撮影現場で人の持ち物がなくなるということが多発しました。ある日、メイクさんのフェイスパウダーがなくなって怪しいと思われる子のカバンを開けようという話になりました。
私は長女だったからか、岡江さんに呼ばれ“この子のカバンを見てよ”と言われたんです。そしたら、そこにフェイスパウダーが入っていました。周りの人たちと、本人に言ったほうがいいのではないかと、スタッフさんに相談したんです。でも、プロデューサーさんたちは、“その子の将来があるから”と犯人探しを嫌がったんです」
結局、盗難騒ぎはそこでうやむやになってしまったという。だが5年後、パート8の打ち上げのときに、意外な言葉が彼女を襲う。
「きょうだい役の男の子たちや、綿引さんのマネージャーさんもいる中でスタッフの方から“おまえ、人の物を盗んでたんだってね。
スタッフみんな『こいつが泥棒か』と思って撮影してきたんだよ”と言われたんです。
隣にいたきょうだいたちはみんな事情を知っているのに“待子はそんなことしないよ”って、誰ひとり言ってくれなかったんですよ。
その瞬間、これまでひとつひとつ築いてきた『天まで』の8年間はなんだったんだと。裏切られた気持ちでいっぱいになりました。私は人の物を盗んだこともないのに、そんな終わり方ないでしょって。
ドラマの設定は家族なのに、なんでここまで温度差があるんだろうと思いました」
ショックを受けたまま、ドラマは終了。その2年後にはあの殺人事件が起き、PTSDになってしまう。
「そんなとき、五郎役の須藤公一さん(以下、五郎)から有楽町で食事会をしようと連絡がありました。そこに行くと、みんながいる前であるプロデューサーさんから、“コイツ、頭おかしいから”と言われたんです。そのときも、周りはフォローすることもなく、“もしかしたら私が盗んだ?”という錯覚に陥るくらいの精神状態でしたね」
『天まで』のメンバーに最後に会ったのは、9年前に亡くなった三男・公平役の金杉太朗さんのお葬式だった。なぜなら、彼女は2年後に行われた20周年のパーティーに参加できなかったからだ。
「'10年ごろに五郎から“食事会があるから”と連絡が入ったんです。ただの食事会だと思ったので、病気を治すことを優先して、行かない旨を伝えたんですよ。
それで当日みんな集まっているところに電話をしたんです。綿引さんに代わってもらったら“待子なにやってるんだ? 脚本家の方も目が見えてないのに来ているんだ”と言うんです。ほかの人とも話していたんですが、途中でいきなりブツッと五郎に電話を切られたんです」
その後、ツイッターを見て、そのときの食事会が20周年のパーティーだったと気づく。
「私、そんな大きいパーティーだなんて知らなかったんです。もし知っていたら、関係者の方々にお礼しに行っていました。なんで私はこんな仕打ちを受けないといけないんだろうと。そこから、お酒の量が増えてしまったんですね。ちょっとしたことでも、ダイレクトで体調が悪くなってしまうことが多々ありました」
そして'11年の東日本大震災のとき、『天まで』の監督から五郎にきょうだいの安否を確認するよう連絡があり、彼から連絡が来たのだが……。
「そのメールには《みんな待子のことが嫌いだから》と書いてありました。そんなこと言う必要があったのでしょうか。五郎はいつも私に突っかかってくるんです。今から6年前ですか……。それが本当に『天まで』の関係者との最後のコンタクトとなりました」
心を整理するかのように静かに語る。
「今は、幸せに暮らしています。お酒もタバコもやめました。普段は自分で発信できないから、こういう場を借りて、ファンの方には応援してくれてありがとうと言いたい。そして、今、私はとにかく元気だということを伝えたいです。でも、芸能界に復帰することは考えていません」
とはいえ、きょうだいが集まった『爆報』にゲストとして参加するくらいはできたはず。なぜ、呼ばれなかったのだろうか?
「実は番組ではPTSDのことなどを語ってもらおうと、何度か彼女に出演のオファーを出していたんです。でも、ことごとく断られてしまい、今回もダメだと思ってオファーをしなかったのかもしれませんね」(TBS関係者)
では、『天まで』で共演した人たちは、彼女のことをどう思っていたのだろうか。
彼女から名前も挙がった、五郎役の須藤公一に事実を確認すると、所属事務所を通じて以下のような返答があった。
《何度も何度も、そんな事ないよ、そんな事誰も思ってないよ、そんな事誰も言ってないよと言っても待姉の気持ちを変えてあげること、待姉の誤解を解く事はできませんでした。
6年ぐらい前に、待姉に携帯番号を解約?変更?され、それからは全く連絡がつかない状態でした。ずっと気にしていました。「今幸せです」との事なのでホッとしてます。嬉しく思います。いつかまた家族皆で会えたら、食事ができたらと思っています》
また、実の母親のように慕っていた、岡江久美子にも自宅前で直撃取材した。
─若林志穂さんが、『天まで』で、イジメられたと告白しているのですが?
「そんなこと、絶対ないですよ。私も綿引さんも子どものように可愛がっていたし。セリフは多かったし大変だったかもしれないけど。待子はなんでそう思っているんだろう?」
そこには、困惑の色がうかがえる。
─『天まで』を特集した『爆報』からオファーがなく、傷ついているようですが?
「ガラスみたいに、すごく繊細な子だった。でも、お酒を飲めば楽しかったし、とってもいい芝居していたの。なので、精神的に心配だわ」
─特に、五郎役の須藤さんから、いろいろ嫌がらせを受けていたみたいですが?
「五郎が今でも本当に私たちの要になって声をかけてくれるし、いい子なんです。ケンカはあったかもしれないけど、仲はよかったですよ」
と、若林を心配する。
「今まで誤解を解くような連絡をもらったことはありません。でも、いまでは普通のことが幸せだと思える。心が豊かになりました。家族愛、兄弟愛を学んだのは『天まで』ですから、感謝はしています」
最後に、そう語ってくれた若林。『天まで』の思い出がつらいもので終わってしまったら、ファンとしても悲しい。