主演ドラマ『絆』(2002年)の収録取材で撮影して掲載した写真を渡さん本人が気に入り、ベスト盤CDのジャケットに使用した 撮影/本誌写真班
『大都会』『西部警察』など数々の人気ドラマや映画で、凛とした独特の存在感を示した俳優、渡哲也さんが8月10日、肺炎のため死去。
ここ数年は、持病の肺気腫やぜんそくと闘う日々が続いていた。
豪放な“昭和のスター”
渡さんを長年、取材していたスポーツ紙記者の話。
「’91年に、自ら直腸がんであることを発表してますよね。
’96年放送の大河ドラマ『秀吉』では、織田信長役を演じていました。『本能寺の変』のシーンは、後に語り草になるほどの熱い演技でした。その撮影に密着していたんですが、『本能寺』シーンの撮影が終わった後、スタッフみんなでメシを食おうとなって、NHKの食堂で会食になりました。そのとき、渡さんはカツ丼とちらし寿司を頼んで、食べていたんですよ。“渡さん、そんなに食べて大丈夫ですか?”と聞いたら“いいんだよ、もう食べたいものを食べるんだ!”って。元気よく頬張っていて、さすがスターは格が違うなと思いました」
’41年に生まれた渡さんは、兵庫県の淡路島で育った。青山学院大学に進学し、在学中の’64年、当時憧れていたスター、石原裕次郎さんに会えればと立ち寄った日活撮影所でスカウトされた。
’65年に映画『あばれ騎士道』の主演でデビュー、俳優としての一歩を踏み出した。
「直腸がんの手術の結果、“人工肛門”をつけたことを公表しました。おそらくその後、最初の撮影だったと思いますが、京都に行ったときのことです。そのときも多くの取材陣の前で、おいしそうにタバコを燻(くゆ)らせていたので、みんなで“大丈夫なの?”って心配したのを覚えています。
とにかく豪放な方で、昭和のスターって、そういう人が多かったけど、渡さんもそうした場面が印象に残っています」(同・スポーツ紙記者)
石原裕次郎さんに心酔し、背中を追い続けた
渡さんはデビュー前、師と仰ぐ裕次郎さんと日活の食堂で初対面した際、思いがけず「頑張ってください」と励ましの言葉をもらい感激。その後は仕事、私生活と面倒見のいい“親分”裕次郎さんに心酔、その背中を追い続けた。
日活がロマンポルノ路線へ転換した’71年、裕次郎さんが設立していた『石原プロモーション』へ入社。同プロ制作のドラマ『大都会』シリーズや『西部警察』で“角刈りサングラス”の大門部長刑事を演じ、巨悪とのド派手な銃撃戦やカーチェイス、爆破シーンの連続でファンをくぎづけにした。
また歌手としても、’73年に『くちなしの花』が大ヒットを記録。’74年と’93年のNHK紅白歌合戦に出場している。
華やかなスター街道を突っ走ってきた渡さんだが、病気との付き合いには悩まされ続けた。
本人も印象に残っていることとして、’74年放送のNHK大河ドラマ『勝海舟』を病気で途中降板したこと、’81年に裕次郎さんが解離性大動脈瘤で130日間入院して生死をさまよったことだと語っているほど、病気との因縁は深かった。
’87年7月、裕次郎さんが他界したのを機に、渡さんは石原プロ社長に就任する。
その後、前述した’91年に患った直腸がんと闘いつつ、’11年まで同社を率いていく。
寡黙で硬派な渡さんの仕事ぶりを象徴するエピソードがある。
’89年、渡さんが社長となって初の石原プロ制作の作品『ゴリラ・警視庁捜査第8班』の撮影中、ヘリから降りて全力疾走するシーンで、ヘリから着地した際、左足に激痛が走ったが「ただの捻挫だろう」と撮影を続行。しかし翌日、病院で診察を受けると、全治1か月半の腓腹筋(ひふくきん)断裂』と診断された。
このケガが原因で、足をひきずって歩く後遺症が残った。ケガも男の勲章というわけだ。
きっちりとやり遂げた“最期の仕事”
その後も’97年、ポリープが2つ見つかり、内視鏡で切除。うちひとつは悪性の大腸がんだった。
’15年には急性心筋梗塞の緊急手術をするなど、病の種は尽きなかった。
そんな渡さんが今回、過酷な闘病生活を続けながら、きっちりとやり遂げた“最期の仕事”があった。
裕次郎さんと渡さんを起用した宝酒造『松竹梅』のテレビCMの撮影だ。このCMが今年で50周年を迎えた。お茶の間に広く親しまれてきたが、現在テレビ放送中の記念CMでシリーズ最終作となり、見納めとなる。
「今年も『松竹梅』の最新CMが7月末から放送されていますが、完成させるまでにはずいぶんと紆余曲折がありました。
渡さんは酸素吸入器が手放せず、かなりやせていましたので、どこかのスタジオで撮影するというのは、当初から難しかったようです。
渡さんの自宅に撮影スタッフが行って撮るという案もありましたが、撮影予定だった春には、すでにコロナの問題が起きていました。撮影スタッフが大人数、闘病中である渡さんの自宅に行くことはできないと判断されたのです。
そこで行ったのが、CG合成による制作です。しかも、松竹梅が50周年ということで、裕次郎さんと渡さんにCGで共演してもらうことになりました。できあがったCMを見た渡さん本人も、すごく驚いていましたが、満足されていたようです」(広告代理店関係者)
因縁の名CM放映半世紀を記念して、裕次郎さんと渡さんが、合成技術で日本酒を酌み交わす、印象深い作品となった。
石原プロ解散が渡さんの悲願
来年1月に石原プロは解散を決定。渡さんと石原プロとのCM契約が来年9月で満了となるため、今作で有終の美を飾ることを決めたという。
シリーズへの出演本数は2人合わせて247本になる。渡さんは「最後のコマーシャルを裕次郎さんとの共演で終わらせていただくのは、感慨深いものがあります」とコメントしていた。
実は、石原プロを解散することは、裕次郎さんの遺言のひとつでもあった。
「裕次郎さんの“命”を受けて、石原プロを自分の目が黒いうちにきれいに終わらせるというのは、渡さんの長年の悲願でもありました」(制作会社関係者)
そして、裕次郎さんのもうひとつの遺言は「映画を作ること」だった。
それは、現世での大仕事を片づけた渡さんの冥土の土産となった。今ごろ空の上で、ふたり酒を酌み交わしながら、新作映画の構想を練っているに違いない。
男気俳優・渡哲也さんの人生
’41年 12月28日生まれ。兵庫県の淡路島で育った
’64年 青山学院大学在学中にスカウトされて、卒業後、日活へ入社
’65年 宍戸錠とW主演の映画『あばれ騎士道』でデビュー。歌手デビューも
’66年 吉永小百合との初共演映画でブルーリボン賞新人賞を受賞
’71年 日活を退社し、石原裕次郎さんが設立していた石原プロへ入社
’73年 『くちなしの花』が150万枚のヒット。全日本有線放送大賞金賞を受賞
’79年 テレビ朝日系ドラマ『西部警察』シリーズに大門刑事役で出演
’87年 石原裕次郎さんが7月に他界したことから、10月に石原プロ社長に就任
’91年 直腸がんであることを発表、人工肛門に
’05年 紫綬褒章を受章
’11年 石原プロの社長職を辞任
’15年 急性心筋梗塞で緊急入院
’17年 相談取締役として石原プロの経営に復帰
’20年 8月10日、肺炎のため死去
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