約1800世帯が壊滅した福島県南相馬市。防波堤が決壊した小高町は集落がまるごとなくなっていた(2011年3月12日)
北上していく取材班 茨城、そして福島、宮城へ
港に降り立つと、鼻をつく汚泥のニオイ。これから行く先々で、同じニオイを嗅ぎ続けることになるのだが…。そこには、数えきれないほどの船とトラックがひっくり返っていた。
「水位が上がってきたと思ってからは、あっという間だったよ。家は流されたし、船も流された……。必死に坂を上がって助かったけど、損害は数千万円だし、これからどうすればいいんだか……」(60代の漁師)
「車の中にいたんですが、ずっとハンドルを握りしめていましたよ。そこから降りたら、家が倒れてきて……。あのまま車にいたら危なかった。店のことは、まだ考えられない」
「避難してください!」
7メートルの津波に襲われた街には…
「まだ遺体が残っているけど、一面に広がる海水と木屑の干潟から、捜し出すのは簡単じゃない」
「住宅や防風林があって海は見えなかったのに、一瞬にして景色が変わっちまった。そこらじゅうに遺体がまだ沈んでいる。
地震が起きたとき、俺はトラックを運転中だったんだけど、対向車が道の上でポンポン跳ねてるのよ。しばらくしたら海のほうに白いシブキが見えて。それが津波で、次第に近づくから急いで陸地に逃げたんだよ」
「大津波警報が出てるぞー! 海には近づくなぁー!」
作業服姿で重機を操縦する男性が、3人組に声をかけるが、全くふり向こうとせずに、黙々と海に向かう。まさに茫然自失。自らの住まいがあったであろう場所に佇み、何かを探しているようだった。
「防波堤があったんだけど、意味がなかったみたい。防波堤ごと、(津波)が持ってっちゃったんだ」(作業服の男性)
畳、自転車、ホース、テレビ……。瓦礫の中に、わずかながら、地震前の生活の様子を垣間見ることができた。
<あけましておめでとうございます。今年もよろしく。GWに家族でディズニーシーへ行きました>
「避難所が空いてないから……。何か原発も危ないみたいだけど、まだそこまで考えられないですよ」
「いま欲しいのはお金じゃない」
「おにぎりができましたー! もしよかったら食べてください!」
「いま欲しいのはお金じゃない。1つのおにぎりとか、1杯の水なんです」(30代男性)
「電話つながらないですよね……。母と連絡を取りたいんですけど、携帯もつながらないし、電気もないし。どこに行けばいいんですかね。町じゅうの公衆電話を探し回っていたんですが、公衆電話っていざとなるとどこにあるかわからないし……」(20代女性)
そうして、ようやく杜の都・仙台に到着した。歴史ある風光明媚な土地で、普段なら日曜日。笑顔があふれているはずの街は、悲しみに暮れていた。
「このままだと略奪が始まっちゃう」
「買い物は5分以内でお願いしまーす!」
「3時間以上も待ちました。今はいいけど、このままだと略奪が始まっちゃいますよ」
臨月で大きなお腹を抱える妊婦も
「1200食が必要なのに、昨日は足りなかった。2000食あれば大丈夫です」
「近くで働いている息子が車で戻ってきて、“早く逃げよう。津波が来る!”って。だから、服はそのまんまで着替えはありません。家もなくなっちゃったけど、家族5人が全員無事なのが不幸中の幸い。近くの遺体安置所に探しに行く人もいます。明日、身元がわかった遺体の葬式をするって聞きました。テレビはないので、ラジオを聞いたり、新聞を回し読んだりしています」
「もうね、何もなくなっちゃった……。仕事場からそのまま避難したので、スーツ1着しかないし、免許証もなければ、私は右足が悪いのですが障害者手帳も持ってきてない。
家があった場所は今でも立ち入り禁止だし、ご近所さんたちはどこへ行ったかもわからない。祖父の代から3代続いた家だったんだけど、私の代でなくなっちゃいました……」
「家族バラバラになっていて、お母さんと連絡がつきません。別の避難所にはお父さんがいて、ずっと電話をしているみたいなんですが、どこの掲示板を見てもお母さんの情報がないんです。携帯もつながらないんです……」
「友達と避難所で会えて喜んだんですが、その友達のお父さんとおばあちゃんが流されて亡くなってしまったんです。なぐさめることしかできませんでした」
「ずっとお腹が張り続けていたんです。母と一緒に車で逃げたんですが、“いまはお願いだから出てこないで”って祈ってました」
目の前の光景に絶望
これまで見たどの被災地よりも、広範囲にわたって津波にのまれていた。地面はグチャグチャとぬかるみ、まともに歩くこともできない。遠くでは黒い煙が立ち上り、サイレンが鳴りやまない。泥にまみれていた1冊の卒業アルバム、ビリビリに破れた教科書なども。ほとんどの家が流されたこの地にあって、ポツリと残された家の前で、とある男性は、
「家の前にある塀の高さまで津波が押し寄せましたよ。家も家族も無事だったんだけど、従姉妹から連絡がないんだよね……。もっと海側にいたんだけど、流されちゃったと思う……。今は片付けをしながら待つしかないよね。救助隊が来てもさ、この泥は誰も片づけてくれないでしょ?」
「生きてたの!? みんな無事だよ! 会えてよかった。心配してたよ」
そして午後7時。突然、目の前が明るくなった。実に地震発生から52時間。小学校の電気が復旧した瞬間だった。一斉に歓声と拍手が沸き起こった。ガス、水道、電気、どれがなくなっても困るに決まってはいるが、
「水はペットボトルが配られたり、売ってたりするけど、電気だけはどうしようもないからね」(40代女性)
「おにぎり1個」か「リンゴ1/6欠け」の選択
「昨日なんて、おにぎり1個かリンゴ1/6欠けの選択だったからマシですよ。足りないなんて文句を言ってるのはお年寄りばかりです。子どもたちは、最初はお菓子を取り合っていたけど、親に叱られてから、今は率先してみんなで分け合ってる。ウチの父親も補聴器がないだの、お茶が飲みたいだのワガママばかり言ってますよ」
「東京のことなんかより、現地の情報が欲しいですよ。計画停電っていっても、何時間かすればつくんでしょ? こっちはいつになるかわからないんだから……」(30代男性)
「8時から通常業務が始まりますので、ここから出て行ってください」
「どこに行けばいいんだろうね。困っちゃうね」
「こうやって機能がマヒしちゃったら、ハイチ地震と同じになっちゃうよ!」
「うちらは家もないんだよ。駅のほうに住んでいる人は、家はあるだろ。こっちの立場から言わせてもらえば、家があるだけでも恵まれてるんだから、ガソリンはウチらを優先させてくれたっていいんじゃない。みんな困ってるのはわかってるけどさ!」
「仙台での生活がいつ戻るかわからない。バスが出ているか問い合わせしたら、新潟行きがあるというので予約しました。しばらく新潟のホテルに泊まる予定です」(20歳の男女)
サイレンが鳴る中、港へ向かった若者たち
地割れした道を通り、宮城野区・中野栄駅付近にたどり着くと、景色が一変する。埃にまみれた道路の両側には、津波で流された車が山になっていた。徒歩で通るのも困難なほど。これが本当に日本かと疑いたくなる光景だった。
「避難してください! 今すぐ避難をしてください!」
「早く逃げるぞ! 高台に逃げるぞ!」
「高台はどこにあるんですか?」
「ここらには高台はないよ」
「僕たちが水や食料を届けようと。これから港近くの倉庫まで行って食料を集めて、避難所を回ります。津波警報? 津波が来たら終わりですね。でも誰かがやらなきゃいけませんから。港は地獄絵図で、遺体を見た人もいたそう」
中野栄小学校に着くと、屋上に100人近く、非常用階段にも人があふれ返っていた。屋上へ上がると、
「こんなところで死にたくない……」
と祈るようにつぶやく女子中学生が。
「まだ1か月なんです、なんとかこの子だけでも助けたい。いまは家が無事で、そこで生活しているけど、食料が足りないから母乳が出るか心配です……」
「これから頑張ろうね!」
誰かれとなく、励まし合っていたのが印象的だった。
“仏さん”よりも生存者を…
「どうなっているか見に来ました。地震のときは別の場所にいましたが、奥さんが妊娠中で急いで家に帰って逃げました。昨日、警察が来て捜索活動をしていたのですが、動かない車の中に仏さんがいるけど、それはひとまず後回しにしてたみたいで、生存者を捜していましたね」
「私は単身赴任で来ているんですが、家に帰ったら、ドアが開かなくて。帰っても1人だから、この会社にいるんです。奥さんに無事だと伝えたかったんですが、なかなかつながらなくて。ようやく話せたときは向こうも“無事でよかったね”って……。ここは港だからすぐ津波が来た。隣のホールでは、ちょうどイベントをやっていて500人ぐらいがこの会社に避難したんです。最初は3階にいましたが、4階に逃げました」
「僕の友達はブロック塀にしがみついて、下半身まで水に浸かって耐えていたそうです」
「こっちも父が透析をしているんだ! 万が一のことがあったらどうするんだ。こっちだって命かかってるんだ!」
電気が通っている自動販売機も、軒並み売り切れに。弁当店が開いていたが、わずかみそ汁1杯のために3時間待ちになっていた。