『Lemon』がさまざまな記録を樹立したことへの感謝の意味を込め、昨年12月に2週間限定で渋谷駅ハチ公口に看板が掲出された
《短期集中連載》
米津玄師が国民的歌手と呼ばれるまでの軌跡をプレーバック! 第1回
『DAM年間ランキング』歌手別1位など、ランキングで33冠を達成。『紅白歌合戦』では、菅田将暉『まちがいさがし』、嵐『カイト』など楽曲提供した曲が3曲も披露されるなど、2019年は“米津玄師イヤー”となった。なぜ彼は短期間でこれだけの偉業を成し遂げることができたのか。関係者たちの証言で振り返る──。
この世に誕生した瞬間からビッグだった
◆ ◆ ◆
「特徴的な名前もあって、子ども時代はいじめられることも多かったみたいです。あと幼稚園のときだったかな? 遊んでいたときに人とぶつかってしまい、大出血するほど唇を大ケガして、病院に運ばれたことがありました」(実家の近所に住む住民)
子どもの頃から普通の人になりたかった
《僕はずっと普通の人になりたかったんですよ、子どもの頃から。普通ではないっていう感覚によって苦しい思いをしてきた自覚もあって》
「人とコミュニケーションがうまくとれないことなどに疑問を感じて病院を訪れたところ、《高機能自閉症》と診断されたそうです。コミュニケーション能力に乏しかったり、こだわりが強いといったことなどが特徴の病気なので、当時クラスメートになじめていなかったのも今思うと納得です」(中学の同級生)
「中学の文化祭ではオリジナルの曲を披露して、みんなを驚かせていました。田舎の学校なのでオリジナル楽曲を披露するような人は、米津くんたちが初めてだったと思います」(同・中学の同級生)
そんなときに出会ったのが、動画配信サービス『ニコニコ動画』だった。高校在学中にニコ動を知った彼は、当時のバンド仲間で現在もサポートメンバーとして彼を支える男性に作曲した曲を演奏してもらい、音源を投稿するように。
「“将来、絶対に売れてみせるから写真は残したくない”と学生時代から周囲に言っていたのは有名な話。メジャーデビュー前からセルフプロデュースに長けていて、取材を受けた際は自分で写真チェックをするほど、こだわりが強かった」(音楽ライター)
「リアルな歌声を合成するためのソフトウエアで、この技術を使用したキャラクターボーカル『初音ミク』などを使って、制作した楽曲を歌わせる動画がブームになりました」(同・音楽ライター)
自分の周りには支持者はひとりもいない
米津も『ハチ』名義でデビュー作『お姫様は電子音で眠る』を'09年5月にニコニコ動画上で発表。その後も動画が次々とミリオン再生を達成するなど、ボーカロイド界のトップクリエイターとして、その名が知られていくことに。
「SMAPなどへの楽曲提供で知られる音楽プロデューサーのヒャダインさんもニコニコ動画の出身です。動画投稿サイトの普及で、才能さえあれば年齢や住んでいる場所など関係なくチャンスがつかめる時代になった。