認知症の母と向き合って20年―。介護と執筆で多忙を極めていたら、突然、乳がんを患った。そんなトホホな事態に小言を漏らしつつ、役に立たない同情は一蹴。淡々と運命を受け流す作家が、小説では描けなかった闘病の“現実”とは?
作家 篠田節子さん 撮影/森田晃博
「ここが長年、母の遊び場だったのね。暑くても寒くても、ここに来れば何でもあるし。何よりきれいなお手洗いがあるので安心したみたいです。母は興奮してくると5分おきにトイレに行きたがったから、いちばん大事なのがトイレなのよ」
見知らぬ人に救われた
「家で作ってきた弁当がいちばんだよなー。親孝行したいときには親はなしって言うからなあ」
「親孝行、やってもやっても生きているとも言いますよ」
「このバカ娘が(笑)」
「それは何に使うものなの?」
「母は“他人の介入は絶対ダメ!”という感じだったから、デイサービスやショートステイなんかとんでもない。無理に連れて行っても、介護士さんに“ご飯食べられたかな?”とか声をかけられただけで、キッとなって、周りの人をみんな敵視しちゃうんです。そんな母が、作業員のおじさんとは楽しそうに話していたんですよ」
「パソコンまわりのアクセサリーとか、何に使うかわからなくてもキラキラした小物が母は好きなんですよ。なにせ100円ですから、こっちもバブル親父みたいに、“何でも好きな物、買ってやるぜ”と(笑)」
ブラジャーに灰色のシミ
「それが高じれば、“わかってるよ、一緒に死んでやるよ、それでいいんだろう?”という気持ちに行き着くことになります。道ならぬ恋ならいざ知らず、自分の母親と心中じゃ、たまったもんじゃありませんよ。
それを防ぐべく、必死で元気いっぱい振る舞うか、認知症介護の禁じ手の“違うだろ!”を繰り出して怒鳴るか。いずれにせよ、こっちのエネルギー総量にも限界があります」
「何より、年寄りを連れて歩くと、みんなやさしいんですよ。バスの冷房が強すぎて母が震えていると、乗り合わせたお客さんがカーディガンを貸してくれたこともあります。見知らぬ人々の母に対する温かい声かけや親切など、もう、感謝しかないですね」
「手に負えないので連れて帰ってください」
「もし、母が老健に入っていなかったら、そのまま放っておいただろうなと思いますよ。しこりもなかったし。年寄りを見ていると検査を受ける余裕などありません」
「年をとって、他人におしめを替えてもらって死ぬのは嫌だから」
過保護な母との幼少時代
「おばさんは気持ちのハッキリした人で、やることなすこと明瞭で、憧れの人でした。私が入った会社の寮に、せっちゃんを連れて面会に来てくれたんですが、本当にフランス人形みたいなかわいい女の子でした。いつもおばさんのそばでお上品に座ってニコニコしていて。おじちゃんはやさしくて温和な人でした。せっちゃんの角がなくてほんわかしているところは、おじちゃん譲りじゃないかなと思いますよ」
「いちばんの味方はお母さんなんだから」
「幼い子どものころだから、最初は母が恋しくて毎日泣いていました。でも、性格が形成されるいちばん大事な時期に、子だくさんな家で暮らしたことは、今考えるとすごくよかったなと思うんですよ」
「空気読めない系の宇宙人」
「思いっきり不器用で、ガールズトークにはついていけないし、そもそも何が面白いのかわからない。戦後の集団主義教育が盛んな時代だけど、常に逸脱している子どもでした。逸脱したままきちゃいましたね。ハハハハハ」
中学に入ると担任教師からも過保護だと注意された。本を読むことが好きで成績もよかった篠田さんは進学校の受験をすすめられたが、電車通学を心配する母の意向で家から歩いて行ける都立高校へ。
ボーイフレンドに母が嫉妬
「高校に入って色気づくと親より男ですよ。正常な成長なんだけど母親にとっては一大事。娘は親よりボーイフレンド優先だから、そら大変でしたね(笑)。机の中は常時チェック。私あてに来る手紙を開封するのは当たり前の世界」
「このまま母親の過保護、過干渉を受け入れていたら自分は人間としてダメになるという危機感がありました。ただ、高校生の経済力では家出はできませんし、非行のたぐいにも興味はなかった。“お勉強して親から離陸する日を虎視眈々(こしたんたん)と準備する”という感じだったので、世間的には従順に見えたでしょうね」
「せっちゃんが薬剤師になったら、何人殺すかわからないよね」
「私、超そこつなんですよ。病的なほど不注意でケアレスミスが多い。母は努力して直せと言うけど、友達は“あんたはそういうやつだから直らない”と。変な期待がないぶん、親より友達のほうが本質を見抜くものですよ」
「母は大学まで出したのに、お茶くみなんかしてと相当落胆していました。私はお茶くんで給料もらえて、何の文句があるんだろう? と(笑)」
「篠田さんは自分の考えで物事を進めていって、それが周りとちょっとぐらい違っていてもそんなに気にしない。ゆうゆうマイペースなところがありましたね。昼休みによく書庫でチェロの練習をしていました。一緒にギリシャへ旅行したときは、ホテルにお土産は忘れるわ、パスポートはなくすわ。私たちは心配したけど、本人は慌てず騒がずという感じで、黙々と手続きしていました」
市役所の職員から直木賞作家へ
「それまで、家にいても、学校にいても、職場にいても、自分の居場所がない。この世界に生きていないなっていう感覚がずーっとあったんですよ。それが、ようやく地面に着地できたかなと。書くことによってというより、物語を作っていると、逆に現実感が得られたんです。小説を書き始めたら、次から次へと書きたいテーマが出てくる、出てくる。才能なのか、病気なのか、そこは微妙ですけど(笑)」
「山村教室の2次会では、2人で猥談とか、ずーっとバカ話ばかりしていました(笑)。ちょっとここでは言えないくらい露骨な単語が飛び交っていました。せっちゃんは平気でスッピンのまま顔合わせにも出てくるし、着るものにもかまわないし。女性らしさとはほど遠い雰囲気だったけど、作家としては天才ですね。それに、ようあれだけ取材するもんだと思うくらい努力もする。天才と努力と運と三拍子そろっているタイプだと思います」
「母は“町育ちの気取り屋の男”と文句を言ってたけど、結婚したら、今度は“孫、孫、孫”と(笑)。孫が欲しいという気持ちは相当強くあったみたいですね。私も別に子どもをつくらなかったわけじゃなくて、1度できたけど流産しちゃって。その後は子宮内膜症で、そろそろまじめに不妊治療をと思っていた矢先に、新人賞をもらって、もうそれどころじゃない(笑)」
「ダンナに洗濯してもらって、ご飯を作ってもらって。私は口あけて待ってまーす。フフフ」
「楽天的というよりノー天気ですね(笑)。まあ、でも、そういうところがないとやっていられないし。嫌なことはすぐ忘れちゃうところは、夫婦ふたりとも似ているかもしれないですね」
「向こうは仕事が増えると、どうしても性格的にキーキー言ってくるし、私のほうも当時は忙しい部署にいたので、夫婦間の緊張感がアンバランスになっちゃって。どこかでバランスをとらないとマズい。まあ、そういう人生もありかなと」
感情の抑制がきかない認知症の母
「母は60歳で看護師の仕事を辞めちゃったので、これは面倒だなと思ったんですよ。母が好きそうなカルチャーセンターの講座に申し込んだりもしたけど、行かない。親しくしていた友達がいたんですが、高級有料老人ホームに入って、“遊びに来て”と盛んに誘ってくれたけど、老人ホームと聞いただけで、嫌だと」
「初期の認知症で必要なのは介護ではなくて、トラブルシューティングです。例えば家電やガス器具の点検、役所や銀行から来る書類の説明、人間関係の相談事も多かったですね。母は中期、後期に入ってもほとんど正常に見えたので、認知症だからと周りの人から大目に見てもらえなくて」
「眠る暇がないのよ」
「絶句しましたね。多いときは5分おき、10分おきですよ。おばさんに“お腹が痛いから早く来て”と言われて、夜中に病院に連れて行ったら、何でもない。家に着くと、またすぐに呼ばれると言うんです。
父の死でひどくなった母の混乱
「でも、一瞬でもベルトを使うと興奮が止まらなくなるんです。それで野放しにしたまま、こっそりトイレに行ったら、看護師さんに見つかって大目玉(笑)。認知症の高齢者が身体的な病気にかかった場合、精神科病棟以外で看る難しさを痛感しましたね」
「父の病院に行き来する合間に、母の大混乱がもれなくついてくるので、そちらのケアが厳しかったですね。お葬式をしたこともすぐ忘れて“お父ちゃんは死んじゃったよ”と伝えるたびに、また新たに泣いてくれたけど(笑)」
「うちは人数が多かったけど、認知症は1人もいなかったんです。認知症って、あんなに大変なんだというのが実感ですね。タフなやつですよ。我慢強いというより、ガス抜きの方法を知っているんでしょうね。アネゴ肌で非常に面倒見のいいやつなので、僕の相談に乗ってもらうことも結構ありました。それも彼女自身の気晴らしになっていたのかなという気がします」
《やまない雨はない》
左は大福、再建した右はグミ
「以前、乳がんの患者さんが出てくる小説を書いたことがあって、手術はうまくいったけど、ずっと再発に怯えて人生観まで変わって……と書いたんですけど、よせばよかったなーと(笑)」
「聖路加の先生たちの対応はサクサク進むし、余計なことで悩む暇もない。それに“実は乳がんでさぁ”と言うと、“私も何年か前に”という人が周りにいっぱいいるんですよ。みんな生きているし、彼女たちの話からこれから先どうなるのかわかるし。私にとっては、ありふれた病気という感じですね」
「篠田さんはいつも、私の胸を大きいと言うから、“全部取ってシリコンを入れるなら、もっと大きくしてもらえないの?”と言ったら、クソーと悔しがっていました(笑)。本当に大きすぎると重いし大変なんです。年をとるともういらないですよ。そんなこと言うと、乳がんの人に怒られちゃうかな(笑)」
篠田さんが再建を決めた理由はシンプルだ。スイミングをするとき水着の中に入れたパッドがはずれてプールにぷかぷか浮かぶ様子を想像し、「絶対に、嫌だ!」と思ったのだ。
「見てみる?」
「左は大福。再建した右はグミみたいでしょ。拘縮といって、皮膚が縮んでシリコンとくっついちゃうことがあるそうだけど、私は水泳で動かしているから大丈夫です。違和感はありますよ。ズキズキ、チクチク。季節の変わり目とかに出てきます。でも、まあよかったんじゃないかな。その気になればビキニも着られるし(笑)」
「私の父親が悪性腫瘍で亡くなっているので、そのイメージが頭にあったし、もし入院が長引いたら義母の対応をどうしようかと」
介護ストレスが乳がんの原因
「お母さまが強烈な人なので、繊細な娘さんだったら心を病んでしまっていたかもしれません。逆に、篠田さんは何があっても“だって、しょうがないじゃん”と言えるような方だから、うまく付き合ってこられたのかなと思いますよ」
「おばさんが理解不能なわがままを言っても、“そうなんだべや”と流して、フワッと受け止めるんです。私もお年寄りの相手をすることが多いので、せっちゃんのまねをしたいなと思うけど、イラッとしちゃうこともあって(笑)」
「それは、確実ですね」
「この前、母親を介護している女性作家の方から、髪の毛がものすごく抜けると聞いて、ああ、私も洗うたびに、お岩さんみたいに抜けていたという話で盛り上がった(笑)。年齢のせいだと思っていたけど、母が老健に入ったら全然抜けない(笑)。ストレスはこういう形で出てくるのですね」
「義務感です。浪花節じゃできないです。今の日本のシステムでは、何かあるとまず家族にお願いします、なんですよ。ほかに母を見る人がいないから、私がやるしかないでしょう」
「がんは余命宣告されてもラストが見えるじゃないですか。でも認知症はちょっと勘弁してほしい。娘がいないしね、私(笑)。たとえ娘がいても、子どもに同じ思いはさせたくない。ほとんどの人はそう感じていると思いますよ」
取材・文/萩原絹代(はぎわらきぬよ) 大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。'95年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある