宮田和弥 撮影/佐藤靖彦
原宿ホコ天での爆発的な人気からメジャーデビューへ。メンバーが出演したCMソング『歩いていこう』が大ヒットし、史上最短記録でアーティストの憧れのステージ“武道館”に立った。その後も『白いクリスマス』『START』と誰もが知るヒットソングを生み出してきたJUN SKY WALKER(S)。今年、デビュー30年という節目の年を迎える国民的バンド“ジュンスカ”が、いちどは解散を経験しながらも走り続ける理由とは――。
高校1年で「俺たちは絶対これでプロになる」
ポジティブな歌詞にストレートなビート。袖丈のだぶついたロングTシャツに細身のブラックジーンズ。足元は、ラバーソール。ホコ天出身のバンドとして時代のアイコンとなったジュン・スカイ・ウォーカーズのボーカル、宮田和弥(52)。今年、記念イヤーを迎える宮田がロックと出会ったのは中学生のとき。1学年先輩の森純太(ギター)や同級生の小林雅之(ドラム)に誘われたことで、ジュンスカが始まった。
「高校1年生のときだったかな。森くんが“俺たちは絶対これでプロになる。プロになる意志がないなら辞めてくれ”って言ってね。人気があったわけでも、うまかったわけでもなかったけど、がむしゃらだったし、ライブにかける情熱みたいなものは強かった。対バン(同じライブハウスで、複数のアーティストが競演すること)では負けない! って、いつも思ってました。でも、実際はお客さんが3~5人なんてことも多くって。だからホコ天に出たんです」
最初は5組ほどのバンドしかいなかったホコ天だが、ブームの到来で、全盛期は100組ほどが賑わしていた。なかでも、ずば抜けた人気を集めていたジュンスカにレコード会社から声がかかり、1988年にメジャーデビュー。ザ・ブルーハーツ、ユニコーン、ザ・ブームらとともにバンドブームを牽引(けんいん)した。
「ホコ天で、ブームの宮沢(和史)が、曲間にトランポリンを飛んでた記憶がありますね。みんな少しでも目立ちたかった。でも、バンド同士でケンカしたり、群れたりとかはなかったですね。ただユニコーンとは飲んだり、ゴーカート行ったり、旅行したりと仲がよかった。いただいた牡蠣(かき)を(広島出身の奥田)民生の家にもっていって殻を開けてもらったこともあった。あいつ、僕がひとつあける間に10個ぐらいできちゃうの」
当時を「洗濯機の中に投げ込まれたスーパーボールみたい」だったと振り返る。
「渋谷公会堂で初ライブをしていた当時、僕はまだ家賃が2万円のアパート暮らし。打ち上げで飲んでると銭湯が閉まってしまうから、途中で帰ってた。いっぽうで、ラジオで『○○って車が欲しいな』なんて言っちゃうと、あげますって人が出てきたり、街で人だかりができちゃって、警察に誘導してもらうことになったり。俺を中心に地球は回ってる! みたいな気持ちになったよね。今の僕がそのころの自分に会ったら正座させて説教だ! って思うんだけどね」
裏切れないから決断したバンドの解散
やがて、1993年に寺岡呼人が脱退。忙しさから曲作りもうまくいかず、歪(ひず)みが生まれていった。
「’90年代後半ってちょっと混沌(こんとん)としてくるでしょ。そういう時代に『歩いていこう』や『START』とかに代表される明るい前向きな歌が合わなくなっていった。僕自身も歌いたくない! となってしまって。僕のやりたいこととジュンスカの方向性が一致しないというか。いまなら、ソロとかユニットとか、グループ以外の自由な活動もできたかもしれない。でも当時はそれがバンドに対しての裏切り行為みたいで許されなかったし、僕もやっちゃいけないって思っていた。そうやって生まれた軋轢(あつれき)、衝突が重なって解散しちゃうんだけどね」
いまでは笑い話だが、当時の宮田と森は、携帯電話から互いの電話番号を消去したり、どこかですれ違っても目も合わせないなど、互いを本気で嫌っていたそうだ。
「兄弟ゲンカですよね。中学生のときから一緒にやってるメンバーですし、仲間で兄弟だから1度、溝ができると大きかった。でもこうやって再結成して、10年。いまは本当の家族みたいなもんかな」
再結成を実現させたのはドラムの小林だ。ちょうど20周年の年に、親交のあるライブハウスから届いた出演依頼がきっかけだった。
「小林がひとりひとりに連絡して、焼き肉屋で4人で肉を囲むんだけど、やっぱりぎこちなくて。最初は肉が焦げつきそうでも誰も返さない、お酒があいてもつがない。全部、小林が焼いて、酒もついで。でもね、凍ったタンが炎にあぶられて溶けていくように、僕らの気持ちも溶けていったというか。終わるころには、“じゃあ、やろう!”って」
このときは、どちらかと言えばお祭り感覚だったそうだが、2011年の東日本大震災の復興支援ツアーをきっかけに完全復活を果たした。
「ひとりでもがいた30代があって、歌うことが自分の生きがいなんだ、“宮田和弥は歌ってなんぼ”って思えたのは40代から。ジュンスカの僕は神輿(みこし)の上にいる旗ふり役だけど、それはメンバーが動かしてくれているんだってことを実感しています。それと、それこそ震災後からだと思うけど、普遍的な言葉は死なないとも思うようになった。解散したころは、ダサくて歌えないなって思っていたものも、いまはそういう歌こそが大事だし、カッコいいなって思える。1周したじゃないですけれど、ジュン・スカイ・ウォーカーズは、ブランドでありジャンルだから」
現在は、ジュンスカの活動はもちろん、各々がソロアーティストとしても活躍している。
「それぞれが音楽で生きてる。そこがいいなって思ってます」
そんな30周年の新たなチャレンジとなったのが、カバーアルバム『BADAS(S)』だ。楽曲は、日本のロック界に多大な影響を与えた、故・忌野清志郎さん(RCサクセション)、BOO/WYなどジャパニーズロックの先達から、ともにバンドブームを牽引したザ・ブルーハーツ、さらに松任谷由実まで、バラエティー豊かなラインナップとなっている。
「自分たちが少年時代に聴いてきた曲、僕らに影響を受けた世代のもの、それから音楽仲間たちの作品という3つから選びました」
どんな曲でも4人そろうとジュンスカ
一見すると、異色とも思えるのが松任谷由実だが、ごく自然なことなんだとか。
「当時から、森くんや(寺岡)呼人は、ユーミンの曲をよく聴いていてね。森くんが昔、“ジュンスカは、ユーミンのメロディーに、(アメリカのパンク・ロックバンド)ラモーンズのバンドサウンドを乗っけた”って言ってたんですよ。パンクなのにポップなのがジュンスカなんです。そういう意味で、ルーツとも言えるユーミンはこのアルバムの目玉のひとつだと思いますよ。とはいえ、ユーミン、スピッツ、ミスチルの楽曲は、僕にはない歌いまわしだったから難しくって、練習もたくさんしたんです。でも、いざレコーディングになって森純太のギター、寺岡呼人のベース、小林雅之のドラムでやるとすぐにピタッとハマる。不思議ですよね。どんな音楽も僕らがやればジュンスカになるってことを改めて感じたアルバムでした」
オリジナル曲ではなく、カバーアルバムにしたのは、彼らの音楽を振り返るとともに、未来へのバトンをつなぐという意味もある。
「先日、僕らが昔、歌番組でやった『雨上がりの夜空に』(RCサクセション)を見たというファンが、私にとってのオリジナルは宮田さんです! と言ってくれて。それはとても恐れ多いことなんだけど、音楽って、いいものは伝えられていくわけでしょ。清志郎さんはもう亡くなってしまったけど、歌いつなぐことで生き続ける。それって素敵なことじゃない? 僕たちの血となり肉となったものを、次の世代にバトンタッチする。そんな気持ちもあるんです。それが30周年のスタートに出せたことがとてもうれしいよね」
30周年イヤーは新曲づくりはもちろん、来年にかけて47都道府県を全て回るツアーも計画しているそう。
「1度大きな花火をあげることより、続けていくことのほうが難しい。だから、いまは、身の丈に合った場所で、来てくれた人に質の高い音楽を贈ることを大事にしたいですね。そのためにも、健康第一! 僕、2月で52歳になったんですけど、いまがいちばん、音楽と純粋に向き合っているのかもしれない。いま、すごく楽しいし、これからが楽しみなんですよ」
■取材後記
撮影現場に颯爽(さっそう)と現れると、すぐに取材がスタート。『週刊女性』本誌を手にとり「たまに見ますよ」と、フランクに語り始めた宮田。「やりたくないことは、しない」そのポリシーは若いころから変わらないそう。曲に乗せて届けてくれる、宮田のウソのない言霊だからこそ、時代を超えて、多くの人の心を動かし続けているのだろう。
<プロフィール>
宮田和弥◎1966年生まれ。力強く伸びやかな高音をもつ唯一無二のボーカリスト。ソロ活動としても力を注ぐアコースティックライブ『SLOW CAMP』のツアーが3月よりスタート。最近、DNAダイエットにハマっている。JUN SKY WALKER(S)初のカバーアルバム『BADAS(S)』発売中。詳細はデビュー30周年スペシャルサイト http://www.jswxxxproject.com/
(取材・文/杉本真理)