山口百恵さん(左)と藤圭子さん(右)
「百恵さんは歌、表情、ボディアクションのすべてに素晴らしい表現力がありました」
百恵さんのデビュー曲に フォークソング調が選ばれたワケ
「初めて百恵さんとお会いしたのは彼女のデビュー前の1973年でした。礼儀正しく真面目な人でしたね。それは1980年の引退時までずっと同じでした」
「いつも私たち大人の話を真剣に聞いてくれていたのを覚えています。だから、私たちもいい加減なことは言えませんでした」
このため、1973年5月デビュー曲にはフォークソング調の『としごろ』を用意した。
「あの歌は音域が狭くても歌えるのです。もっとも本人が積極的にレッスンを受けてくれて、すぐに音域を広げましたけどね」
「光と影の両面を持つ人であるところです」
高い歌唱力を持っていたし、哀愁ある低い声も魅力的だったものの、光と影があったから伝説の人になったと解説した。
「光と影を併せ持った歌手には立体感が生まれ、人を引き付ける力が増すんです。なにより、光も影もあると、明るい楽曲もドラマチックな楽曲も合います」
「新曲のレコーディングの際、『あんまり勉強できませんでした』などと言いながらスタジオ入りするのですが、いざ歌い始めると、どの楽曲も完璧に自分のものにしていました」
「あるとき、私のアシスタントに対し百恵さんが『きのうの夜、(宇崎さんがリーダーの)ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを聴いたんですよ』と話したのです。それを伝え聞いた私は『なるほど、ダウンタウンの突っ張ったイメージも百恵さんには合うな』と思い、さっそく宇崎さんに連絡を入れたのでした」
「百恵さんは、阿木さんと宇崎さんに楽曲をつくってもらいたかったから、アシスタントにダウンタウンの話をしたんです。百恵さんは出しゃばるようなことをしない人でしたから、間接的に自分の考えを伝えたんですよ」
「プロデューサーの私としては、売れてくれたら横須賀でも横浜でも良かったんですけどね(笑)」
「いいえ。残念とか惜しいとかの思いは全くありませんでした。さまざまな楽曲がつくれて、プロデューサー業を満喫させてもらいましたからね。百恵さんとの仕事は実に楽しかった。だから『幸せになってほしい』という気持ちしかありませんでした」
「天才だった」藤圭子さん
「すべてお任せします」
「でも天才でした。デモテープを一度聴かせるだけで、すぐに歌をおぼえてしまった。しかも絶対に音をはずさなかった。驚きましたね。類い稀なる才能の持ち主でした」
「天才には天才が分かるんですね。恐れ入りました」
高堀冬彦(放送コラムニスト、ジャーナリスト)
1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立