ついに2019年4月末で平成の時代が終わる。平成の世を彩り、輝きを放ったスターはそのとき何を思い、感じていたのか? 当時と今、そしてこれからについてインタビューで迫っていくこの連載。第3回目はイラストレーターで詩人の326(ミツル)さんです。
Vol.3 326(ミツル)
326(ミツル) 撮影/山田智絵
阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件から2年後――。あの前代未聞の混沌と恐怖を引きずり、1997年の日本は「失われた10年」の暗黒のさなかにあった。
英国ダイアナ妃が事故死し、ヴェネツィア国際映画祭では北野武監督の『HANA-BI』が金獅子賞(グランプリ)を受賞したこの年に、ひとりの若きアーティストが脚光を浴びた。イラストレーター326(ナカムラミツル)さん。
音楽グループ『19(ジューク)』のメンバーとして華々しく活躍後、直後に突然の脱退。それからはイラストや詩、作曲、絵本、ゲームのプロデュースなどの創作活動を幅広く展開している。彼の波乱の過去と現在、そしてこれからについて尋ねた。
生い立ち
「父ちゃんとじいちゃんが、絵を描くのが好きだったんです。子供の頃、父ちゃんが会社から不要な紙をもらってきて、それにパンチで穴を開け、ぶっとい紐を通して、分厚い落書き帳を作ってくれて。それに絵を描いていました」
1978年、佐賀市に生まれた326さん。彼の両親は共に小児麻痺を患っており、2人とも走ることができなかったという。育児に不安を抱いていた両親は、音楽や絵画など、身体を動かさずに済む趣味を、彼になるべく経験させたい気持ちだったようだ。
「おかげで自由に描かせてもらいました。うまいか、へたかで言えば、決してうまくはない。けれども好きか、嫌いかで言えば、絵はとっても好きだったんです」
ちょうどドラクエ世代。自分でオリジナルのモンスターを想像して作ったり、性格を妄想したり。『キン肉マン』も流行中で、「超人」を自分で描き連ねた。今でいう「キャラデザ」する感覚で、想像の世界はみるみる広がっていった。
会社員にはなりたくてもなれないだろうな……、きっと特殊な仕事を選ぶだろう。そんな予感を当時の326さんは抱いていた。大学受験はせずに、病弱だった親の介護と、学校で禁止されていたアルバイトに明け暮れる毎日を送った。
「将来、絵でご飯を食べられたら、とは漠然と思っていました。でも、具体的には想像できなかった。いろいろ考え過ぎてしまうと、立ち止まりそうだった。だから、漠然としたまま、引っ込みがつかなくなるところまでいきたいな、という感覚がありました」
高校に進学すると、父親が入院。326さんは、父親と過ごす時間の大切さを日に日に感じていったという。
「もしかしたら、長くないかもしれない。だから、授業と父親とを天秤にかけ、学校をサボって病院にお見舞いに行きました。制服のまま病院に来るので、サボりだというのはモロバレ。なのに、皆、許してくれたんです」
その父親は326さんが高1の5月に亡くなった。こんどは看取った祖父と祖母が気落ちしてしまい、寝込みがちになってしまった。
「じいちゃんが入院してからは、病院に通って、ただそこにいるだけ。何にもするでもなく、寝ているじいちゃんの横でボーッとしていた。でも、その時しかできないことを選ぶ感覚が強かったんです。今しかできないことを、とにかくやった方がいいなって」
お見舞いから帰ってくると、向かうのはアルバイト先のコンビニエンスストアだった。
「売り上げが低い店だったんです。弱い部活を強くするような感覚で、売り上げをアップさせるためのマーケティングを考えるのが楽しかったな」
このバイト経験は、その後の彼の販促活動にも直接的に影響しているという。高校卒業後、佐賀を離れ、福岡のデザイン専門学校へ。そこで彼の創作活動が本格的に始まった。『326』という名は本名・満(みつる)にちなむ。
うまさは捨てよう
「フリーマーケットで、自分の作ったグッズを並べて売りました。今でいう『デザフェス』。昔は今のように細分化されていなくて皆、フリマで売っていたんです。自分をアピールする場がまだ少なかったから」
サインペンを使って、はじめは絵だけを描いて並べた。そのうち、絵の余剰スペースを埋めるために、言葉を書き連ねるようになった。自分で考え、思いついた言葉。すると、毎回フリマを訪れる人に「326さんの言葉のファンです」と声をかけてもらうことが増えていった。
生活費は自分で稼がねばならない。福岡市内の居酒屋でバイトを始めてみたものの、「これって、自分の時間を切り取って渡しているだけなんだな」と気付いたという。
「時間は、モノをつくる時間に充てよう。でも、それだけだと死んじゃう。だから、お金をもらえるようにフリマで商品を売り続けたんです」
とはいえ、考えれば考えるほど「絵で食う」ということが分からなかった。出版社に行き、「挿し絵の仕事はありませんか」と直談判。幸運に企画が通ったとしても、せいぜい1カット3000円。1週間頑張っても2万円に届かない程度だ。これではとても食えない。
しかも、ほとんどの出版社からは「お前、この技術でよくここに来たね」と否定されたという。「へたな人間のくせに、よくここに来たな」と、ボロカスに言われ続ける毎日だった。
専門学校でも、クラス40人の生徒の中で、ダントツに下手だった。鼻をへし折られ、自分のソロ活動、自己プロデュースに本腰を入れるしかない。
たとえへたでも、自分が好きなモノを描き、それを「好きだ」と喜んでくれる人のために、絵を描こう。そこを目指そう。そう彼は気付いた。
「うまさは捨てよう。その時に決めたんです」
福岡市の大名(だいみょう)地区は、新しい流行の生まれるファッション基地のような街。東京の原宿のような雰囲気があり、アーティストの卵たちがフリーのスペースを借り、素人が個展をする文化が流行り始めていた。
急遽決まった1週間後の個展で326さんは「来た人を狂わせてやる」とまで思い詰め、壁という壁に自分の作品を飾り、フリースペースのお店は無事オープンし、そして大盛況となった。
大きな転機
そんな折、フリマ常連の女性のお客さんから突然、名刺を渡された。「NHK福岡放送局ディレクター」。その女性が初めてドキュメンタリーを撮るということになり、「私はあなたのことを撮りたい」と直談判されたのだった。
伝えたいのは、326さんのそのままの姿だという。ただ創作活動に打ち込む姿。寝起きの姿。番組のクライマックスは、同じ福岡で会社勤めをしている兄が、フリマに突然訪れ、326さんの創作活動を見て「誇りに思う」と称賛するシーン。326さんはこの時、思わず号泣した。
「兄貴が早くに就職して家を出たのは、もしかしたら父親が死んで、自分が稼がなきゃと思ったのかもしれません。そういう親心が兄貴の中にあったとしても、それを直接聞く機会が今まで一度もなかった。だから、兄貴に褒められた時、まるで死んだ父親に褒められたような気持ちになって涙が止まらなくなっちゃって、嗚咽して……」
専門学校の卒業には単位が足りず、「もうすぐ20歳になるから、僕は勝手に卒業します」と宣言して卒業作品を描き、福岡を出ようとしていた。
「福岡は優しい。あまりにもぬるま湯。こんな居心地のいい場所だと、俺は風邪をひく」
拠点を東京に移そうと逡巡(しゅんじゅん)する矢先、NHK福岡で15分間の番組がオンエアされた。これが福岡県民に大きな反響を呼び、30分番組に拡大再編し、今度は九州全域で放送。それもまた共感を呼び、BS、ハイビジョン、ついにはNHK総合で全国放送されるまでに至った。
「計10回弱、流してくれたんです。よく考えてみたら、NHKで自分だけのビデオを流し続けてもらうなんて、ありえない話ですよね」
ここからの話は急展開だ。福岡出身の大物アーティスト・井上陽水さんの目に留まった。「あの子に描かせたい」。なんと楽曲『TEENAGER』のCDジャケットの仕事が舞い込んだのだ。326さんは夢中で描き上げた。
そして、326さんが当時、憧れ続けていた雑誌『Zipper』(祥伝社)で連載が始まり、マガジンハウスでは画集の刊行の話が進んだ。どれもこれも、ちょっとしたタイミングのズレがあったらつながらなかった話だった。
そして東京へ
このころ326さんは、あることに悩んでいた。それは、音楽への嫉妬。数あるアートのなかでも、音楽だけは皆で声を合わせ「せぇの!」で始めることができる。そこに強い憧れを抱いた326さんは、マガジンハウスから出した『ナカムラミツル作品集』の最後のページに、詩を綴り、「メロディをつけてくれる人、歌ってくれる人を募集します」と締めくくった。
反響は大きかった。その中に1組、「今日の夜に下北沢でライブをやるけど聴きに来ますか」という連絡があった。
326さんが駆け付けてみると、小さなライブハウスでは、5人程度のお客さんの前で、男の子2人組が歌っていた。ライブの後に彼らと一緒にご飯を食べに行き、話を聞いてみた。すると、2人は326さんと同世代だったという。格闘技の話などをしているうちに、すっかり盛り上がってしまった。
「僕との組み合わせは良い! これはハマるかも」
一緒に面白いモノをつくり、良い歌をつくりたい。326さんは2人に宣言した。「俺は表には出ないけど、メンバーとして一緒に何かできたらいいなと思っています。力を貸してください」。音楽グループ『19(ジューク)』が誕生した瞬間だった。
デビュー後のスター街道も急ピッチだった。1999年春、TBSのキャンペーンソングにセカンドシングル『あの紙ヒコーキ くもり空わって』が採用。大ヒットとなり、日本武道館での公演を果たした。同年の『NHK紅白歌合戦』にも初出場。メロディアスでキャッチーな詞が若者を中心に広い共感を呼んだ。
ところが、326さん自身はサードシングル『すべてへ』を発表した直後の1999年10月に電撃脱退する。『19』自体も2002年2月、解散。実は、所属事務所の方針から、2人組で売り出したいために326さんのグループ離脱を宣告され、『19』解散の際には事後報告さえもなかったことなどがのちに明らかになった。
『19』脱退の真相
「簡単に言うと、その時、僕はだまされていたんです。東京に行く時にいろいろ面倒くさいことを手伝ってくれた人が、僕のことをだましていたんです」
『19』で多忙を極めていた頃のことだ。326さんの手元に入らなければいけない金が、まるで入ってこない。「売り出すためには、お金が必要なのだ」と所属事務所から諭されたが、ここまでやってきたのは全部自分のはずだ。当時、なんと月10万円も支給されていなかった。
「福岡時代の5分の1。ただただ節約生活です。高輪のマンションに幽閉され、外出はと言えばコンビニに行くだけ」。他のメンバー2人は事務所が別なので、実情はまるで分らなかったという。
「今の時代だと成立しない浅はかな『大人たち』がいっぱいいた。『19』がデビューして、一番良い時期にそれを辞めちゃった。ダメにしちゃったのも『大人』同士の喧嘩」
デビュー直後に大ヒット、武道館に紅白に大忙し……。326さんが振り返るには「僕がいると取り分が減るというので、僕がまず邪魔になったのでは」。残るメンバー2人は、「大人たち」から何と言われたのかも知らないという。326さんは言う。
「周りの人がなんと言おうと僕はファンの人たちと同じ目線で、きっと2人も僕と同じようにだまされてたんだろうなって、そう今でも信じています」
326さん自身も責任を感じ、ファンの人が悲しむと思うと真実を言えなかった。
「なので僕、『19』という存在自体を守ろうとしたのか分からないけれど、ずっと強がって嘘ついて本音を隠し続けていました。それに自分の本音を言うとみっともないって気持ちもちょっとあった。なによりファンの人をガッカリさせちゃうのが嫌だった。だから、強がって、『自分から抜けました』っていう体(てい)にした。今だったら考えられない感覚ですけどね」
ともあれ、ドタバタの脱退劇を経て、326さんは再び個人活動に戻った。「もとの自分に戻るだけだ」と自らを奮起させ、絵本の描画、本の執筆へ。恩義のあるNHKからの仕事は何があっても断らないと決め、番組の司会を担当した。
メディアの世界でうまく泳ぎ切る印象を、筆者は勝手に抱いていたが、326さん本人は葛藤を抱いていたようだ。それ以上に誤算だったというのが、テレビの活動から離れただけで「消えた」と言われてしまうことだったという。
「本を出しているし、売り上げは前と変わらない。なのに『消えた』と言われるのが、本当にいやだった」
テレビは、ひとたび出ると、出続けない限り、「消えた」「干された」イメージがついてしまう。心外だが、「わざわざ説明して歩くのも格好悪いし」と326さんは笑う。
326さんにとっての大きな出会い
だまされ続けた所属事務所から逃げるために、いろいろな人が326さんを助けてくれた。イベントを通じて出会った漫画家・さくらももこ先生や、糸井重里さん。さくらさんには弁護士の紹介までしてもらったという。
「“あれはちょっとひどい”って怒ってくれて、何のメリットもないのに助けてくれた」
そして326さんには大きな出会いが訪れた。いくつかの事務所を渡り歩いたのち、フリーランスとなり、『19』当時の修羅場を振り返る企画で有吉弘行さんの番組『有吉ジャポン』に出演。この時に共演した、タイタンの太田光代・代表取締役社長との出会いだった。
「台本にまったくないことは、テレビの世界ってやらない。ところが、光代社長は台本をガン無視で“あなた今、どこに所属しているの”。“僕、今フリーです”と答えると、光代さん、台本にないことをいっぱい言い始めたんです。皆も有吉さんもビックリしているけど、“面白いからそのままいっちゃえ”って」
光代社長は「このあと名刺渡すね」と本番中に言い放ち、収録が終わった瞬間、本当に名刺を渡してくれたという。
「“いつ空いているの?”って言われ、その場で次に会うスケジュールを組んだんです。それから、東京・阿佐ヶ谷にご飯を食べに行ったんですね。すごく美味しい、シャトーブリアンのお肉を食べさせてもらった。で、“おうちに行きましょう”。話の展開が早いんです」
あれよあれよの展開で、光代社長の自宅でシャンパンを開けながら、彼女は一言、「いつから来る?」。タイタンに所属しろというのだ。
「この人、面白いな。社交辞令のはびこる芸能界、嫌な人たちもいっぱい見てきたけれど、魅力のある人だな、と思ったんです。“この人だったら”と思えた。だから、“行きます”ってその場で答えたんです」
タイタンでは、芸能事務所としての業務のかたわら、社内外から著名な講師を呼び、学び合う講座「タイタンの学校」を開設している。326さんはそこで講師も務めている。
「当初は絵を教える授業をやってくれ、と言われたんですけど、絵なんかよりプレゼンの方が大事じゃないですか、この業界。教えるなら、プレゼンを1時間教えたい」
これがたちまち人気講座となり、コマ数も講座内で最大になり「看板講師」になったという。人材育成にも携わることができた。
「光る部分を見つけるプロデューサー的な目線も一応評価していただいた。人の良い所、広がる所、伸びる所を見るのが好き」
現在、326さんは、アニメ『やさしいあくま』、童話『世界一ブサイクなぬいぐるみ』の製作にも勤しんでいる。
「昔から続けて来たものが全部役に立っている。先生も、テレビも。『19』でゴタゴタしたり、所属事務所で困ったりした時を経て、今は困っている人がいたら助けようって思えるようになった。すごく嫌な思いだったかもしれないけど、必要な経験だったかな」
326さんにとっての平成とは
平成がもうすぐ終わる。振り返って心になお残るのは、さくらももこ先生の言葉だ。
「さくら先生が助けてくれた時、僕、20歳くらいかな、僕が何を言ってもお返しをさせてくれなかった。当時の僕は『売れているのに貧乏』っていう状態。さくら先生にはメリットがひとつもないのに、ずっと時間かけて助けてくれた。
“お願いだから恩返しさせてくれ”って言ったら、笑いながら“いいのよいいのよ。でも、それは私にじゃなく、今のあなたと同じように、これからあなたが出会う人で困っている人を助けてあげて”って言われたんです」
以降、個展などの場で若い世代のアーティストと組む時には、さまざまな形で326さんは手助けを心がけてきた。
「さくら先生の存在がなかったらそれはやってないな。お別れの式で、“僕、頑張りますね”って宣言したんです。まるちゃんの絵が飾ってあって、お花がたくさんある前で。きっと聞こえているはずだ、という感覚を持って」
まるちゃんの笑顔。さくらさんはこんなふうに多くの作品を残し、皆が寂しくないようにしてくれた、それは自分にもできること。そう思った326さんは、電子書籍として過去の本を読めるようにした。アニメーションは子どもたちに共感を呼び、視聴が広がっている。
「土を耕し、種を植え、芽が出てっていう状態で、今もう少しで平成が終わるのを迎えられる。次の年号が始まった時、手にしたこの勢いを無駄にせずに、より良く生きていきたいんです」
326さんの言葉に「花が咲かないときに根が育ち、花が散った後に実が実る」というのがある。
「土を耕すのが長い時期もありました。芽は出ないのかって不安な時もあったし、目に見える成果が出ない時期もあった。でも、目の前にある種を食べちゃったら終わり。これは育てなきゃ。木にしなきゃいけない。実のなる木に」
毎回、どんな作品でも世界を変えられると信じ、326さんは発信している。
「気付かないところで誰かにそれが伝わり、その言葉を胸に頑張ってくれて、何か大きなことをしてくれる可能性もある。直接、自分が恩恵を受けなくても、それでもやらないと、っていう感覚があります」
完成も大事。完成までのプロセスを見せるのも、また大事。大失敗し、恥ずかしい姿を見せるところも含め、意味を持つ。数々の苦難を乗り越えたからこそ、326さんは信じている。
「時代が変わるということは、“ここはひとつ、お前も頑張れよ”と言われたような気分。元年から10年後までに、どんな自分がいるんだろう。やりがいを感じます」