元『センチメンタル・バス』の鈴木秋則
「音楽の専門学校の同級生で、授業のために組んだバンドで一緒だったんです。NATSUのキャラクターがよかったから、行けるところまで続けてみよう……と思っていたのですが、どんどんメンバーが抜けていって、最終的に2人になったという感じです」
「当時まだ一般的でなかったマッキントッシュを持っていたことで、専門学校の先生にWANDSのマニピュレーター(打ち込みサウンドをバンド演奏の中に取り入れて、コンピューターを操作する担当)のお仕事を紹介してもらえたんです。
ソニー社員だったジェーン・スー
「NATSUは別ルートでソニーのオーディションで引っかかっていて。それでエイベックス所属のまま、レーベルはソニーという形でデビューすることになりました」
「彼女がソニーの社員で、僕らの宣伝担当だったんです。当時は10代の女の子に人気の音楽が時代をリードする……という風潮があったので、10代の女性向けファッション誌の企画にNATSUを売り込み、企画でアフロヘアにしたんです。
「作曲し始めるときに決めた作品テーマ“野球+ロック”が表現できていればそれでよし! と振り切ったために、自分の電子オルガンの鍵盤演奏パートが間奏7小節しかないんです。テーマどおりで満足だったのですが、後からシングル作品として発表することが決まって。
「でも現場の撮影チームがイメージしたものと違ったようで、次点の候補曲だった僕らの曲が起用されることに」
「ピンク・レディーが忙しすぎて当時の記憶が無かったのか、解散後に会った際、『ザ・ベストテン』で何度も共演している久米宏さんに“はじめまして”と言ったエピソードが好きなんです(笑)。僕らも一気に忙しくなって、スタッフと衝突することとかも増えたけど、自分の中では彼女たちに近づくためにも、もっと頑張らなきゃなと、どこか冷静に見ている部分もありましたね」
「ヒットしてからの1年間がとても充実した日々を過ごせたし、どこか生き急いでいた感じはします。解散と同時にNATSUは事務所を辞めたんですが、僕は拾ってくれた事務所に恩返しできれば……と残ることにしました」
TOKIOにも楽曲を提供
「当時20代後半だったので、僕より年上の生徒も多かったですね。教えるという立場だと厳しいと思ったので、ともに学ぶというスタンスでやっていました。その日のヤフーニュースのトップで気になったものを選んで、ディスカッション。それをテーマに音楽を作るなら……という感じでやっていました」
「『花唄』はセンチメンタル・バス時代にお世話になっていたディレクターがコンペ用の楽曲を集めていて、声をかけてくれたんです。当時のTOKIOはまだまだアイドル的バンドのイメージだったのですが、僕はバラエティー番組の『ガチンコ!』で見せる男臭い彼らが好きだったので、楽曲にもそういう部分を出せたらいいなと作りました。
「黒夢のスタッフだった方が現在、吉本興業の音楽部門にいる縁でお仕事をすることになりました。僕は鉄道に詳しくないのですが、鈴川さんから資料として提供してもらった踏切の音源にBPM(1分間の拍数)を合わせて作るなど、音楽的小技を入れつつ、子どもたちにも覚えてもらえるようなわかりやすい曲にしました。
ジョイマン高木と“コンビ”結成
「高木さんと一緒にヨシモト∞ホールのライブに出たんですが、吉本の芸人さん以外でなかなか立てるステージではないから本当に光栄でしたね。僕が音楽を作るときのテーマの1つがユーモアなんです。音楽に限らず人を笑顔にするってすごいことだと思っているので、お金ではないギフトをもらっている……と、ポジティブに考えるようにしています」
「世の中的には一発屋のようなイメージがあるかもしれませんが、一発当てるのもなかなか大変だと思うので、それを経験できただけでもラッキーなのかなと。昨年からサブスクリプション(定額サービス)でセンチメンタル・バスの楽曲も解禁されたので、『Sunny Day Sunday』以外の曲も聞いてもらえたら。