大森隆志(63)
「元気ですよ。太ったけれど。お腹がスゴイんだ(笑)」
プロになる気はなかった桑田
「地元が同じドラムの松田弘とは、高校1年のときから一緒にバンドをやっていました。プロになるには東京に行かなくてはダメだということで、青山学院大学に進学するために上京。
そうしたら、教室で楽器を演奏する音が聴こえてきて、それに合わせて日本語で歌っているはずなのに、歌詞がサッパリわからない、強烈な個性の歌声も聴こえてきて。“コイツをボーカルにしてバンドを組みたい”と思った。それが桑田佳祐でした。で、“一緒にバンドやろうよ”って誘ったの」
「俺が“プロを目指して頑張ろうよ”って言うと、桑田が“いいよ、お前に任せるわ”って。俺がバンドを仕切ることになり、ドラムは弘を連れてきたけど、キーボードをどうするか?
「ヤマハ主催の音楽コンテストに応募しました。これがサザンのすべての始まりです。予選を勝ち抜いて、決勝で桑田が『ベストボーカル賞』を受賞。バンドも入賞したんです。参加していたのは『カシオペア』や『シャネルズ』や円広志さんなど、すごいメンバーでしたよ。
なじめなかった“芸能界”の空気
「3曲目の『いとしのエリー』のころは、ライブが終わった後に『ザ・ベストテン』の中継が入り、それから『オールナイトニッポン』の収録。帰って朝5時に寝て、すぐ6時に起きてサイパンへCM撮影。日本に帰ったら、そのまま会場でコンサートというアイドル並みのスケジュールに。
『ザ・ベストテン』の常連になったが、出演するときは、なぜかコスプレ姿。
「コミックバンドの扱いでした。みんな“こんなはずじゃなかった”と思っていましたよ。ただ、お茶の間のことを考えれば、見てるほうは楽しければいい。だから“それでいいじゃん、頑張ろうね”って、励まし合っていました。’82年の『チャコの海岸物語』くらいまでは。
桑田はいかりや長介さんから“お前、面白いな、ドリフに入らないか?”って言われたみたい。桑田も“いやぁ~、マイッタよ”って(笑)」
「初めて『夜のヒットスタジオ』に出たとき、楽屋が1つしかない大部屋だったんです。そこで和田アキ子さんが俺たちを見て“彼らは何? 見学に来た人たち?”ってマネージャーに言っているのが聞こえてきた。俺らはライブハウス育ちだし、学生みたいな風貌だったから“ザ・芸能界”を違った目で見ていました」
「ベストテンに初めて出たとき、楽屋に入ったら『ゴダイゴ』がいた。すごく貫禄があっておっかないんですよ。大先輩だし、ビクビクでした。ミッキー吉野さんはGS時代からいる人ですもん。
「サザンをまたやらなきゃダメだ」
「最大の危機でしたね。原坊が出産して休んでいて、桑田は『KUWATA BAND』を1年限定で結成。素晴らしいバンドだったけれど、ズルズルとのびてしまっていた。俺が“サザンのファンが待っている”って桑田に言ったの。
それで'88年に復活ライブができたんだけど、解散状態だったサザンをまたやらなきゃダメだって、俺がメンバーを説得して歩いたんです」
「人にすすめられやってしまった。わきが甘かったんです。軽い気持ちでやってしまった。もちろん自分でやったことは自分で責任を取るしかない」
「捕まった日は、留置場の中で自殺しようかと思いました。好きなギターは弾けないし……。執行猶予の判決が出て、“おめでとうございます、自分みたいな若い刑事が捕まえてすみません”と言って、花束をもらいました」
「弁護士に“抜き打ち検査をしてほしい”とお願いしたことを、裁判官に伝えました。みなさんに対するせめてものつぐないというか、誠実に生きていこうという気持ちです。14年たちますが、今でも弁護士から急に電話がきて、病院に連れていかれます」
「サザンは自分が生きてきた証」
「幼なじみの弘とは連絡をとり合っていますよ。桑田は、辞めてすぐのころは夏にウナギを贈ったりしていましたが……。桑田のお父さんの葬式で会って以来、顔を見ていませんが、彼も大きな病気をしたのに、すごく頑張っていると思います。最大のエールを送りたいですね」
「俺は今でも“サザン愛”がいちばん強い人間だと自負しています。自分がバンドやりたくて、上京して集めたメンバーだし、学生時代から苦楽をともにしてきた。メンバーが現役で、還暦すぎても全員が音楽を続けている……こんなバンドないですよ。
最初2~3人のお客さんしかいなかったのが、武道館や東京ドームでライブをするようになった。サザンでデビューできたことは誇りに思っているし、自分が生きてきた証です」
「生涯ギタリストですよ。サザンのみんなに会ったら、お互いに頑張って生きてきたねって、ねぎらいたいね」
「元気なうちにね、やってもいいんじゃないの」