99歳を迎えられた百合子さまの誕生日写真。彬子さまとアルバムをご覧に(5月19日)
「6月10日、寛仁親王妃信子さまが『ストレス性ぜんそく』の悪化により、翌日から予定していた2日間の地方公務をキャンセルされました。タイミング的に“家庭内の不和”を心配する声も上がっています」(皇室担当記者)
信子さまが自ら1日6食のメニューを
「雨が降る中、母の百合子さまは車イスでご出席。長女の彬子さまと次女の瑶子さまも参列されましたが、信子さまのお姿はありませんでした。妻でありながら、今なお“蚊帳の外”にいることに不安と憤りを感じられたのでは……」(同・記者)
“ヒゲの殿下”の愛称で親しまれた寛仁さま。がんなどの手術を16回経験し、66歳の若さで逝去されてから10年がたった。
「皇族らしからぬ型破りな言動が、注目を集めました。ニッポン放送の『オールナイトニッポン』や、テレビ朝日系の『徹子の部屋』にもご出演。36歳のときには、公務と社会活動の両立ができないからと“皇籍離脱”を宣言して、昭和天皇が閉口されたという話もあります」(皇室ジャーナリスト)
「寛仁さまが食道がんを手術された後には、信子さまが1日6食のメニューを自ら作られたことも。報道陣の前で抱き合うなど、当初は“おしどり夫婦”として評判でした」(宮内庁OB、以下同)
「'04年の春、信子さまは更年期障害や胃潰瘍と診断され、軽井沢にある麻生家の別荘で静養されました。約2年後、赤坂の宮邸に戻られましたが、ひきこもりや入退院を繰り返すようになったのです」
「療養を目的として“完全別居”になりました。彬子さまと瑶子さまは、病気の父を置き去りにした信子さまが許せなかったといいます」
三笠宮家の次の当主はどなたに
《母は父の生前である十年ほど前から病気療養という理由で私たちとは別居され、その間、皇族としての公務は休まれていた。私自身も十年以上きちんと話をすることができていない》─
「'07年にアルコール依存症であることを告白した寛仁さまは、若いころから酒浸りの日々。“自己顕示欲が強い”といわれる信子さまとの歯車がかみ合わない際には、飲酒や暴力に走られたのです」
「寛仁さまの逝去直前、信子さまは病院を訪問しましたが、お見舞いは拒否されてしまいました。ご臨終の際もお別れの儀式もご夫妻の対面はかなわなかった……。寛仁さまの遺志により、葬儀の喪主は彬子さまが務められました」(前出・記者)
「そのころから、信子さまの活動が、にわかにご活発に……。国民への説明や三笠宮さまへの挨拶がないまま、公務を再開した母に対し、娘2人は不信感を募らせ、確執は深まりました」(同・記者)
「現在、三笠宮家の当主を務めていますが、“当主の座”をどなたに引き継ぐべきか、思い悩まれているとお見受けします」(宮内庁関係者)
「百合子さまはかねて、彬子さまを“次の当主”に指名したいという思いが強い。白寿の誕生日写真は、彬子さまと歓談するツーショットで“彼女へバトンを託す”と言わんばかりに信頼関係をアピールされた印象を受けました」(前出・ジャーナリスト)
「彬子さまからは、“三笠宮家を継承する”という強い覚悟が感じられます」
「三笠宮家は本当に仲のよい家族だったのよ」
「寛仁さまが逝去されて10年の節目に、尊敬するお父さまの人生の軌跡を形にし、複数のメディアのインタビューに応じておられます。“父の遺志を継ぐ”と、広く示されたかったのではないでしょうか」(河西准教授、以下同)
「順当にいけば、信子さまが当主になられると思います。宮内庁は慣例を重んじるため、よほどの理由がない限り、彬子さまの当主就任を容認しないのではないでしょうか」
「近年の信子さまは、精力的に公務に取り組み、皇族としての役割を果たされている以上、問題にしにくいとは思います。三笠宮家に関する行事への不参加は懸念されるものの、形式的に信子さまが当主に就き、実務は彬子さまが担当されることも推測されます」
「母娘の仲は、修復不可能だともいわれていますが、時間が解決してくれると信じています。現に、徐々に距離が縮まっている気もするのです」
「家族4人のエピソードが、たくさん盛り込まれていました。メディアに露出する際、これまでの彬子さまはいっさい信子さまについて触れられなかった。寛仁さまの日記がベースとはいえ、幸せな思い出を掲載されたのは、一家にとって“大きな一歩”です」
「“三笠宮家は本当に仲のよい家族だったのよ”─。よく、百合子さまが彬子さまに語りかけられる言葉です。次期当主の議論は遅々として進まないものの、彬子さまにご一家の命運を託されていることに変わりはありません」(同・三笠宮家関係者)
河西秀哉 名古屋大学大学院人文学研究科准教授。象徴天皇制を専門とし、著書多数