現在の思いを語るスーパークレイジー君('21年10月)
「(東京高裁での判決を受け)最高裁まで戦おうと思っています。今回の衆院選には出馬しません」
自分を育てた祖母の最期を看取れず
「当時、父親が暴力団だったことで、実家には仲間の暴力団がよく出入りする環境でした。母親との関係も薄く、代わりにおばあちゃんが僕を育ててくれたんです」
「(ヤクザ映画やヤンキー漫画に)憧れのようなカッコよさを感じていました。中学生の時から暴走族になり、共同危険行為(バイクの集団走行のこと)を繰り返していました。結局、鑑別所には6回行き、逮捕は計7〜8回、少年院には計5年いました」
「裁判の判決に来るのもおばあちゃんで、服役中はずっと手紙のやり取りもしていました。おばあちゃんから“暴力団はもうやらなくていい”“ちゃんと真面目に生きてほしい”と言われたのが、(暴力団の道に進まなかった要因として)大きかったです」
「今でも亡くなった実感がないんですよね。祖母ががんになってから、手紙の返事は途絶えてしまいましたが、まだ返事があったときのやりとりで覚えているのは“(あなたは)田舎でずっと収まるようなやつじゃない”と祖母からの手紙が届いて“じゃあ東京に行くよ”と返した覚えがあります」
少年院で出会った受刑者たち
「高級クラブでは、僕を指名する議員さんも結構いたんですよ。よく遊びに連れて行っていただきました。でも、そういう人たちが不祥事で消えていくこともよく目にしていて……」
「経歴のある議員が多数を占めるなか、元暴走族、全身刺青、特攻服で出馬すれば話題になるし、政治に興味を持つ人も増えるんじゃないかと。僕みたいな人でもちゃんと議員を務めれば“自分も政治に参加してみよう、政治家になってみよう”と思う人も少なからずいると思って」
「少年時代の祖母の別れ」と「上京後の政治家との交流」。この2つが重なり、昨年の都知事選での初出馬につながったそうだ。
「戸田市議選では都知事選の影響もあり、自分を知ってくれている人も多く、何もない自分を応援してくれる人が少なからずいました。議員になるとどうしても名前が先行するので、“目立つのならば、それに見合う行動をとらないといけない”と思うようになりましたね」
「少年院に計5年もいれば、何千人もの受刑者に会うんですよ。中には“親がいない、捨てられた”という子どももいて。家庭環境が原因で非行に走る子供でも、あらかじめセーフティネットや身元引き受け先を作れば、事前に青少年の非行を防げると感じました」
「経済対策に取り組む議員が多いですけど、僕はそれじゃないなと。自分はどちらかというと恵まれていない子どもなど、困っている人の味方でありたい。実際に会って話して、顔を覚えてもらって、話しかけてもらうのがいちばんだなと」
「あいつでもやれた」と思われたい
「市議会を傍聴しに来る子どもがいたり、市民に“ちゃんと喋ると普通にいい人だ”と言われてうれしかったです。戸田市の子どもたちは僕のことを戸田市長だと思っている子も多くて、あるときは僕のほうを指差して“市長だ!”と言われたこともあります(笑)」
戸田市に住む子どもたちから好かれ、ときには子どもからボランティア活動に誘われることもあるそうだ。
「(子どもが)自宅の前に飲み物置いてくれたり、手紙とか、バレンタインデーのチョコレートを作って持ってきてくれたりも。会いに来てくれる子どもに、こども食堂のスタッフをお願いすると、快く引き受けてくれたり。まだまだ困っている子どもはたくさんいるので、(市議会議員ではなくなっても)もっと活動の幅を広げていきたいとは思っています」
「最近では“政治家とはどうあるべきなのか”って自問自答したりもするんですけど、今までやってきた活動は苦に感じないですし、可能なかぎり続けていきたいです。市役所の広報よりは発信力があると思っていますし、続けることが大事かなと」
「損得勘定なしで活動を行いつつ、気づいたら(国会議員に)普通に当選している状態がいちばんいいですね。きれいごとですが、最初は軽いノリでも“あいつでもやれたんだから”と思われるような人になりたいなと」
「11月に高卒認定が取れるので、来年は通信制か夜間どちらかの大学に行こうと思っています。今までは物珍しく見てた人もたくさんいるはずですし、きちんと4年間大学で学ぶことも大事なので」と、今後のビジョンを口にした。
取材・文 佐藤隼秀