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左からザブングル松尾、藤原史織(旧芸名・ブルゾンちえみ)、城田優・アレクサンダーと川崎希夫妻
「当時、日本の芸能界にはタレントのマネージャーという存在がほぼおらず、興行師が手引きした仕事にタレントが出演すると、手数料を引かれた分がタレントに支払われる仕組みでした。芸能プロの地位を向上させ、いち早く大卒を社員として雇用し、スーツを着せてマネージャーという役割を作った会社がナベプロなのです」(芸能誌ライター)
「米軍クラブで演奏をすれば、最低でも月1万円は稼げた。公務員の初任給が5000円の時代でしたから、わりがよかったんです。しかし、ミュージシャンとして生活するには、収入は不安定だった。晋さんも音楽活動をする中で、この状況を変える必要があると考えたのでしょう。米軍基地で演奏をする中で培ったコネクションを基礎に、芸能プロを作ったのです」(同・芸能誌ライター)
“月給制”が話題になり所属希望者が殺到
「晋さんが芸能プロをやってるってんで“所属させてくれ”って頼みに行ったんですよ。晋さんは“オウ! いいよ!!”とふたつ返事でね。毎日のように米軍基地やジャズ喫茶で演奏して忙しかった。給料は安かったけどね。妻に“これだけなの!?”と言われましたが、月給制なのはありがたかった」
「晋さんはテレビ番組をテレビ局と一緒に作る“ユニット制作方式”を初めて導入したのです。クレージーキャッツが出演したフジテレビ系の『おとなの漫画』やザ・ピーナッツが司会を務めた『ザ・ヒットパレード』が有名です」(芸能プロ関係者)
「レコード会社で行われていた原盤制作を自社で行ったのです。それまではレコード会社が強い力を持っていたため、所属歌手の曲がヒットしても、ささやかな歌唱印税が入るぐらいでした。人材派遣のように仕事を斡旋するだけだった芸能プロのビジネスモデルを、権利ビジネスへと転換したんですよ」(同・芸能プロ関係者)
「植木等さんの口癖だった“スラスラスイスイ”という言葉を聞いた晋さんが、それを使って曲を作ろうと言い始めたのです。それが大ヒットした“スーダラ節”なんですよ」(前出・芸能誌ライター)
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「植木の実家はお寺なんですが、スーダラ節を父親に聴かせたら“これは哲学的で奥深い”と、たいそう感心されたそう。植木はこんな曲は歌いたくないと思っていたようですが、お父さんは“売れる”と断言したと、植木が話していました」
「どのテレビ番組を見ても、渡辺プロのタレントが出ていました。渡辺プロにソッポ向かれたら、番組が成立しなかった。歌手を目指す人たちにとっても渡辺プロは芸能界の憧れの存在でした」
「森昌子や山口百恵を輩出した日テレ系の超人気番組『スター誕生!』に対抗するため、ナベプロはNETという現在のテレビ朝日と一緒に新番組を企画した。しかし、新番組の時間帯には、すでに日テレ系でナベプロ制作の別番組があった。同じ時間帯の番組には、同じ事務所のタレントを出演させてはいけないという不文律があったので、日テレがナベプロに直談判すると、晋さんは“日テレが放送日を変えればいい”と。これに日テレは激怒して“全面戦争”になりました」(前出・芸能誌ライター)
「私がデビューした'80年ごろには日テレとの関係も回復したようで、デビュー曲から日テレの番組で歌わせていただきました」(前出・合田氏)
黄金期の終わりと創業者の死
「渡辺プロは時代の流れを見つめ、常に新しい潮流を作り上げてきた。それを晋さんと美佐さん夫妻が行ってきたんです」(同・合田氏)
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「'90年代には吉川晃司が売れ始め、松本明子や中山秀征などが台頭してきます。歌手や芸人という枠にとらわれず、時代が求めているものをナベプロは作り出してきた」(前出・芸能プロ関係者)
「私が入ったときは歌以外にも、新聞を読めとか、ダンスやトークのレッスンもありました。マネージャーは“テレビ局員と飲んでこい”なんて言う。いま思えば、社会で生きていく術を教えてくれたな、と。時期がくると、次のステップへと導いてくれました」