(画像は、大久保利通像)
文/砂原浩太朗(小説家)
牧野伸顕(まきの・のぶあき 1861~1949)と聞いてすぐに分かるのは、ある程度以上の歴史好き、それも近代史にくわしい人と見てまちがいない。明治から戦前にかけて活躍した政治家だが、今は日本史の教科書にも載っていないことが多いから、無理もないだろう。が、ひとたびこの人物を知れば、血脈と交友関係のきらびやかさに目のくらむ思いがする。本稿では、数多の著名人とのかかわりを中心に、忘れられた大政治家・牧野伸顕の生涯をたどってみたい。
父は大久保利通
牧野は文久元(1861)年、薩摩藩の城下・鹿児島に生まれた。実父は維新の元勲となる大久保利通で、伸熊(のぶくま)と名づけられる。次男だった伸熊は、生後すぐ親族である牧野家の養子となったが、養父がはやくに亡くなったため、実家で育てられた。大久保家の人間として成長したわけである。
明治元(1868)年に維新が成ったあとも鹿児島で暮らしていたが、1871年、兄の利和(としなか)とともに上京、父の方針でしばらくフランス人の家に寄宿し、語学を学んだ。同年、有名な岩倉遣欧使節団に随行してアメリカへ渡り、二年半の留学生活を送る。この時期の経験が牧野の視野を国際的なものとし、のちに政界で重きをなす一因となったことは容易に想像できるだろう。
明治7(1874)年に帰国後は、東京で家族一同がともに暮らすようになった。かつては冷徹な政治家というイメージで捉えられることが多かった大久保利通だが、近年は再評価がすすみ、子煩悩な家庭人という面もしばしば紹介されている。牧野自身の回想を借りるなら、「子供は大変好きで……五分でも暇があると、小さい子供を書斎へ呼び入れて戯れていました」(明治43年10月、「報知新聞」掲載)という。
が、明治11(1878)年5月、利通は旧加賀藩出身の不平士族らに暗殺されてしまう。同年12月には跡を追うように母が病死、牧野は一度に保護者を失ったのだった。
伊藤博文、原敬から岡倉天心まで……華麗なる人脈
伸顕と名をあらためた牧野は18歳で外務省に出仕、政治生活のスタートを切る。イギリス公使館に勤務中、伊藤博文の知遇を得、明治18(1885)年には随行して大陸へ渡った。朝鮮をめぐって緊張状態にあった清国と交渉をおこなうためである。清側の代表は、のち日清戦争(1894~95)でも講和全権となった李鴻章で、牧野は両国の大政治家がまみえる様を自らの目で見たことになる。このとき、天津総領事だった原敬(1856~1921 のちの平民宰相)と知り合う。当時はともに20代だが、後年、首相と宮内大臣として国家を支えていくことになる。ふたりは互いの力量を認めあう間柄で、大正10(1921)年に原が暗殺されたときも、直前に牧野を訪ねながら不在のため果たせず、後日を約していたのだという。
総理大臣秘書官や県知事、文部・外務大臣と数多の要職を歴任し、やがて宮内大臣・内大臣として天皇の側近となる牧野だが、芸術好きな一面をもっており、文部省美術展覧会(現・日展。明治40=1907年が第1回)の開催にも尽力している。じつは、東京美術学校(現・東京芸術大学)の校長をつとめた岡倉天心(1862~1913)は、東京開成学校(東大の前身)時代の後輩にあたり、終生交友をつづけた親しい仲だった。そのつながりから、川合玉堂や横山大観といった画家たちとも交流があり、こうした縁も加わっていっそう美術の振興に力をそそいだのである。
娘婿は吉田茂――二・二六事件では標的に
明治42(1909)年に牧野の長女が嫁いだ相手が、吉田茂(1878~1967)だった。言わずと知れた戦後の大宰相だが、結婚した当初は一外交官で、「牧野伸顕の女婿」という肩書には大いに助けられたという。さらにいえば、吉田の娘・和子が実業家の麻生太賀吉に嫁いでもうけたのが、第92代総理大臣をつとめた麻生太郎氏だから、大久保利通から牧野を経た血脈は、現代まで連綿と続いているわけだ。
が、その吉田(麻生)和子が命の危機にさらされたことがある。かの二・二六事件では前年に政界を引退していた牧野も標的となり、静養先の湯河原で襲撃された。ちょうど遊びに来ていた和子ともども危ういところで旅館を脱出、山中に逃げてかろうじて一命をひろったのである。まだ結婚前のことだから、ここでもし和子になにかあったら、われわれが目にする現在の政治状況は、かなり違った色あいをおびていたことだろう。
ちなみに、吉田茂の長男が、作家・英文学者の吉田健一である。独自の文体で今なお熱心なファンを持つ書き手だが、牧野に言及した文章もいくつか残している。さらには、健一をつうじて評論家の小林秀雄などとも親交があったというから、ここまでくると、血脈・人脈の華麗さに呆然となってしまう。
大戦を生きのびた牧野は、昭和24(1949)年に87歳で没した。政界を引退する折には昭和天皇が涙をながして惜しんだというし、戦後も助言をもとめて官僚たちが疎開先の柏(千葉県)まで足をはこんだ。
現役の政治家時代、牧野は自分と反対の意見もあたまから否定することはせず、まず最後まで聞いてのち、みずからの判断をのべていた。これは亡父・大久保利通のやり方と同じである。また、臨終に際して「世の中で一番難しいのは無私になること」と言い残しているが、大久保も無私を貫いた政治家であり、あれほどの高官でありながら、その死後、財産と呼べるようなものは何も残されていなかった。
牧野は亡父の姿勢を人生の指標としていたのかもしれない。筆者には懸命に、そして誠実に偉大な父へ近づこうとしたように思える。これほどの人材と血脈がまわりへ集まったのも、そのひたむきな生き方が引きよせたように感じられてならないのである。
文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』(講談社)がある。