津波で息子を亡くした丹野祐子さん(54)には、東日本大震災後から続けていることが2つあります。
一つはあの日、この街で何が起きたのかを伝える語り部の活動。
もう一つは、「週刊少年ジャンプ」を買い続けることです。
やんちゃで、ちょっと出来が悪くて。でもその分、愛しくてたまらなかった息子。
「私は勉強しなさいっていつも怒っていましたね。今はそのことを本当に後悔しています」
間もなく12年。ジャンプを並べる本棚は、もうすぐいっぱいになります。
息子の遺品は見つからず
宮城県仙台市から車で30分。丹野さんは今も、名取市閖上(ゆりあげ)に住んでいます。
2011年3月11日は中学3年生の長女の卒業式。揺れが起きたのは、学校近くの公民館で謝恩会を開いているときでした。
その1時間後。
「津波だー!って誰かが大きな声をあげたんです。ふと見ると東の空一面に真っ黒い砂ぼこりのような黒い煙が巻き上がっていました。私と娘は公民館の2階に駆け上がることが出来たんです。でも、ちょっと離れていたところで、友達とサッカーボールを蹴って遊んでいた私の息子は逃げ遅れたようで、2週間後がれきの中から発見されました」
津波は、長男の公太君(当時13)と、向かいに住んでいた義理の両親を襲いました。
名取市では954人が犠牲になり、38人が行方不明となりました。名取市内で最も被害が大きかったのが沿岸部に位置する閖上地区です。高さ約8.5メートルの津波が押し寄せ、約750人が犠牲になりました。
約2000軒の家があり、5000人ほどが暮らしていた街は一瞬で姿を変えました。
「私の家も津波で全部流されました。母子手帳もへその緒も流されました。親ばかだったから、子供が生まれてからずっと撮りためた写真・ビデオ、幼稚園で作った作品とか母の日、父の日にもらった肩もみ券とかお手伝い券、全部箱に入れてあったけど、全部流されてしまいました。息子が使っていた鉛筆1本、箸1本、茶碗のかけらでも良いから何かないかなって町中探し歩きましたが、とうとう私は何も見つけることができませんでした」
抱え続ける後悔と慰霊碑
「なぜ親である自分が生き残り、息子を助けてあげられなかったのか」
どうしようもない後悔だけが、頭の中を駆け巡り続けました。
「どうしたらきょう1日を過ごすことができるか、そんなことを考えながら時間だけが過ぎていきました。街からがれきが無くなっていくと、ここにたくさんの命があったこと、そして、私の息子が生きていたということ。だんだん忘れられていくようで怖かった。だから名前を残そうと決めたんです」
公太君が通っていた閖上中学校。東日本大震災から1年後、丹野さんは正面玄関の前に慰霊碑を建てました。
そこには14人の名前があります。丹野さんがほかの遺族にも連絡をとり、犠牲となった生徒全員の名前を刻みました。
慰霊碑の除幕式
語ることができる場所
その翌月、中学校のすぐ隣の更地に、語り部などを行う施設「閖上の記憶」が立ち上がりました。
名取市内で開業していた心療内科医が代表を務めるNPO法人が「慰霊碑の社務所」として、そして、「被災者がいずれ自分たちで立ち上げるまでをサポートしたい」とオープンさせました。
丹野さんはこの場所で語りを始めました。
「ニュースでは石巻市など三陸沿岸部ばかりが報道され、閖上のことはあまり表に出ることはありませんでした。でも閖上の記憶ができ、自分の経験を聞きたい、知りたいと言ってくださる方がいた。なかったことにしない、自分の思いが言葉になりました」
丹野さんは語りを始める際、必ず「ようこそ」という一言から入ります。
何気ない一言にも、丹野さんならではの思いがあります。
「実は震災後、被災地に来る人の中には、がれきの上でピースサインをする人や、立ちションをする人がいました。あまりに腹が立って、追い返したりしたこともあります。ただ、だんだん時間が経って、だんだん街が綺麗になっていくと、ここに足を運んでくれる人はいなくなっていったんです。初めの頃、追い返すような態度をとってしまったことをとても後悔しています」
何はともあれ、来てもらって、話を聞いてもらうことから始まる。だからこその、「ようこそ」なのです。
変わり続ける街で
街はがれきの撤去が進み、姿を変えていきました。その中で、公太君が通っていた閖上中学校の解体も決定。2015年12月に解体作業が始まりました。
丹野さんは、崩されていく中学校の姿を複雑な思いで見つめていました。
閖上中学校の解体工事
息子の最後の目撃情報は、「中学校に向かって走っていたらしい」というものでした。そこにたどり着けていれば、今も生きていたかもしれない。校舎を見るたびに、その思いが募ります。だからこそ閖上中学校は「息子について語っていこうと思ったきっかけ」でもあり、「原点」でした。
それが、なくなる。
一方で、こうも思いました。
「学校を残したいと言うことが、復興の邪魔をしているって言われてしまうことがすごく怖かった。一方で本当に学校が同じ場所に残っていたら、私は冷静に暮らせていたんだろうか、建物を見ながら暮らす、どうなのかなとも考えます。ただ、もう災害を知らない世代の方のために残す勇気も本当は必要だったんだろうなとも思います」
閖上中学校は半年後に解体作業を終えました。
そして2018年、仮設住宅で7年暮らしていた丹野さんは、約5メートルかさ上げされた新たな閖上の街に自宅を再建しました。
「閖上に戻ることを当初は周りから反対されました。ただ、息子はこの街しか知らないから。私がほかの場所に拠点を構えてしまったら魂はどこに帰るのだろうなってそんなことを考えたら、私はやっぱりここに戻りたかった」
バトンを渡す
現在、「閖上の記憶」は2度の移転を経て、閖上港の朝市のすぐ隣にあります。
今では、「命を学ぶ拠点」として、多くの語り部が活動を行うようになりました。修学旅行や企業研修、大学生など多くの人を受け入れているほか、閖上の地を訪れた人たちが集まる場所にもなっています。
2023年2月、この日は兵庫県の高校生が修学旅行で閖上地区を訪れました。
元バスガイドの丹野さん。車内で、街の中で、そして慰霊碑の前で、思いを伝えました。
「本当ならば阪神淡路大震災で先に被害に遭ってしまった神戸をちゃんと学んで地震はどうすれば良いのか、家族でどう連絡をとれば良いのか、災害をもっと学んでいれば、私は大切な息子の命を失わずに済んだと本当に後悔しています」
そして子供たちに、こう語りかけました。
「皆さんぜひ親孝行してください。誰でも出来る一番簡単な親孝行、それは親よりも先に死なないということです。うるさくて邪魔な親は、誰よりも我が子を愛しているということを忘れないでいてくれれば本当にうれしいと思います」
慰霊碑は2018年に開校した閖上小中学校の敷地内に
ある生徒は、こんな感想を残しました。
「教科書にも載っていて、映像とかも見ていたりしたんですけど、実際に体験された方の話を聞いてみると、全然印象も違うし、これを家族や将来の子供にどんどん繋げられたらいいなと思いました」
バトンを渡していく。これが、語り部の役割です。
伝え続けるため、一般社団法人に
2021年。東日本大震災から10年が経ち、閖上の記憶はNPO法人の運営から手を離れ、地元の住民で作る一般社団法人として再スタートしました。代表には丹野さんが就任しました。
「同じことが起きなければ、私のような語り部というような人間は、本当はこの世に存在しなくても良い。もしかしたら同じことが起きた時に次の誰かの命を救うことに繋がれば、私たちの活動は無駄じゃないと思います」
被災地には、今も癒えない悲しみを抱えている人がいます。話を聞きたくない、話を聞かれたくないという人もいます。
続けていくことには、葛藤もありました。いつまでこだわるの? 悲しい話はもういいじゃない。そう思っている被災者がいることも、事実です。
「今もあの日のことを思い出すことさえ辛くて、あの日のことを語ることができない人がいることも忘れてはいけない。そして、すべての人間が同じではない。復興のスピードはみんな違って当たり前。一方で語りたいのに語れないという人もいる。街が新しくなり語る場所がなくなった今、この場所をもう少しだけ守り続けていきたい」
「語ることで救われた」。丹野さんはそう感じています。
ただいま、おかえりと言い合える場所に
閖上の記憶の理想形は、「誰でも立ち寄れて笑顔でただいま、おかえりと言い合える場所」。
一般社団法人化に合わせ「ともに学ぶ」をコンセプトとした「サポーター制度」を始め、広く仲間を募っています。サポーターの仲間とは、語り部の会やともに被災地で学ぶ研修会などを開催してきました。
「応援者ではなく共に歩く仲間たち。ですから時には手を貸してほしい。私から何かを学んでほしいし、私が学ぶときは一緒に学んでほしい。サポーターの方々と同じ船に乗り込んで同じ方向をみながら進んでいきたい」
東日本大震災から12年。
被災地では語り部を行ってきた人たちの高齢化や語り部を行う人材の確保が課題となっています。教訓を継続してどのように後世に残すのか、被災地共通の課題として各地で模索が続いています。
愛息へのメッセージ
丹野さんが閖上に自宅を再建したかった理由はもう1つ。公太君の部屋を作りたかったからです。
2階の真ん中に用意された公太君の部屋の本棚に、週に1冊ずつ、彼が大好きだった週刊少年ジャンプを買い足しています。
閖上の記憶では毎年3月11日に、ハトの形をした風船にメッセージを書いて空へ飛ばします。
丹野さんが愛息に向け記す言葉は、ここ数年変わりません。
「たまに帰っておいで」
まもなく、600冊になるよ。いつでも読みに来なね。
追悼のつどい(2022年)
「息子が亡くなった後も、少年ジャンプを買い続けていることに驚かれることもあるんです。でも私にとっては普通のことです」
一番最初に読むのは息子であるために。
本棚にあるジャンプはすべて、新品のままです。
(仙台放送報道部 大山琢也)
※この記事は、仙台放送によるLINE NEWS向け「東日本大震災特集」です。
INFO
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