2019年7月30日。1頭のサラブレッド死亡が報じられた。
その馬の名はディープインパクト。ニュースは列島だけでなく、世界中を駆け巡り、多くのファンが嘆き悲しんだ。
そこから1年。今もファンに愛され続ける。1頭の馬が、なぜここまで多くの人々の心をつかんだのだろうか。
落馬寸前…からの“伝説の快走”
3歳馬が生涯一度だけ出走できるクラシックレース。その初戦、2005年の皐月賞はディープインパクトの"勝ち方"に注目が集まっていた。
単勝1.3倍と断然の1番人気に支持されたディープ。だが、スタートで予期せぬ出来事が起こる。
ゲートが開いた瞬間つまずき、あわや落馬かというほど態勢を崩し、大きく出遅れてしまう。
まさかの展開にスタンドを埋めた8万5000人の大観衆はどよめき、最悪の結末を予見した。
ざわめきが止まない異様なムードの中でレースが進んでいく。
馬群が最後の直線に向いたときだった。そのどよめきが地鳴りのような大歓声に変わった。
武豊のムチに反応したディープが、他馬が止まってみえるような次元の違う走りで大外を一気に突き抜けてきた。
2着に2馬身の差をつけての快勝。
名手はこの時の走りを「飛んでいる感じ」と表現した。衝撃の物語が大きなうねりとなって動き出した瞬間でもあった。
名伯楽「予言」の瞬間
2004年4月、滋賀県・栗東トレーニングセンター。
関西の名門・池江泰郎厩舎の前で、トレーナーは、入厩予定馬リストをみてこう『予言』していた。
「この馬が、将来はうちの厩舎の看板馬になる」
メジロマックイーン、ステイゴールドなど数々の名馬を育て上げてきた名伯楽。
堅実で慎重なトレーナーとしても有名で、決して大風呂敷を広げるタイプではない。
その男が、デビューの8カ月も前に、ディープの類い稀な素質を見抜いていた。
その後、最高級の輝きを放つ宝石は、まだ小さな原石にすぎなかったが、トレーナーにはすでに確信があった。
“瞳の美しさ”に一目ぼれ
馬主の金子真人氏にとってもディープとの出会いは印象的なものだった。まさにそれは一目ぼれ。
「瞳に吸い寄せられた深い衝撃が忘れられなかった」
良血のサラブレッドは何億円という高額で取り引きされる。
ディープインパクトは「ウインドインハーヘアの2002」として、北海道のノーザンホースパークで行われた国内最大の競走馬競り市・セレクトセールに上場された。
そこで金子オーナーが7000万円(税抜き)で落札した。
決して安い金額ではないが、父が日本の競馬地図を大きく塗り替えた大種牡馬のサンデーサイレンス。母がドイツのGI馬という良血を考えれば、むしろ安価に分類される。
小柄でそれほど見栄えがしなかったため、特別な存在ではなかった。
のちにGI7勝を挙げ、生涯獲得賞金14億5455万1000円。
種牡馬として51億円のシンジケートが組まれる歴史的な名馬になるとは、もちろん誰も知る由もない。
金子オーナーは、『競馬界に衝撃を与えたい』という願いを込めてディープインパクトと命名した。
不世出の名馬の誕生は、世紀の一目ぼれから始まった。
馬なのに“横走り”も?
牧場での幼少時代は、馬体が大きくならず完成度が少し遅れていた。
それでも、走ることが大好きで、毎日、蹄が血だらけになるほど放牧地を駆け回った。
育成が進むとその才能を示すようになり、騎乗者が「ゴムまりのように弾む」というほど乗り味が抜群になった。
普通、馬はまっすぐにしか走れない。
だが、ネコ科のように関節が軟らかいディープは横にも動けたという逸話があるほどだ。
「あの馬は動きが素軽い。バネが違う」
牧場で管理馬を視察した池江泰郎調教師も、小さな原石にくぎ付けになっていた。
女の子?股をのぞき込む
ディープインパクトが滋賀県・栗東トレーニングセンターにある池江泰郎厩舎に入厩したのは、2004年9月8日。
薄い皮膚、スマートな体つき、そして澄んだ瞳が印象的な馬だった。
担当の市川明彦厩務員は「かわいいし、性格もおとなしい。女の子じゃないかと思って、思わず確認した」と股をのぞき込んだという。それほどまでに扱いやすい馬だった。
“女の子のような馬”が競馬場でベールを脱いだのは、3カ月後の12月19日。直線で軽く仕掛けられただけで圧勝した。
デビュー前に武豊騎手は、「すごくいい馬。スピードがありすぎるくらい」と絶賛していたが、その勝ちっぷりは想像をはるかに超えていた。
そこから、連勝街道を突き進む。
「無敗の3冠馬」社会現象に
皐月賞に続き、無敗のまま日本ダービー、菊花賞も制覇。
1984年シンボリルドルフに次ぐ史上2頭目となる無敗のクラシック3冠馬に輝いた。
500キロを超える馬も少なくないなかで、牡馬としては小柄な440キロほどの馬体。
そこからケタ違いの瞬発力を繰り出し、直線で前の馬たちをごぼう抜きにする。
豪快なレーススタイルにファンは熱狂した。
“飛ぶ走り”が科学的に検証され、菊花賞では、レースレコードとなる13万6701人が来場。
勝ち馬としては最高単勝支持率となる79.03%で、オッズは元返しの1.0倍。儲からないとわかっていても、ファンは、記念の単勝馬券を購入した。
厩舎では「お坊ちゃまくん」
NHKでも特集番組が放送されるなど、ディープはさまざまな社会現象を生んだ。
後方から一瞬で抜き去る驚異的な末脚はまさに怪物。驚愕のパフォーマンスで人々の度肝を抜いたが、トレーニングセンターなどで見せる普段の様子にも周囲は驚かされた。
強い馬のなかにはピリピリして威圧して見せたり、調教を積むうちにストレスを受けて嫌気が差したりする馬も少なくない。
だが、ディープは「レースと調教は別」と言わんばかりに、いつも賢く、素直だった。
落ち着き払い、無駄な力を一切使わない。
馬房に人が近づいても威嚇などせず、大好物のニンジン欲しさにスッと柔和な顔をのぞかせてくる。
厩舎スタッフが教えたこともすぐにできてしまう優等生で、一流の血統と素直な性格から、厩舎スタッフがつけたあだ名は『お坊ちゃまくん』。
競馬場では怪物、厩舎では素直な優等生。その大きなギャップが魅力であり、強さの秘密でもあった。
日本馬初「世界ランク1位」
初の年長馬相手に挑んだ2005年の有馬記念は、4歳馬ハーツクライの後塵を拝して2着。
初黒星を喫したものの、文句なしの年度代表馬に選出された。
翌2006年は始動戦の阪神大賞典を楽勝すると、続く天皇賞・春ではレースレコードで快勝。
2度の坂越えがある淀の3200メートルの長丁場で、常識破りの残り1000メートル地点からのスパートという、異次元のパフォーマンスだった。
武豊騎手も「これ以上に強い馬がいるのかなと、思うくらい強い。海の向こうに行っても期待してください」と世界制覇へ自信をのぞかせた。
そして、5月上旬に陣営は世界最高峰のレース・フランスGI凱旋門賞への参戦を表明。
ファンの期待がさらに高まる中、壮行戦の宝塚記念はあいにくの稍重馬場だったが、ぬかるんだ馬場も全く苦にせず勝利。
凱旋門賞が行われるロンシャン競馬場は日本とは違って時計がかかる重たい馬場だけに、試走としても十分に思われた。
この時の走りが評価され、日本の調教馬として初めて「世界ランク1位」にもなった。
世界制覇への挑戦、結果は…
迎えた10月1日の凱旋門賞。
およそ6000人の日本人がはるばるフランスまで応援に駆けつけた。
場内の単勝オッズは1.5倍の1番人気。
NHK総合でも生中継され関東地区の平均視聴が16.4%と、深夜の時間帯では驚異的な数字だった。
誰もが日本馬初制覇を期待したが、“飛ぶ走り”ができず3着。
武豊騎手が「このレースの悔しさは忘れられません。今でも夢に見るほどです。ディープと味わった無念は、いつか凱旋門賞で晴らすしかないと思います」と語るほど、ショッキングな敗戦だった。
まさかの「薬物使用疑惑」
傷心帰国のディープに、2つの衝撃が襲った。
10月11日、年内の引退、種牡馬入りが正式に発表された。
その8日後にはさらに大きな衝撃が日本中を揺るがした。凱旋門賞後の検査で、ディープインパクトの体内からイプラトロピウムという禁止薬物が検出されたのだった。
最強馬を襲った衝撃の大騒動。
スポーツ紙だけではなく、一般紙、週刊誌、ワイドショーまでがディープ陣営を追いかけた。
さまざまな憶測が飛び交い、“薬物に対する認識の甘さ”や、“故意に使用して競走能力を高めたのでは?”というドーピング疑惑さえまことしやかに囁かれ、陣営を非難する声や記事があふれかえった。
矢面に立つ池江泰郎調教師の心労はピークに達していた。
それでも、真摯に取材に応じ続けるなど、毅然とした態度を貫いた。
最終的には、3着が取り消され凱旋門賞は失格扱いとなったが、吸引治療の際に禁止薬物が寝ワラに付着したものと発表され、ドーピングや不正使用では一切なかったことが証明された。
「薬がないと」否定のために
引退まで残り2戦。
ジャパンカップと有馬記念は、絶対に落とせないレースとなった。
もし負けるようなことがあれば「薬がないと勝てない」と思われてしまう。その中で、陣営はひとつのこだわりを貫くことを決めた。
引退まで一切の獣医師に診せず、治療行為をしないというものだった。
本来なら疲労回復のために注射を打つ状況でも、スタッフの手でマッサージを施し、ダメージが蓄積しないように調教メニューも工夫を凝らした。
ジャパンカップ。
誰もが待ち望んだ復活勝利を飾ると、武豊騎手とスタンドを埋め尽くした12万人が万歳三唱。それは、衝撃を超えて感動の光景となった。
ラストランの有馬記念も、いつも通り後方から徐々に進出。
直線は鮮やかに“飛んで”前年2着のリベンジを見事に果たした。
大団円で幕を閉じたディープ劇場。
最終レース終了後に行われた引退式では、5万人のファンとカクテル光線がディープの門出を祝った。
種付け料も“世界最高レベル”
生まれ故郷の北海道に戻ったディープインパクトは、種牡馬としても規格外だった。
ディープのDNAを受け継ぐ子供たちは、競馬界を席巻。
2010年に産駒がデビューを果たすと、2歳馬の種牡馬ランキングで1位を獲得した。
2012年からは、産駒の収得賞金の合計がトップのリーディングサイアーに君臨。
欧州でデビューした産駒もGIレースを制している。
初期は1000万円だったディープの1回の種付け料は、世界最高レベルの4000万円まで高騰。
種牡馬として大成功を収めていた。
武豊「世界一の馬だった」
別れは突然やってきた。
2019年2月18日、首に痛みが出た。
24頭に交配した時点で種付けを中止。その後に手術をして成功したが、7月29日に容態が急変。
起立不全の状態となり、検査の結果、頸椎の骨折が判明した。
回復の見込みがなく、再手術も不可能なことから、翌30日に安楽死の処置がとられた。
17歳。
人間で例えるなら、おそらくは50代前半という若さだった。
武豊騎手は「私の人生において本当に特別な馬でした。凱旋門賞制覇の夢はかないませんでしたが、ディープが世界一の馬だったと僕は今でも思っています。凱旋門賞をディープの産駒で行けたら勝ちたいという気持ちはあります」と語った。
すでに2011年に調教師を引退していた池江泰郎氏は「もう少し長生きしてほしかった…。調教師として夢のダービーを勝たせてもらったし、宝物のような馬だった」と、その死を心から悼んだ。
ディープの衝撃、永遠に...
熱狂、感動、涙…。
ドラマチックな馬生で、日本のみならず、世界の競馬界に名を刻んだディープインパクト。
ディープが走った2005年、06年は「格差社会」という言葉が流行した。
閉塞感に包まれた不確実な時代のなかで、人々は強さと愛らしさを兼ね備えた、真のヒーローを待ち望んでいたのかもしれない。
「英雄」といわれた絶対的存在。
1頭のサラブレッドが残した衝撃は、人々の心の中で、永遠に走り続けている。
(鈴木 康之)
ディープインパクト
2002年3月25日、北海道早来町(現安平町)のノーザンファームで生まれる。鹿毛。父サンデーサイレンス、母ウインドインハーヘア、母の父Alzao。馬主は金子真人ホールディングス(株)。現役時代は滋賀県栗東トレーニングセンターにある池江泰郎厩舎に所属。戦績は14戦12勝2着1回、失格1回(うち海外1戦0勝)。馬名の意味は英語で「深い衝撃」。表彰歴は2005年JRA年度代表馬、最優秀3歳牡馬、06年年度代表馬、最優秀4歳以上牡馬、08年JRA顕彰馬。05年7月発表のレーティングで日本馬初の「世界一位」に。獲得賞金14億5455万1000円。引退後、社台スタリオンステーションで種牡馬入り。2019年7月30日没。
※この記事はサンスポZBAT!競馬によるLINE NEWS向け特別企画です。