そのニュースを聞いて驚いた。
「ウクライナのボルシチ料理文化がユネスコの無形文化遺産に緊急登録された(2022年7月)」のだという。ロシアの軍事侵攻によりボルシチの文化が失われる可能性がある、というのが登録の理由だそうだ。
ボルシチが“世界三大スープ”のひとつであることは知っていたが、てっきりロシア料理だとばかり思っていた。
ではウクライナ料理とはどんな料理なのか。ルーツを探り食べ歩く中で、さまざまな「ウクライナへの思い」を知った。そして最後に、避難民女性が作る「変わらない故郷の味」に出合ったのだった。
あらためて、ボルシチってなんだろう?
「現地でも知らない人がいるんですが、ボルシチのルーツはウクライナにあります。ロシア語やウクライナ語の文献を丹念に調べるとわかります」
まずボルシチの解説をしてくれたのは、練馬区でユーラシア大陸を中心とする料理と文化を紹介し、新たな産業を想像する拠点「ユーラシアキッチン」を主宰する粟津彰治・葉子さん夫妻だ。
「そもそもボルシチは“酸っぱいスープ”という意味で、主原料はスイバという野草でした。ボルシチと言えば、ビーツの赤色をイメージする人も多いと思いますが、ウクライナでビーツの栽培が広く普及したのは14世紀。ですから、それ以前のボルシチは緑色だったはずです」
粟津夫妻によると、ほかにも白や黄色のボルシチもあるらしい。
「ボルシチはいろいろな種類があって、それぞれの家で味も違います。日本人にとってのお味噌汁みたいなものですね」
流暢な日本語で教えてくれたのは、吉祥寺にあるウクライナ料理レストラン『Babusya REY(バブーシャ レイ)』のヴィクトリヤさん(ウクライナ出身)。
なるほど、たしかに店ごとに味も違うし、豚肉や牛肉の違いなど、使われている素材も違う。これがロシアのボルシチとなれば、また印象もかなり異なるようだ。
ウクライナ人に言わせれば、ロシアのボルシチは薄味&具材も少ないそうで、曰く「私たちが食べた後の鍋にお湯を入れたらロシアのボルシチができる」らしい。
当然、戦争相手国であるロシアへの思いはいいものであるはずがない。ある店では「PUTIN HUYLO(プーチン・クソ野郎)」という銘柄のウクライナ産ビールが並ぶ。
ロシア人にもいい人はいる
「でも、ロシア人をぜんぶきらいなわけじゃない」。そう教えてくれたのは、新橋のウクライナ料理店『スマチノーゴ』で働くオレーナ・ズーバンさん(51)だ。
「ロシア人の友だちもたくさんいる。ロシア人にもいい人はいる。だけど、悪い人もいる。それは、ウクライナ人も、日本人も同じでしょう?」
言葉を選びながら話してくれたオレーナさんは、昨年5月にウクライナから14歳の息子と2人で東京へ逃れてきた避難民のひとりだ。もともと日本が好きで、以前に2度ほど、旅行で来日したこともあるという。
この半年で簡単な日常会話はできるようになったが、読み書きはまだほとんどできない。
50歳を過ぎて、異国の地ではじめて経験する仕事に最初はとまどった。メニューの内容を覚えるのもひと苦労で、日本語での接客もなかなかうまくできなかった。
「日本語はむずかしいです」。いまは仕事の合間にもノートを持ち歩き、毎日独学で勉強しているという。
昔はみんな仲良しだった
オレーナさんはウクライナ東部の中心都市ドネツクで生まれ育った。街の名は、戦闘の激しい地域としてニュースでもよく耳にする。
ロシアと国境を接するドネツク州は、ソビエト時代からウクライナの産業の中心地として栄えてきたため人口も多い(2014年時点では約430万人で同国最大。全人口の約1割を占めていた)。
「ロシア人の友だちもたくさんいる」とオレーナさんが言うように、ドネツク州ではロシア系住民が約4割を占めており、ロシア人の親戚がいるウクライナ人も珍しくはない。
聞けば、オレーナさんの父親もロシア系とのこと。ズーバンという姓もロシアの名前だ。
「ソ連の時は、ウクライナ人もロシア人も、みんな家族やきょうだいみたいに仲良しだった。でも、(1991年の)独立からあまり仲良しじゃない。そして、いまは戦争してる」
若くして結婚したオレーナさんだが、数年前に離婚。その後は服飾関係のデザイナーとして働きながら、シングルマザーとして子どもを育ててきた。
女手ひとつでの子育ては決して楽ではなかったが、仕事はそれなりに順調だった。好きな服やドレスに囲まれた日々は充実していた。だが、その生活は一変した。
2022年2月24日。ロシアによるウクライナ侵攻がはじまり、各地で戦闘が激化。次第に病院や学校や避難施設なども攻撃を受けるようになった。とくにドネツク州南部のマリウポリは激戦地となり、4月までに2万人以上の民間人が死亡したという報道もある。
戦火が拡大する中、オレーナさんも国外への避難を決意する。親友を頼って日本に行くと決めた。そして、4月19日、パスポートのほか大学の卒業証書などの身分証明書をバッグに詰め、14歳の息子と家を出た。
ウクライナという国の“複雑性”
ウクライナの成り立ちはとても複雑だ。
建国の礎になっているのは9世紀にできたキエフ大公国(別名:ルーシ)。ロシアや隣国・ベラルーシの名もこの「ルーシ」に由来するが、その歴史は他国による侵略と征服の連続だった。
13世紀にはモンゴル帝国の進攻を受け(日本はほぼ同時期にモンゴル帝国から元寇を受けた)、その後は長くポーランドやソビエト連邦などの支配下におかれた。つまり、1991年に独立を勝ち取るまで、ウクライナの人々は実に数百年もの間、さまざまな国に支配されてきたのである。
ウクライナは地域によってもその“複雑性”がまったく異なる。東部と南部と西部では住民の人種も文化も違う。
首都キーウを含むウクライナ西部はロシア語話者の割合も少ないが、東部や南部は複数の民族や文化がまるでモザイクのように複雑に絡み合っている。
「2014年から戦争は続いている」
そして、そのモザイクが戦争の火種になった。
オレーナさんの故郷・ドネツクでは、2014年に親ロシア派の反政府組織が武装蜂起し、ウクライナ政府との武力衝突の末にドネツク州の一部を実効支配したのだ。
つまり、ウクライナ東部では2014年から戦争状態が続いているのである。
ドネツクの自治政府をウクライナ政府やNATOを含む西側諸国は認めてこなかった。だが、ロシア側はこれを後押しし、実質的な“ロシア化”が図られてきた。
例えば、現地の教育現場では、ウクライナ語の使用が禁止された。
オレーナさんの息子・アントン君(仮名)は当時6歳。学校で母国語を習う機会を奪われ、ロシア語で教育を受けてきたのだ。そのため、いまも親子の会話はロシア語である。
「息子とは本当はウクライナ語で話したい。でも、それはむずかしい……」
「大丈夫。友だちいらない。」と彼は言った
こうしているいまもウクライナでは空爆やミサイル攻撃が行われており、民間人を含む多くの死者が出ている。国連機関の発表では、国外へ避難した人たちがすでに1700万人を超えた(2023年1月現在)。ウクライナの人口は2021年の時点で約4159万人だったので、もともとの人口の4割以上が祖国を出たことになる。
「いま日本にいるのはうれしい。でも、いつかはウクライナに帰りたい」
この先、戦争がいつまで続くかわからない。どういう未来が待っているか誰にもわからない。
いまオレーナさんの一番の気がかりは息子のことだ。アントン君は平日の昼は地域の公立中学で日本語を習い、夜はオンラインでウクライナの学校の授業を受けているが、日本人の友だちはいないという。
そのことを当の本人に聞くと、「だいじょうぶ」だと言う。「ぼく、ひとり、だいじょうぶ。友だちいらない」。まっすぐな目でこちらを見つめ返してくる。
政府や各自治体が生活費や教育の支援をしていても、受け入れたひとりひとりの生活までは十分なケアができていないのが現状だろう。
「毎日ウクライナのこと考える。朝起きたら、最初にウクライナのニュースを見る。とても心配……」
2月24日の開戦から1年が経とうとしている。そんな中、ウクライナは今、ロシアのミサイル攻撃などによって停電状態にあり、日中の気温も氷点下という日が続いているが、戦争終結への兆しはまだ見えてこない。
リンゴのタルトは平和の味
オレーナさん親子は、現在、東京都が用意した施設に住んでいる。家賃や光熱費は無料だ(対応は受け入れ先の自治体によって違っており、家賃は無料だが、光熱費は有料という自治体もある)。
携帯電話はソフトバンク社から無料貸与されたスマホを使っている。
「日本の人たちはすごくやさしい。みんな親切。レストランの仕事も本当にありがたいです」
オレーナさんが働くウクライナ料理店『スマチノーゴ』は、日本に避難してきたウクライナの人たちをスタッフとして受け入れ、2022年9月にオープン(店の営業は戦争が終結するまでの予定)。
「(避難民の人たちは)働きたくてもなかなか仕事がないと聞いて。飲食店なら、彼女たちへの経済的な支援という意味でも、またウクライナの文化を紹介することで祖国とのつながりが感じられて精神的なケアができるという意味でも助けになるかなと思いました」と開業の経緯を語るのは、オーナーのTAKANE(江副敬子 えぞえ・たかね)さんだ。
「飲食店で働いた経験のないスタッフも多いのですが、同じ境遇のスタッフ同士が心の支えになっているようですし、何より、お客様から優しい言葉をかけてもらったり、『おいしかった、ごちそうさま』と言ってもらえることが励みになっています」
スタッフの面接を担当し、これまで一緒に働いてきたTAKANEさんは言う。
「オレーナさんからは面接時に息子さんの話も聞いていましたし、彼女が真面目で頑張り屋さんなのはわかったので即採用しました。でも、最初の頃は仕事が覚えられず、『わからない、むずかしい』を繰り返していたんです」
だが、そのうちに“ある変化”があった。
「仕事に慣れてくるとオレーナさんもどんどん積極的になって、クリスマスのメニューを考えるときには自分から『リンゴのタルトを作りましょうか』と提案してくれました」
オレーナさんは毎年クリスマスの時期になると、家族や親戚のためにケーキやリンゴのタルトを焼いていたそうだ。
「(タルトは)大切な人に心をこめてつくる。ウクライナにいるとき、子どもたちも、親せきのおばさんもみんな『おいしい』と言ってくれた。私の大切な人に食べてもらいたい。だから日本のお客さんにも食べてほしい」。
オレーナさんのタルトは『スマチノーゴ』で食べることができる(数量限定)。やさしい甘さのタルトは、平和な頃のウクライナで作っていたものと同じ味だ。
言語の壁や継続的な就職先の確保など、日本における避難民の問題はそのどれもが簡単に解決できるものではない。これから明らかになる問題もあるだろう。だが、わたしたちにも何かできることはあるはずだ。YMCAをはじめとして、さまざまな団体が中長期滞在支援を行っている。
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オレーナさんのような避難民が働く店でウクライナ料理を食べることも間接的な支援になると信じたい。
取材・文・写真=芹澤健介
協力:ユーラシアキッチン
※この記事は、さんたつby散歩の達人によるLINE NEWS向け特別企画です。