阪神のみならず日本プロ野球界に激震を走らせた超異例の退任表明から数日が経過した。今季、就任4年目を迎える阪神・矢野燿大(あきひろ)監督(53)がキャンプイン前日の1月31日、全体ミーティングで百北幸司球団社長や選手たちを前に「俺の中で、今シーズンをもって監督は退任しようと思っている」と〝不退転〟の決意を明らかにし、異常な空気感の中で春季キャンプがスタートしてから数日が過ぎた。
いざグラウンドで練習が始まるとコーチ陣は昨年までと何も変わらぬように選手たちを指導し、選手たちも笑顔を浮かべながら練習に汗を流していた。まるで大海原にバケツ一杯の絵の具を投げ込んだが、時間の経過とともに絵の具は海水に溶け込み、消えてなくなったような印象さえ受ける風景だ。
矢野監督は異例の退任表明の理由と狙いについて説明している。「2月1日の1日というのも、もう帰ってこない1日。その1日も逆に退路を決める。『来年はもう監督という立場でここに来ていることはないんだな』という気持ちを持って自分も挑戦していきたい。それがチームのためにも選手のためにも、申し訳ないけど俺のためにもなるのかな、という決断で決めたことだった」
「こう言うことでマイナスな部分も、もちろんあるっていうのを、自分の中でしっかり考えて、それでも伝えた方がやっぱりいい。選手たちにも(言っているのは)俺たちに平等にあるのは24時間という時間と死ぬということだけ」
つまり勝っても、負けても今季限りで監督を退く覚悟を固めた。だから1日1日、24時間を無駄にせず、自分もコーチ陣、選手たちもできる精一杯の努力、精進を重ねようではないか。そういう気構えで野球に打ち込むならば、今回の退任表明はチーム、選手、監督自身の「ためになる」という論法だと理解する。
どこかの映画かテレビドラマで見たシーンのような錯覚にとらわれた。重病で主治医から余命1年と宣告された患者さんが家族や知人に『これから生きていく1日1日を大事にしたい。今日という日は二度と帰ってこない。だから懸命に生きていく』と涙ながらに話しているシーンだ。
確かに言っている意味は理解する。しかし、「監督生命が余命1年」の指揮官の深刻な思いと、今季限りで野球を辞めるつもりはなく、明るい未来があると信じて野球に取り組む選手たちの思いは一致するのか…。監督の思いには理解を示すが、言われなくても1日1日を大事にし、技術の向上にまい進する思いは、プロ野球選手なら誰もが共有している。「死生観」をも漂わせる監督の言葉は重すぎて、まともに受け止めるならば選手たちから笑顔が消えてしまうのでは…とさえ心配する。「今季限りでの退任」をキャンプイン前日に表明したことが「チーム、選手のため」になる根拠はいくら頭をひねっても思い浮かばない。
では「俺のため…」はどうなのだろうか…。
わずか5厘差でリーグ優勝を逃した昨年オフ、球団には辞意を伝えたが慰留され、1年契約で契約を更新した。その時にどんなやり取りがあったのかは分からないが、慰留した藤原崇起オーナー兼球団社長は1月1日付人事で球団社長を外れた。最も熱心に慰留した谷本修球団副社長も4月1日付人事で電鉄本社のスポーツ・エンタテインメント事業本部長に就任。オーナー代行に就任するが、球団の現場から離れる。後ろ盾だった2人が離れていく。矢野監督の孤立感、孤独感は相当だったろう。
矢野監督とともに今季を最後まで一緒に戦う気持ちだった谷本副社長は人事異動に〝抵抗〟したそうだ。それでも最終的に屈した際に「大きな力が働いた」と関係者に無念の思いを漏らしている。見えない「大きな力」が進もうとする方向性を指揮官も身近に感じ、自らの退路を断つことで周囲に予防線を張ったと言えなくもない。今季だけは選手起用や采配に対する全ての批判に対してこう言えるからだ。
『俺は今季限りで辞めるのだから、最後は好きにやらせてもらう。どうしてあそこで投手交代? 辞める覚悟で決めたんだ』と…。
なるほど「俺のため…」の根拠だけは思いついた。(特別記者)