フェイスブックに政府を批判する投稿をしただけで、一般国民が逮捕される国がある。
世界遺産アンコールワットで知られ、多くの日本人観光客が訪れるカンボジアのことだ。
5年に1度行われるカンボジア総選挙を控えた2018年5月。
「政権と国王が手を組み、最大野党を解党に追いやった」とフェイスブックに書いた50歳の学校教員が身柄を拘束された。
その投稿をシェアしただけの70歳の床屋さんも続けて逮捕された。
これは珍しいことではない。フン・セン政権をネットで批判したり、人権弾圧に抗議したりする人々が次々に逮捕されているのだ。
現地での取材を振り返る。
【取材=高橋智史(フォトジャーナリスト)構成=安藤伸一(秋田魁新報社)】
弾圧。逮捕。暗殺までも
「人が集まる所で、政治の話は絶対にするな。電話もやめた方がいい。盗聴や密告の危険もあるんだ。注意しろ。逮捕されるぞ」
2017年9月、首都プノンペンに住むカンボジア人の友人が私にこうささやいた。
その少し前、政府への抗議デモの取材現場でよく顔を合わせていたオーストラリア人のビデオジャーナリストがスパイ容疑をかけられ、投獄されたばかり。
友人はフォトジャーナリストとして活動する私の身を案じて忠告してくれたのだった。
政権に批判的なメディアへの弾圧や、野党リーダーの逮捕。
政権の横暴を追及する言論で知られる政治評論家の暗殺…。
この国ではそんなことが次々と起こる。人々は口をつぐみ、街中で政治の話をする人は誰もいなくなった。
私は身体の回りの空気がじわじわと搾り取られるような思いがした。
自由な意思を奪われた世界はこんなにも息苦しいのか。
世界が高評価も…ある新聞社の危機
日刊英字紙「カンボジア・デイリー」が、フン・セン政権から突如「未払いの税金」を支払うよう命令された。
2017年8月上旬のことだった。日本円にして約6億9千万円。同紙にとっては身に覚えのない巨額の請求である。
カンボジア・デイリーは「これまで納税義務を適正に果たしてきた」と主張。
政府に"財務台帳の提出と公正な監査"を求めたものの、拒否された。
「政府に批判的なメディアを狙った、政治的動機に基づく脅しである。報道の自由は危機的な状況だ」
欧米に本部を置く、複数の国際NGOはこう非難した。
カンボジア・デイリーは、内戦後初の日刊英字紙として1993年に創刊された。
立ち上げたのは米誌「ニューズウイーク」の日本支局長を務めたジャーナリスト。
フン・セン政権の脅迫に屈することなく、カンボジアで数少ない独立・公正な報道を貫き、世界的に高い評価を受けていた。
私はその姿勢に心から共感し、2014年から写真を掲載してもらっていた。
だが、フン・セン首相は「カンボジア・デイリーは盗人だ。支払い不能なら廃刊し、国を去れ」と発言。
9月4日までに税を納めなければ、資産凍結と強制捜査に踏み切ると通達した。
政権に目を付けられることを恐れた広告主たちは次々とカンボジア・デイリーを離れていった。
スパイ容疑まで…徹底した"口封じ"
8月下旬にオフィスを訪れた私に、カンボジア・デイリーの女性スタッフはこう語った。
「(納税期限の)9月4日を最後に廃刊することになった。サトシの写真も掲載できなくなる。もう手の打ちようがない」
同じころ、「ラジオ・フリー・アジア」(RFA) がプノンペン支局の閉鎖を発表した。
アメリカ資本のラジオメディア。カンボジア・デイリーと競うように社会問題や人権問題の最前線を取材し、政権の横暴を追及してきた。
情報省が30以上のラジオ局の閉鎖を宣告し、公正な報道が事実上不可能になったため、撤退を余儀なくされた。
その後、RFAのジャーナリスト2人がスパイ容疑を着せられ投獄される事態も生じた。
政権に不都合な事実を報道するメディアが次々に姿を消していく。
御用メディアだけが生き残り、政権を擁護、称賛する声ばかりが社会に白々しく響き渡る…。
危機感ゆえに。暴走する政権
カンボジア・デイリー廃刊の前日。9月3日未明、衝撃的な事件が起きた。
フン・セン政権と対峙してきた最大野党「カンボジア救国党」の党首、ケム・ソカ氏が逮捕された。
人権活動家としても知られる同氏は、自宅を100人以上の警官に囲まれ、令状もないまま連行された。
その後「国家反逆罪」の罪名でベトナム国境の辺境の刑務所に投獄されることになる。
翌日、カンボジア・デイリーの歴史を閉じる最後の紙面には、後ろ手に拘束されて連行されるケム・ソカ氏の写真が掲載された。
「政権は完全なる独裁に没した」という大見出しも躍らせる。それが24年間にわたり権力の横暴と闘い続けてきたカンボジア・デイリーの意地だった。
ケム・ソカ氏投獄の背景には、救国党が2013年の総選挙と2017年の地方選挙で大躍進し、政権が危機感を抱いたことがあるのは間違いない。
救国党は、野党政治家として長年フン・セン政権と敵対してきたサム・レンシー氏の「サム・レンシー党」と、ケム・ソカ氏の「人権党」が合流して2012年に創設された。
強権体質を強めていた政権に対抗勢力が生まれたことに、国民は大きな期待を抱いた。
2013年の総選挙は大接戦となり、救国党の獲得議席はフン・セン首相の人民党に肉薄した。
さらに政権による選挙不正疑惑が噴出。政治の変革を求める国民の願いは大きなうねりとなり、プノンペンの目抜き通りを数万人が埋め尽くす抗議デモが連日繰り返された。
こうした動きにフン・セン政権は強硬路線を一層強めていく。
“独裁体制”の完成
2015年末、国の窮状を各国に訴えるために外遊中だった救国党党首サム・レンシー氏に逮捕状が発行された。
容疑は「国家侮辱罪」。逮捕を避けるため、最大野党のリーダーは海外亡命生活に追い込まれた。
サム・レンシー氏に代わり党首となったケム・ソカ氏の下、救国党は2017年6月の地方選挙を戦った。
翌年の総選挙の前哨戦といえるこの選挙で、救国党は大きく議席を伸ばした。
ケム・ソカ氏の逮捕は、その選挙からわずか3カ月後の出来事だった。
政権はその後、「政党の幹部が罪に問われた場合、その党は解党しなくてはならない」という、改正したばかりの政党法を盾に、救国党そのものを解党に追い込んだ。
対抗勢力の排除に成功したフン・セン政権は、2018年に総選挙を断行する。
これには内戦が終結した1990年代からカンボジアの民主主義構築を支えてきた欧米諸国が反発。
選挙への支援を停止するとともに、監視団の派遣も見送る決断を下した。
一方で日本は、この総選挙に8億円相当の支援を供与した。
中国という「後ろ盾」
各国から非難の声が上がる中、フン・セン首相は「反逆者たちの排除に成功した」「今後10年は私が首相を務める」と宣言。
総選挙は、対抗勢力がない中で与党・人民党が全125議席を占めるという結果に終わった。
対立する政治家や政党、自らに批判的な活動家やメディアといった全ての抵抗勢力を排除し、権力を完全掌握する…。
2018年までの数年間で起こったこれらの出来事は「独裁国家のつくり方」そのもののように私には思えた。
欧米諸国が批判を強める中、フン・セン首相が強権的な姿勢を崩さないのは、中国という後ろ盾があるからだ。
世界第2の経済大国は、巨額の経済援助やインフラへの投資のみならず、軍事的にもカンボジアとの結びつきを強めている。
虐殺。強制労働。悲劇の国で人々は
1970年代から政治動乱が続いたカンボジア。
ポル・ポト政権下で170万人ともいわれる国民が虐殺や強制労働で命を奪われ、政権が倒れた後は激しい内戦が続いた。
そして1993年、国連の監視下で第1回総選挙が行われ、ようやく新たな政権が誕生した。
ベトナムの強力な後ろ盾を得て、内戦中の1985年から首相の座を得ていたフン・セン首相はこのとき、新政府の第2首相に就いた。
そして1997年の軍事クーデターによって第1首相のラナリット氏の勢力を武力で駆逐し、現在の地位を確立した。
私が初めてカンボジアを訪れたのは2003年、日本大学藝術学部写真学科で学んでいた大学2年のときだった。
大学に入学する前に通っていた専門学校で国際協力について学ぶ中、カンボジアの壮絶な現代史を知り、人々の暮らしや内戦の傷跡を取材したいと願ったのがきっかけだった。
初めて降り立ったプノンペンの街。
朝も昼も夜も、人々の生きる躍動が強烈に街に映え、そのパワーに圧倒されながら幾度もシャッターを切った。
その陰では、巨大な「ごみ山」で換金できるものを拾って生きる子どもたちや、人身売買の被害に遭った女性たち、地雷で手足を失った戦傷者や、ポル・ポト政権下で親族の多くを失った人々が静かに生きていた。
目の前で"逮捕"も…闘う姿追って
各地で出会う人々の思いを聞き、その姿を目にすればするほど、机上でしか物事を捉えていなかった自分自身の無知と小ささを、痛いほど感じた。
心に突き刺さるような出会いの中で、一つの決意が生まれた。
カンボジアに必ずまた戻りたい。
この国に生きる人々から学び、大きな力に虐げられ、弱い立場に追いやられていく人々の届かぬ願いを見つめ、託された思いを伝え続けていきたい。
そして、社会を変えていく温かい思いを繋げるような、心ある関心の輪が広がるきっかけを、写真を通して示していきたい。
大学卒業後の2007年4月、私はカンボジアの地にしっかりと足をつけ、取材し伝える覚悟を固め、プノンペンに移り住んだ。
2016年7月には、フン・セン政権に異を唱え続けた著名な政治評論家ケム・レイ氏が暗殺された現場に駆け付けた。
同年8月には、土地の強制収奪問題に取り組む活動家テップ・バニー氏が、政権に対する抗議デモの最中、私の目の前で逮捕・連行された。
不条理がまかり通るこの国にも、自由と民主主義が確立された未来を願い闘う人々がいる。
「屈せざる人々」の姿を夢中でカメラで追いながら、2018年までの約11年を現地で過ごした。
帰国宣言。政権と闘う決意
故郷の秋田魁新報社から出版した写真集「RESISTANCE カンボジア 屈せざる人々の願い」が、2019年4月に「写真界の直木賞」と呼ばれる土門拳賞を受賞した。
強権政治に屈することなく闘い続けるカンボジアの人々の姿を、少しでも多くの人に伝えるきっかけになったのがうれしかった。
受賞を記念する展覧会や講演を日本で続ける中、大きなニュースが飛び込んできた。
海外亡命に追いやられていた元救国党党首サム・レンシー氏が、11月9日の「カンボジア独立記念日」に帰国することを宣言したのだ。
同じように亡命していた元副党首や支持者たちも一斉帰国し、フン・セン政権と闘う決意を明らかにした。
いても立ってもいられなくなった私は、カンボジアに舞い戻り、独立記念日の前後に起こる出来事を取材することにした。
阻止された帰還。抵抗の火は…
フン・セン政権は「サム・レンシー氏が帰国すれば即座に逮捕する」と表明した。
国内に厳戒態勢を敷き、50人以上の救国党関係者や支持者を次々と逮捕する締め付けを行った。近隣諸国に対しては、サム・レンシー氏やその関係者の入国阻止に協力を要請した。
亡命先のパリからバンコク経由でカンボジア入りしようとしたサム・レンシー氏は、タイ航空への搭乗を拒否された。
別の航空機でクアラルンプールまでたどり着いたものの、マレーシア政府からカンボジアへの出国が認められなかった。
フン・セン政権との闘いに再び火を着けることを狙った元最大野党党首の帰還は、結局実現することはなかった。
2017年に逮捕されたケム・ソカ氏は、約1年間の投獄の後に釈放され、一切の政治活動を禁じられたまま、さらに1年間、自宅軟禁状態に置かれた。
現在は、軟禁状態から解放されたものの、依然として政治活動と海外渡航は禁止されたまま、政権の監視下に置かれている。
EU諸国は、組織的な人権侵害が継続しているとして、貿易に関する経済制裁を発動。カンボジアに圧力をかけている。
しかし、声を上げる人々への弾圧と投獄は後を絶たず、一人、また一人と亡命者が生まれている。
国際連合人権高等弁務官事務所は今年9月、カンボジア政権に対し、投獄された人権活動家らの「即時・無条件での釈放」を求める声明を出した。
いつか社会の溝が消えるときに
反対する者を「裏切者、反逆者」と呼び、融和を図ろうとせず、恐怖で抑えつけるだけでは、分断は決して終わらない。
罪なき罪を着せられ、牢に閉じ込められた人々の心の傷と遺恨も易々と癒えるものではない。
ポル・ポト政権と内戦という途方もない悲劇を乗り越えた人々が、自由と公正が確立された新たな祖国を作るために投票を行った1993年の第1回総選挙。
あの時に、彼らの描いた未来は、今ここにあるのだろうか。
私はこれからも、弾圧の中で灯されていく民主の火種を見つけ、権力の犠牲となった人々のそばに立ち、彼らの届かぬ思い、託された願いを伝え続けていきたい。
そしていつの日か、大きな溝が社会から消え、人々の望む未来がカンボジアにもたらされた時、私は彼らの笑顔を一番近くで見つめ、シャッターを切っていたい。
※この記事は、秋田魁新報によるLINE NEWS向け特別企画です。
高橋智史(たかはし・さとし)
フォトジャーナリスト。1981年秋田県生まれ。日本大学藝術学部写真学科卒。大学在学中よりカンボジアの社会問題を取材。2007年から2018年までカンボジアの首都プノンペンに在住、近年は同国の人権問題を中心に取材活動を続け、国内外のメディアに写真が掲載されている。2014年「名取洋之助写真賞」、2016年「三木淳賞奨励賞」、2019年「土門拳賞」。著作に写真集『湖上の命』(窓社)、フォトルポルタージュ『素顔のカンボジア』(秋田魁新報社)、写真集『RESISTANCE カンボジア 屈せざる人々の願い』(秋田魁新報社)。
https://www.satoshitakahashi.info/
※掲載の記事・写真の著作権は筆者に帰属しており、日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。内容の無断使用、無断転載を禁止します。