12月中旬、秋田市北部の金足農業高校グラウンド。夏の甲子園で有名になった校歌の歌詞のように白く凍った土を踏みしめ、吉田輝星は黙々と走っていた。
高校生として最後の大会となった10月の福井国体の後も、毎朝6時に起き、7時前に部室に入る。授業前にウエートトレーニングをこなし、放課後は1時間ほどランニングする。短い距離のダッシュを繰り返したり、バッテリーを組んできた菊地亮太を相手にキャッチボールしたりすることもある。
金農野球部は秋田県下でも猛練習で知られる。学校周辺の田園地帯が雪に埋もれる長い冬も、吉田は長靴を履いて走り続けることで強靱な体を作り上げてきた。年明けの合同自主トレから始まる本格的なプロ生活を見据え、残り少ない高校生活の中でも自らを鍛え抜く。
「ギアチェンジ」の片鱗は中学時代から
2015年7月、秋田市の八橋球場。吉田は天王中(潟上市)のエースで主将として「全県少年野球大会」に臨んでいた。硬式ボールを使うリトルシニアリーグが盛んではない秋田県にあって、軟式ながら中学ナンバーワンチームを決める重要な大会である。
天王は部員15人の小所帯だったが、地区大会を勝ち抜き21年ぶりに全県の舞台に立った。大会屈指の速球派右腕との呼び声が高かった吉田と打線がかみ合い、1、2回戦を快勝し準々決勝にコマを進める。
相手は、春季県大会2回戦で当たり、延長八回(七回制)の末に0―1で敗れた横手南。吉田は「今度こそ自分がゼロに抑えて勝つ」と強い気持ちでマウンドへ向かった。
試合は吉田と横手南のエースとの白熱した投手戦。0-0のまま延長に突入した。十一回表に天王が1点を先制。2死満塁で打席を迎えた3番・吉田は走者一掃の二塁打を放った。
「1点取ってくれれば、守り切る自信があった」
吉田の球威は延長に入っても衰えることなく、横手南から計11三振を奪って完封、春の雪辱を果たした。
吉田の投球は、この大会を取材した秋田魁新報の佐藤亮真記者(29)に鮮烈な印象を残した。
「ピンチになればなるほど切れが増すストレート。甲子園で『ギアを上げる』と話題になったが、その片鱗は中学時代からありました」
もう一つ、佐藤の印象に残っているのは取材に対する吉田の受け答えだ。
「聞いたことに素直に答えてくれず、短く返事をするだけ。生意気盛りの中学生という感じで、取材はやりにくかったです」
能代一との準決勝で、吉田は四回のピンチに3点を奪われ、天王は1-3で敗れて決勝進出はならなかった。
それでも関係者の間では、吉田のストレートが大会を通じて最大の話題となった。高校でどれだけ成長を見せてくれるのか―。周囲の期待を背負い、吉田は父の母校である金足農業高校に進む。
大阪からやってきた強力ライバル
金農は夏の甲子園で1984年ベスト4、1995年ベスト8という輝かしい成績を誇る。OBには中日で最多勝のタイトルを取った小野和幸、ヤクルトの守護神・石山泰稚らがいる。県内では強豪校の一つに数えられるが、2007年夏以来、甲子園から遠ざかっていた。
金農にとって11年ぶりの甲子園で、秋田県勢103年ぶりの準優勝という快挙の立役者となった吉田。「県内屈指の好投手」から「高校球界ナンバーワン右腕」へ成長を遂げた背景には、強力な同期のライバルの存在があった。
明桜(秋田市)からロッテにドラフト4位で指名された山口航輝である。
隣町にある父の母校に進んだ吉田と対照的に、山口は大阪から「野球留学」で秋田にやってきた。「100回大会で甲子園へ行く。投手でも打者でも秋田で1番になる」と明確な目標を胸に抱いていた。
2人は1年から公式戦で登板機会を得たが「いいピッチャーだな」とお互いを意識するようになったのは2年になってから。ともに球速140キロを超えるストレートを身に付けていた。夏の秋田大会では、エースで4番として決勝でぶつかった。
この時は明桜が5―1で勝利した。明桜打線は甘い球を逃さず吉田から10安打を放った。対する山口は抜群の球威で打者をねじ伏せ、五回まで無失点。だが、アクシデントが起きた。
五回に四球で出塁した山口は、吉田の素早いけん制で思わず右腕から帰塁し、右肩を負傷した。
「けん制がうまいと聞いていたが、あそこまで速いとは思っていなくて。自分は投手だから、手から戻るなんて普段はしない。たぶんあれが初めて」
甲子園はライトで出場したが初戦敗退だった。
一方、2年生エース同士の戦いに敗れた吉田は「本当に悔しかった。あの負けを忘れることはない」と雪辱を誓った。
冬場のトレーニングはこれまでになく苛酷なものとなった。膝まで埋もれる雪の中、チームメートを背負って走り込みを繰り返した。その成果もあって、腰周りは5センチ増え、翌年夏には105センチとなっていた。
山口の右肩は、冬を越して3年生になっても完治しなかった。しかし「打者でも秋田で一番になる」という目標は現実になろうとしていた。春の公式戦から本塁打を打ちまくり、長打力と勝負強さは他チームを恐れさせた。
100回目の甲子園出場校を決める夏の秋田大会。吉田は初戦で自己初の球速150キロをマークし、金農は順調に決勝まで勝ち進んだ。山口は主将で4番としてチームを引っ張り、準決勝は本塁打を含む3安打4打点の活躍で勝利に導いた。
2年連続で決勝の舞台で相まみえた吉田と山口。
「打者の山口をイメージして練習してきた。決勝で倒さないとすっきりしない」。吉田はこんな思いを抱いてマウンドへ上がった。
一回に訪れた最初の勝負。山口は一度もバットを振ることができなかった。それまで吉田の直球を「速いことは速いが、打てない速さではない」と思っていたが、最後の球速145キロに手が出ず、見逃し三振。「気付いたらキャッチャーに来ていた。えげつない球だった」
2打席目は一飛。3打席目は変化球で空振り三振。金農2点リードで迎えた九回、4度目の勝負が回ってきた。
打席の中で山口は「これが最後。楽しんで終わろう」。吉田も「最後になりそうな雰囲気」と感じていた。
渾身のフルスイングで向かっていった山口。2球目はホームラン性の大ファウルになり、球場に歓声とどよめきが入り交じる。2人は笑顔で視線を交わした。
そして、1ボール2ストライクからの5球目。吉田の変化球に山口のバットが空を切る。「自分らしくはなかったが、勝負の世界なので」と吉田。2―0で金足農が逃げ切り、甲子園出場を決めた。
吉田は試合後「おまえの分まで頑張るから」と声を掛けた。「負けて悔しいけど、向こうの完全勝利」(山口)、「努力なしではかなわない相手だった」(吉田)とたたえ合った。
甲子園でも堂々の投球を見せた吉田。強豪横浜との3回戦では「レベルが違う相手」と認めた上で、縦のスライダーを投げた。大舞台で慣れない球種を使う器用さを見せつけたが、実は「山口に1回だけ使った」という球だった。宿敵に対して効果的に使えたという裏付けがあってのものだった。
2年生の夏、吉田のけん制球をきっかけに右肩を負傷し、マウンドに上がることができなくなった山口は、打者として長打力に磨きをかけ、プロへの道を切り開いた。プロで対戦したい投手を問われると「吉田をまず打ちたい。そこからもっとすごい投手と勝負したい」と対抗心をむき出しにする。2人のライバル物語はプロのステージで続く。
「チームキャプテン」任命、メンタルも成長
甲子園でスターダムにのし上がった吉田の成長ぶりを、2年続けて秋田の高校野球を取材してきた大久保瑠衣記者(35)はこう見る。
「体力、技術面で伸びたのはもちろん、メンタル面で成長したことが大きかったと思います」
2年生エースの昨夏は「俺の力で勝たなくては」という気張りが強過ぎるように思えた。秋に新チームになり、吉田は監督から主将とは別に「チームキャプテン」という役割を与えられた。チーム全体に目配りし、練習では積極的に仲間にアドバイスを送った。
「仲間を信頼し、試合中に『抜くところは抜く』ことを覚えたのでしょう。昨年は試合終盤にコントロールを乱したとき、バテているのが顔に出ていることもありましたが、今年はそんな場面はみられませんでした」
進路表明、ドラフト会議、プロ入団発表―。吉田の会見には多くの記者が集まり、新聞・テレビで一挙手一投足が報じられる。質問者の目をまっすぐ見据え、自分の言葉で真摯に答える姿に、中学時代の吉田を取材するのに苦労した佐藤は「人間的にも大きく成長したな」と感じた。
11月23日、日本ハムの一員となった吉田は、他の新人選手とともにクラーク博士像が立つ札幌市の「さっぽろ羊ケ丘展望台」を訪れた。ここでは誰でも夢を紙に書いて、像の台座のポストに入れることができる。
「日々進化して日本一の投手になる。野球だけでなく人間としても成長する」
そう記してポストに投函した吉田。秋田よりも寒い北の大地で、どんな進化と成長を見せてくれるだろうか。