Nintendo Switch向けの対戦アクションゲーム『大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL』(以下、スマブラSP)にて、先日最後の追加ファイター「ソラ」が発表され、大きな話題となっている。
【画像】空中戦で多数のワザを繰り出すソラは空中戦の覇者に?
ソラはスクウェア・エニックスの人気ゲーム『キングダム ハーツ』における中心的なキャラクターだ。最初に『キングダム ハーツ』がリリースされたのは2002年だが、軽快なアクションと壮大なユニヴァースによって人気を博し、最新作の『3』を含めれば全世界で3200万本売れるなど、ゲーマーから長らく愛されている。
ゆえに、シリーズの顔ともいえるソラも「いつか『スマブラ』に出してほしい」という願望を持つ者も多かった。事実、『スマブラSP』ディレクターの桜井政博氏によれば、公式サイトで行った新規参戦キャラクターのアンケートでも、堂々トップがソラだったという。
ではどうして「ソラ参戦」は長らく実現しなかったのか……そう、実現できないだけの理由があった。(ある程度ゲームファンは察するように)ソラには「全ゲームの中で最も参戦が難しいだけの理由」があったのだ。
それはソラというより、ソラが持っているキーブレードについている「アクセサリー」にある。それはどう見ても、ミッキーマウスのシンボル。3つの円が重なった、全世界のエンタメの象徴たるディズニー社そのもの……。そう、『キングダム ハーツ』とはソラたちが数々のディズニー世界を冒険し、ディズニーキャラクターたちと交流するという、当時も今も前例のない、とんでもないビデオゲームなのだ。
だから、ソラをスマブラへ参戦させることは、ディズニーキャラクターが任天堂のゲームへ登場するのに等しい。事実『キングダム ハーツ』の規約には必ず「(C)Disney. Developed by SQUARE ENIX」とある。ソラ参戦の発表配信にて、桜井氏は「えぇー!」とわざとらしく驚いてみせ、「ソラの参戦がいかに難しく、ハードルが高いことか、事情を察してもらえると思う」「他のファイターが一人増えるのとは意味合いが異なる」と話すが、「事情」を鑑みれば、これでもかなり控え目に表現していると言えるだろう。
スマブラのソラ参戦は、ビデオゲーム史に残る偉業として間違いなく刻まれるだろう。しかし、「ローマは1日にして成らず」と言うように、ソラ参戦は桜井政博が長いキャリアの中で到達した一つの頂点(あるいは、それさえも道中なのかも)に過ぎない。
今回はこの「ソラ参戦」を機に、世界中のファンを楽しませ続けた奇跡のゲーム『スマブラ』と、その『スマブラ』の生みの親にして、いまも同作に貢献し続ける日本が誇る伝説的ゲームデザイナー、桜井政博の軌跡を辿りたい。
・19歳で500万本売れるゲームの企画書を書き上げる
桜井政博は1970年、 東京都の武蔵村山市に生まれる。桜井は幼少期からゲームを嗜み、4~5歳のころには「ブロック崩し」のようなゲームに触れ「テレビ画面の中のモノを自分で操作できる強烈な感動」を受ける。任天堂が1983年に発売したファミリーコンピュータは当日に購入し、宮本茂、堀井雄二などのレジェンド世代の作ったゲームをプレイし、吸収していく。
なかでも1984年、半年分の小遣いを貯蓄して購入した『ファミリーベーシック』は、桜井がゲームクリエイターを志す動機となった。ファミリーベーシックとはファミコンと接続してBASICのプログラミングを可能にする周辺機器で、たった2000バイト未満であったが、すでに中学生にしてゲームを作ることの喜びや難しさを桜井は知る。
その後、桜井は一度電気工学の高専に入学するが、「自分がやりたいことではない」「ビデオゲームという興味深い娯楽そのものを深く知り尽くすことで、スペシャリストになるべきだ」と考え、普通高校に編入。それからはアルバイトをして新旧こだわらずゲームソフトを購入し、最後まで遊んでは「何が面白いのか」を研究するという、いまも続く「ゲーム研究」の習慣を確立する。
この「ゲーマーでありながら、ゲームクリエイター」という出自は、ゲームフリーク(ゲーム愛好家)という同人サークルから始まり『ポケットモンスター』を生み出した田尻智(1965年生)と並び、いわばゲームクリエイターの第二世代と言える。宮本茂が自然の中で培った遊びの感覚を作品にリキッドに反映させたのに対し、田尻や桜井は「遊びの感覚」に加え、すでに成功した作品を研究する「ゲーマー力」によって新しい地平を拓いている。
かくして1989年、桜井は高校卒業とともにハル研究所に入社。早々にその能力を買われ、わずか1年でデビュー作となる『星のカービィ』の企画書を執筆。
すでにゲーム市場がある程度成長し、ゲームがより複雑かつ困難な内容に「成熟」していく状態に対し、『星のカービィ』は十字ボタン+ボタン1つで誰でも簡単に親しめるゲームとして設計されたもの。カービィのデザインは桜井本人がドットで一から打ち込んだものであり、まん丸でキュートな見た目でも寡黙にして無表情なその姿は、どんなプレイヤーでも感情移入できる「カーソル」として受け止められるためだったというが、そこにもゲーマーらしい桜井の目線、いわば桜井イズムが制作に活かされていると言えるだろう。
いまも続くシリーズの先駆けでありながら、わずか1年の開発期間で、桜井自らツインファミコンを駆使してドット絵を打ち込んで完成させたというのだから驚く。1992年に発売された『星のカービィ』は世界で500万本も売り上げる快挙を成し遂げ、再建社長として任命された故・岩田聡と共に、当時、経営上の問題から一度倒産する危機にあったハル研究所を救ったのだった。
桜井は続く1993年、吸った相手の能力を自分のものとする「コピー能力」で、シンプルかつ深い戦略性を生み出した『星のカービィ 夢の泉の物語』を、1996年には任天堂・宮本茂の要望で2人で協力プレイができる「ヘルパーシステム」を導入し、一方でより手軽に小さな達成感が味わえる、ワンボタンだけのミニゲームを7種類搭載した『星のカービィ スーパーデラックス』を発売。わずか26歳にして、桜井は日本有数のカリスマゲームディレクターへと成長する。
・「岩田さん」と2人で原型を作り上げた初代『スマブラ』
そんな桜井、そしてハル研究所は、NINTENDO64という新たなステージへ挑戦する。NINTENDO64は任天堂が1996年に発売したゲームハードで、任天堂にとっては初めて本格的な3Dゲームを運用可能なマシンにして、1994年に突如Playstationをひっさげてゲーム業界へ参入した巨人・ソニーへの対抗馬でもあった。倒産時には任天堂から資金援助も受けたハル研究所にとっても、ここは3Dを活かした新作で援護したい意欲が強かっただろう。
当時、ハル研究所が用意したプロジェクトは2つ。1つはアクションアドベンチャー、もう1つが桜井政博が1996年に企画書を仕上げた格闘ゲーム『竜王』である。当時『竜王』はまだ棒人間が戦うもので、竜王という仮名も、ハル研究所の会社が山梨県竜王町にあり、ゲームの背景に富士山の映る竜王町の風景の、桜井自ら撮影した写真を使った……というだけの、ごくシンプルなプロトタイプだった。
『竜王』は桜井が企画と仕様、デザイン、モデリング、モーションを担当し、そしてプログラムを桜井の上司だった岩田が書き上げる、いま思えばとてつもないドリームタッグで仕上げ(しかも当時、2人には他にメインの仕事があったため、『竜王』の作業は土日や深夜で進められていたという)、最終的にハル研究所の主力タイトルとしての開発も決定される。
岩田
当時は、いろんなソフトを手がける一方で、
本当に自分たちがつくりたいもの、
アウトプットというのを模索している時期で。
そんなときに、桜井くんが
なにかおもしろいものを考えているというので、
「それはさっさとつくって動かしたほうがいい」
ということで、
「オレがプログラム書くから、企画、書きな」
と桜井くんをうながして。
https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/rsbj/vol7/index.html
すでにこの『竜王』から、体力ゲージが存在せず蓄積ダメージに比例した「ふっとび」が生み出すスリル、2人に限らず最大4人が織りなす大混戦、平面に限らない多様なステージが生む心理的駆け引きなど、徹底して「格闘ゲームのアンチテーゼ」というゲーマー・桜井イズムが発揮された意欲的なゲームデザインは実現していた。
ただ『竜王』に限った話でもないが、どんなに優れたゲームデザインを内蔵しても、実際に手に取ってもらえなければ理解もされないのがビデオゲーム開発の常。すでに格闘ゲームは飽和状態にあり、カプコンの『ストリートファイター』をはじめとした名作、そして名キャラクターたちが認知されている中、全く新作の、それもコンソール向けの格闘ゲームがそのまま注目されるかは大きな賭けだった。
そこで、桜井と岩田は任天堂のキャラクターに参加してもらう格闘アクション、いわば『ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ』なら、他の格闘ゲームにも対抗できるのではないかと考える。たしかに、マリオやリンクたちが同じゲームで戦う姿は、当時の子どもなら誰だって想像した夢のゲームだ。しかしこれは、常識的に考えればほとんど不可能といえるほど難しい理由があった。
まず、ハル研究所は任天堂の一部署でもなければ、任天堂の子会社でもない。あくまで1ゲーム企業でありながら、もっぱら任天堂向けのゲームソフトを作る、いわゆる「セカンドパーティ」という位置づけだ。その上、ハル研究所は一度倒産し、その際に任天堂から資金援助を受けている。まして、マリオ、リンクといったキャラクターたちは1990年時点で世界的な任天堂の顔であり、しかも社内のそれぞれ異なる部署が開発を担当していた。実際、任天堂とハル研究所がどのような力関係だったのか定かではないが、客観的に考えればハル研究所の立場で、任天堂のキャラクターを「貸してもらう(岩田の表現)」ことがどれほど難しいか、想像に難くない。
しかも『スマブラ』は「ニンテンドウオールスター!」とあるが、参戦ファイター全員が任天堂だけのキャラクターでもない。例えば、サムスは『メトロイド』を原典とするキャラクターで、『メトロイド』はインテリジェントシステムズという任天堂のセカンドパーティの作品だ。
ほかにも、ドンキーコングのゲームを当時開発していたのはイギリスのレアであるし、極めつけにピカチュウ、プリンはあの『ポケットモンスター』が原典である。すでに『ポケモン』はアニメ化を含め社会現象級の大ヒットとなり、販売の任天堂とクリーチャーズ、そして開発はゲームフリークが行っていた。つまり任天堂をもし説得できたとしても、これら他の会社も説得しなければいけなかったのだ。
そのうえ、格闘ゲームというジャンルも少なからず抵抗があった。たしかに格闘ゲームは当時最も人気あるゲームジャンルだったが、主流はアーケードにあり、コンソールと比べれば大人向けな印象もあった。リンクやサムスはともかく、ピカチュウやマリオまで同じ世界観の中で殴りあうこと自体、いまでいえば「解釈違い」のような違和感がぬぐえなかったのだ。
そこで桜井と岩田は企画実現に向けて前例のない困難へ挑む。桜井は企画書を見せて相談するのではなく、(発売できるかもわからないのに)マリオ、サムス、フォックス、ドンキーの4人も動かせるデモ版を制作し、「遊べばわかります」と言わんばかりに宮本茂に直談判。「ああ、これ、遊べるね。悪くないね。」と評価を受け、宮本茂の後押しを得る。岩田もまた任天堂やそのセカンドパーティを含む企業との深い繋がりを駆使し、粘り強く交渉を重ねた。
また懐疑的なファンに対しては桜井自ら「スマブラ拳」というサイトを立ち上げ、当時としては異例の開発者が自らフランクにファンと交流してコンセンサスを引き出す。これは現在もYouTubeで100万人近くが視聴する「〇〇のつかいかた」に引き継がれた、桜井氏の姿勢といえる。
・独立後、再び岩田と共に『スマブラX』へ
だが『スマブラ』の「オールスター」が実現した究極的な理由は、岩田の人脈でも、桜井の大胆なプレゼンでもなく、ひとえに桜井が物心ついたころから開発者としてのキャリアを歩み始めた後も、心底ゲームを愛し続けるゲーマーだったからだろう。
マリオ、リンク、ドンキー、ピカチュウ……それぞれ全く別のゲームが原典でありながら、『スマブラ』という舞台では名キャラクターたちがほとんど違和感なく、しかもゲーム上のバランスも問題ないように忠実に移植され、同じ画面の中に動く。そんなことが可能なのは、天才的なゲームデザイナーにして、何より、その原典全てを遊び尽くしてしまう筋金入りのゲーマーである、桜井政博を除いては不可能だった。桜井は「オリジナルを作った人たちの顔が浮かぶ」と当時語っているように、『スマブラ』にはゲーマー桜井のリスペクトが今も込められ続けているのである。
かくして実現したのが、後に20年以上世界に愛されるゲーム『スマブラ』だった。
初代『スマブラ』にマリオとピカチュウが共演する……そんな奇跡の実現によって、『スマブラSP』に「ソラ」が参戦するに至ったのかと思えば、桜井政博の歩んだ道のりは計り知れない。なお初代『スマブラ』は発売されるや否や、すぐに話題となり日本だけで約200万本、世界では約555万本を売り上げている。
2年後、ハル研究所は続編となる『大乱闘スマッシュブラザーズDX』を発売。ミュウツーなど新たなファイター参戦に加え、何より全スマブラの中で最もスピーディかつエッジィなゲームバランスに仕上がっており、国内外では『スマブラ』新作が出ても『DX』(海外では「Melee」と呼ばれる)を遊び続ける人も少なくないほどで、ニンテンドーゲームキューブで最も売れた作品でもある。
丸一年、400日近く1日も休まず、40時間働いて4時間寝るといった、まさにクランチの極地のような状態で作ったようで、桜井の鬼気迫る執念が生み出した怪作と言えるだろう。
桜井政博はハル研究所の入社早々、画期的なアイディアから『星のカービィ』のヒットを作り出し、あの岩田聡と汲んで創り上げた『スマブラ』は、全く新しい格闘アクションのゲームデザインをベースに、任天堂とそのセカンドパーティ全てを巻き込んだ夢のゲームを完成させた。ゲーマーでありながらゲームクリエイターという桜井のアイデンティティを詰め込んだ傑作に仕上げた。
それだけに、2003年、桜井がハル研究所を退社するという発表は、業界にとっても驚きがあった。インディーゲーム文化が本格的に成立した今こそ、ゲームクリエイターが独立する事例は珍しくもないが、当時、日本でゲームを作る=ゲーム企業に所属することが基本であり、他社への移籍はまだしも裸一貫で独立する事例は非常に珍しかった。
その決断について桜井は当時、「現在の体制のままゲームを作り続けていくことに無理を感じた」「開発者や会社のためではなく、お客さんのためにゲームを作ることを理解してもらいたい」と述べている。当時(そして現在も)ゲーム業界は、桜井がゲーム業界に入った当初と比べ、徐々に「大作化」の傾向が強まっており、作品を生み出すコストが年々増加していた上、リスクを嫌った企業は徐々に姿勢を硬直化させていたのだ。
独立した桜井はセガと『そだてて!ムシキング』というたまごっちのようなゲーム、また当時のバンタイと『メテオス』という落ち物パズルを作るほか、ファミ通での連載や、各社のコンサル業など幅広く活躍。一方、『星のカービィ』や『スマブラ』など、かつて桜井が作った作品は、もう続編が見られないものと考えられていた。
だがそんな桜井を再び任天堂、そして『スマブラ』へ引き戻したのは、桜井の師であり上司、あの岩田聡だった。
同じハル研究所でタッグを汲んでいた岩田は、2002年、あの山内溥会長きっての願いで任天堂社長に就任。そんな彼が計画していたのが、革命的なゲームハード、「ニンテンドーDS」と「Wii」である。今までのゲームハードの延長線ではなく、全く新しい操作、全く新しいゲーム作品を次々に連発し、今までゲームに触れたことのないユーザーにまで届き売る傑作は、桜井が憂慮するゲーム業界の縮小を打破せしめた。
そんな「Wii」の発表直後、岩田はホテルの自室に、すでにハル研究所を辞めていた桜井を呼び「新作『スマブラ』のディレクターとなってほしい」と頼み込む。桜井は一度迷い、もし自分が引き受けなければと聞き返すと「その場合、『スマブラDX』26体のファイター含めすべて一切変更せず作るように指示する」と、岩田は徹底して桜井の作家性を尊重する旨を、逆に言えば桜井がいなければ新作『スマブラ』はファンが満足できるものに仕上がらない旨を、半ば「脅す」(岩田談)形で桜井に強く訴えた。
すでに『スマブラ』開発から退いた桜井だが、岩田を含め各関係者から「桜井が作らないスマブラは、作っても仕方ない」とさえ言われ、再び地獄の戦場、もとい『スマブラ』開発へ乗り出す。それも、当初依頼されていた案件を全て断り、東京、高田馬場にわざわざ一からオフィスを借りる。「『スマブラ』をつくるためには、本当に、すべてを捨てきらないとダメなぐらいやらないといけない」と桜井は振り返る。無論そのための環境に任天堂は全力で投資した。
かくして2008年に発売されたのが、『大乱闘スマッシュブラザーズ X』だ。全くゼロから桜井と100名のスタッフにより、Wiiという新ハードに向けて再構築された『スマブラ』はそれだけで一大事業だが、何よりも驚いたのは、ある2人のファイターの参戦だった。
それは、ソニックとスネーク。ソニックといえば、セガの大人気ゲーム『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』、そしてスネークは、コナミの『メタルギアシリーズ』の一部主人公、ソリッド・スネークだ。そう、元はと言えば「ニンテンドウオールスター!」だった『スマブラ』に、ついに任天堂「外」のキャラクターが参戦してしまったのである。
特にスネークは、あの『メタルギア』の小島秀夫監督と桜井が交友があった上、コナミとの相互理解、一方で任天堂の世界観との合意、全ての関門をクリアしたまさに一大事業。さらにスネークばかりではなく、専用アクションの無線を通じてキャンベル、オタコン、メイ・リンなどお馴染みの面々まで「参戦」する豪華ぶりだった。これは任天堂作品でありながら、桜井はあくまで独立した立場故に実現した、まさに『スマブラ』のドリームだろう。
さらに2014年、Wii Uと3DSで同時展開された『大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS / Wii U』では、カプコンの『ストリートファイター』からリュウ、『ロックマン』からロックマンが、プラチナゲームズの『ベヨネッタ』からベヨネッタが、そして極めつけにスクウェア・エニックス『FINAL FANTASY VII』からクラウドが参戦した。
クラウドは、スクエニ作品そして『FF』として最も人気のあるキャラクターに選ばれただけに長らく参戦が希望されたキャラクターだった。ただしゲーム業界的には『FF7』は当時のスクウェアが任天堂からソニーへ供給先を変更したこと、デジキューブの流通に際して任天堂の手法に批判的だったこと、創業者同士の諍いなど諸々が絡み、要はスクウェアと任天堂が決別する象徴的な作品でもある。結局、スクエニ合併後、和田洋一社長の謝罪で両社の関係は回復するものの、それでも『FF7』は両社にとって亀裂を生んだ後ろめたい作品だったことに違いない。
その「両社」のゴタゴタに縛られないのも、フリーという立場を選んだ桜井ならではだったのではないか。「クラウド参戦」は任天堂という社の枠組みさえ超えた可能性を見せた。
そして2018年、ついに『大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL』が発売。ついに「全ファイター参戦」が発表され、これまで『スマブラ』新作発表の度にあった「誰がリストラされるのか」と不安視を全て覆される。
そのファイター数、DLCを含めれば82体。82体である。桜井氏自身「今回全員参戦は奇跡で、最初で最後だと思っています。」と述懐するように、これまでも、そしてこれからも、およそ一本のゲームで実現する究極のクロスオーバーが『スマブラSP』だった。
マリオ、ソニック、ピカチュウ、スネーク、クラウドといった歴代ファイターに加え、『スプラトゥーン』からインクリング、『悪魔城ドラキュラ』からシモン、リヒター、更にダウンロードコンテンツでは『ペルソナ』からジョーカー、『バンジョーとカズーイの大冒険』からバンジョー&カズーイ、さらには『ドラゴンクエスト』からは各作品の勇者が駆け付けた。
なかでも『Minecraft』からスティーブ&アレックスが参戦したことは、『スマブラ』初、完全な独立資本で最初作られたゲーム=インディーゲームの参戦として非常に感慨深かったことを筆者は記憶している。
そして10月に発表された、ソラ。その実現がどれほど難しいかは冒頭に書いた通り。一体どれほど長く、そして複雑な交渉があったのか定かではない。しかし、ついに『スマブラ』はビデオゲームにおいていまだかつてない、そしてこれからも恐らくない、国家も、企業も、媒体さえ超えた、究極のコラボレーションゲームをたった一本で結実させた、文化遺産級の作品にまで到達した。
桜井曰く、この『スマブラSP』は、いまは亡き岩田からの、最後のミッションだったという。そして『スマブラSP』を最高のゲームにすることこそ、岩田に対する何よりの手向けだった。(参考:https://www.famitsu.com/news/202001/31191758.html)
桜井は岩田について、生涯でいちばんの上司であり、いちばんの理解者だったと振り返る。同時に岩田は、決して怒りを表面に出さない人徳者であり、部下の主張をすぐに理解できる頭脳明晰な人間であり、未開拓の仕事も勉強と共に挑戦する努力の人であり、矢面に立ってでもファンに説明するオープンかつサービス旺盛な人であり、何より人の気持ちがわかる人だったとも語る。
21世紀の任天堂が歩むべき道筋を作った岩田と、前代未聞のクロスオーバーを成し遂げた桜井。2人はただ初代『スマブラ』のプロトタイプを作った時のみならず、『スマブラDX』の開発が難航している時、また一度フリーになった桜井を『スマブラX』に引き入れた時、『スマブラSP』にソラが参戦するまでの間、幾度も支えあい、またゲーム業界を牽引する関係だったのではないかと思う。
『スマブラSP』のソラ参戦。そこへ至る道筋は、筆者には想像もできないほど長く、険しい道のりだったに違いないが、そこに希代のゲーマーにしてゲームデザイナー桜井政博と、桜井にとって最良の上司であり理解者だった岩田聡、この2人がいなければ、決して実現することはなかっただろう。(ジニ(Jini))